第18話 追憶・炎のうえで踊れ①
かつてふたりのアラトヴァ王から、私の聖女、と、リランは呼ばれていた。
*
それはリランの前世——百五十年前にアラトヴァの聖女であった少女リエランティアの記憶。
ひとり目の王に、リランは恋をしていた。
*
その頃の神殿は、いまよりももっと小さな、組織とも呼べないような集団だった。
神殿に入ることは王家に仕えるのと同じ。なぜなら国を統べる者は、神の代理人にも等しいのだから。
かつてのリランが愛した男は、出会った頃はまだただの王族だった。賢くて優秀で、けれど傍流の王族ゆえに陽の目を見ない男。希望と野望をうまく隠し、しかし何年もずっとくすぶっていた男。
彼の領地に聖女として配属された時、リランはふたつのことを思った。
『優しそうなひと。このひとに仕えるなら、凡庸なりに、平穏な日々を送れるでしょう』
『そして可哀想な方。王族として、陽の目を見ることは永遠にないでしょう』
そのどちらも外れ、リランに予知の才がなかったことは数年ののちに証明された。
優しくても、彼は凡庸ではなかった。平穏な日々も送れなかった。
彼はみずから、玉座をめぐる争いに身を投じた。リランもそれに手を貸した。リランは彼を信じ、彼の語る夢を信じた。
今よりずっとちっぽけで、拭けば飛ぶような弱小国だったアラトヴァを、周辺国に負けぬだけの国へと育て上げること。
リランは初めて、未来を語る人間と出会った。貧しく、弱く、目先の益を求めて身内同士で争うばかりだったあの国で、それでも希望を持ち続ける者がいるのだと初めて知った。
『いずれこの国は強くなる。私がそうする。他国に戦を仕掛けられることもなく、身内同士で滅ぼし合うこともない、豊かで強い国にする』
その時リランは思ったのだ——わたしは、このひとに仕えるために聖女の力を授かったのだと。
当時、リランの聖女としての力はたいしたものではなかった。
熱さ寒さで傷付かぬこと。それから多少の治癒能力。
たったそれだけ。何の役に立つのかと、リラン自身ずっと思っていた。
でも。ある時その力が、役に立ったのだ。
それはリランの死ぬ三年前のこと。リランの主人が国内でも有数の実力をつけ、それゆえに王宮から疎まれ始めた頃。
ほとんど言いがかりのような罪が主に負わされ、王命により処刑が決定された。
リランは何も考えずに、主をかばって前に立った。
「ならば陛下、どうかわたくしを火刑に処してくださいませ! 聖女として、わたくしが代わりに刑を受けます!」
彼を死なせるわけにはいかない、その思いで必死だった。
「我が主の潔白を証明してみせましょう、炎の中で踊ってみせましょう。真実我が主が無罪であれば、天なる神はこのわたくしに、傷ひとつ負わせることはないはず」
国王は不服そうな顔をしたが、承諾した。炎に炙られて死なない人間がいるとは思わなかったのだろう。
王宮の広場の前に木材が組まれ、火をつけられた。リランはその上で舞ってみせた。油が撒かれ、炎は熱かったが、リランは耐えた。もうもうとわき上がる煙の苦しさにも耐えた。そしてそれらの痛苦に死に物狂いで耐えられたなら——リランの体には傷ひとつついていなかった。
だが知らなかった者は、驚愕しただろう。生身を火に触れさせて平気でいる者などいない。
それで、リランの聖女という役柄にさらに箔がついた。
箔がついたことで、主たる彼の身にも変化があった。当時は今より野蛮で、今よりもっと純粋な時代だった。神の恩寵の篤いことは、それだけで得難い素質だった。
——彼には神の加護がある。彼に仕える聖女があれほど神の恩寵あついのだから。
火刑を目撃した貴族たちは口々に語り、やがては次第に彼を支持するようになっていった。
火刑の後、リランの傷ひとつない足に、主は薬を塗って包帯を巻いてくれた。必要ないと断ったのに押し切られ、彼の気遣いへのうれしさと気恥ずかしさを押し殺し、リランは言った。
「貴族たちのあなたを見る目が、がらりと変わりましたね」
「そうだね。でも、そのために君を、あんな目にあわせてしまった」
「あなたのためなら何度だって、炎の上で踊ってみせます」
「——私の聖女、そんなことは、二度とさせないよ」
その時、いつもの優しい笑みはなく、彼はひどく真剣な目つきでリランを見た。
リランは盲目的なまでに彼を愛した。聖女の身にありながら、女として彼に恋をした。
陰謀まみれの宮廷、血みどろの内乱、阿鼻叫喚の地獄絵図めいた戦場。どこにでもそばに付き従った。王の権威さえ盤石ではない小国ではいつだって命がけで、リランも彼も、何度も命を狙われたし、死を覚悟したことだって一度や二度ではなかった。
それでも。
彼のためなら何度でも、炎のうえで踊る覚悟だった。たとえ彼にそのつもりはなくとも、彼のためなら、彼の信じる未来のためなら、自分の命を惜しむつもりなどなかった。
彼のことを愛していた。彼の語る夢を愛していた。夢を語る彼を、愛していた——。
彼にまつわるものすべてを愛し、信じていた。
でも、彼は。あのやさしい声で『私の聖女』とリエランティアを呼んだあのひとは。
玉座に就いて数年後に、リランを殺した。方法は処刑、罪名は王に対する謀反——。
そんなはずがないことを誰よりもリラン自身が理解していた。だからこそ、リランは抗わずに兵士に捕らえられた。
何かの間違いだと思った。彼ならば、主ならば、リランが謀反など企てるはずがないことを誰よりも理解しているはずだから。
でも、でも。
逃げ出さないよう高い塔の最上につくられた牢に、彼がやってくることはついになかった。
処刑の当日、リランはようやく彼と会うことができた——それは言葉を交わすこともできず、一瞬互いの顔を見ただけの時間であったけれど。
彼はリランを火刑には処さなかった。聖職者の処刑は火あぶりと決まっているのに。
もはやリランは炎の上で踊ることを許されなかった。
城壁から吊るされた時の恐怖を今でも覚えている。今でも夢に見る。落とされる瞬間の浮遊感、風に全身をなぶられる感覚、高所から恐ろしいほどよく見えた眼下の風景。
彼はリランに目隠しをさせなかった。
リランは最後の最後まで彼の顔を見ていた。
「私の聖女」
彼はそう微笑んだ。まるで何事もなかったかのように。これがただの夢や手違いや勘違いだとでもいうかのように。
彼はいつもの、リランの聴き慣れた優しい声で、言った。
「吊るせ」
と。
だから、それがリランの最後の記憶。生きていた頃の、かつて聖女リエラティアと呼ばれていた頃の、たった一度の恋の記憶。
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