第8話
こいつの腹の底で、何が渦巻いているのかと想像すると楽しい。メイドのような家政婦がいると聞く。晩御飯にフランス料理は当たり前。ナイフフォークを数本取り揃え、外から順番に使って行く。あ、これ、映画タイタニックで言っていた。Fがそうしているとは言い切れないが。
でも、悠長に暮らしているふりして、親父さんの帰還する来年までの命に怯えていはしないか? 顔に出さないだけで、内心焦っているはず。
「三軒はしごするなんて、飲み会ってこんな感じなのかな」
ようやく見えて来た喫茶店は古ぼけたオフィスビルの二階にあるようだ。一階の空きテナントにぽつんと立てかけられた看板は、角が破損しているし、中の電球も切れている。これは期待のボロボロ純喫茶だ。スタバもくたばれ。商業主義死ね。ああ、「日本死ね」で、バズった人は幸せだな。自分の意見がニュース番組すら動かしたんだ。作家はニュース番組に石を投げられない。
「飲み会とか誘われたら行くのか?」
「どうだろうね。これから先、大学に行けば誘われることもあるかもしれない。意識を混濁させる可能性のある物質を、身体に取り込むのはできれば避けたいんだけど」
酒に弱い可能性もあるのか。これは意外だ。Fならば、酒さえも味方につけそうだ。Fの一発芸を見てみたい。忘年会には呼んで欲しい。俺のネタは何もないが。できて、タロット占いぐらい?
十代の少年に期待を寄せるなんて、俺は馬鹿か?
来年には、父親に虐待されて死ぬか、養護施設に放り込まれるか(養護施設は十九歳はアウトか?)、まあとにかく、精神的ダメージなり肉体的ダメージなりを受けて、まともでいられなくであろうFを応援したい。
もし、Fが精神的崩壊を期した場合、Twitterのアカウントは使用しなければ半年で休眠アカウントとして削除されるらしいので、作品群がいずれ抹消されることが悔やまれる。いや、スマホのスクリーンショット機能でイラスト全部を保存する方法もあるのだが、それは黙ってやると著作権違反で犯罪……。まあ、Fなら許してくれる間柄になれたとは思う。
純喫茶へ続く階段はカビ臭い。しかも、先ほど誰かがウーバーイーツを頼んだような香ばしい香辛料の匂いがする。腹が減る。
電気もなく太陽光も入らず、夜のような異空間味がある。でも、この匂いは中華料理だな。登りきると寒々しい蛍光灯が出迎え、廊下突き当りにレンガ壁の喫茶店が客を待ち望んだようにドアを開けている。ああ、コロナ対策かよ。
美人とは言えない三十代ぐらいのあどけなさの残る女性が席へ案内してくれて、冷房は鬼のように屋内を冷やしている。よしきた! 昭和世代はこうでないと! と意気込むと、Fはそっけない顔でアイスミルクティーをメニュー表で確認する。
「どこにでもあるんだから、確認する必要はないだろ。値段が気になるって柄でもないだろ?」
「うん。でも、雰囲気作りとしてね。メニューで悩める客を演じているんだ」
えー、めんどくさい奴。自分というブランドをそこまでして確立しないといけないのだろうか。
Fの
「殺意のない殺人か」
俺は先ほどの、いや、もう随分前のことのようにFの言わんとしたことを思い出した。Fは人を憎悪しないとでもいうのだろうか。
「あ、主題に気づいてくれた?」
はじめからFの死生観が気になっていただけだ。ただ、Fは自身の苦境には無頓着で、俺はそのことで苛々している。腹いせに、メニュー表の左、真ん中に鎮座しておわしまするアメリカンサンドを注文する。
「荒、ぼくの言いたいことは無差別殺人だと思ってるんでしょ?」
Fは眉を曇らせた。長い睫毛が光る。センチメンタルな演技だ。哀切な表情は俺に分かりやすくするためだろうか。だとしたら、ちょっとむかつくので、こっちもFを分析してみる。
Fは自分を定義できないアイデンティティの未確立な存在。青年に変わりつつある発展途上の自我。まあ、俺が表現できるのはこのくらいだろう。
サンドイッチは客が少なかったこともあり、割と早く運ばれてきた。Fは先にアイスティーを飲めばよかったのに、俺が食べ始めるのに合わせた。
アメリカンサンドは贅沢なトーストサンドだった。レタス、タマネギ、チーズ、トマト、ローストハムが挟まれており、昼食にぴったり。さっきからトーストばかり食べている俺もかなりの偏食家だ。ちなみにプリンはふつーに美味かった。糖分、炭水化物万歳! スマホで今暇つぶしがてら調べてみたが、なになに、炭水化物は過剰摂取すると胃に負担がかかる? 太る? インスリンが大量分泌されて低血糖になり、眠気が起きたり、集中力が低下するだと? 物書きは食ってないとやってられないんだぞ? 脳で糖質を消費するんだからな! サンド二つなんておやつみたいなもんだ。
俺がスマホをいじったことを皮切りに、Fもスマホを開いている。いや、絵を描いている。昨今、スマホに指で絵が描けるようになっているらしい。いいアプリが出たのだろう。俺が学生の頃は、パソコンで絵を描くために、ペンタブが必要だった。
「F、どうしてグロい絵を描いてくれないんだよ」
こいつの絵の本質には、死が横たわっている。
「生々しすぎるから」
「じゃあ、泣き顔を描く程度で満足できるのか?」
少しばかり挑発してみた。Fの持ちうる最高の地獄絵を開示させよ。
「さぁ、ぼくは難解なイラストを描けたとしても、ネット上ではそういう需要が今のところ見つからないから描く必要性を感じないかな。ぼくが世界を滅ぼす絵を描きたいと思ってるってこと? 心外だな。もし、そうなら個展でも開くよ。ぼくはそうなると、全世界を敵に回すような強烈な絵を油絵で描いて、こんな喫茶店で喋っている暇はなくなるはずなんだ」
こんなところで息をしているのが無駄だってか? 自殺志願者め。俺なんかと油売ってる価値がないだと。Fの中で「俺」の優先順位が低いことに怒りを覚えて、スマホを握り締める手が容赦なくテーブルにスマホを打ち付けた。Fには、俺がおっちょこちょいにスマホを取り落としたように見えるかもしれないが。Fは虚ろな目で俺の何にもしていなくて綺麗な指を見つめている。指だけがFと似ていた。だが、Fにはペンだこがある。はじめてそのことに気づいて無意識に発した敵意を引っ込めた。
「お前が個展を開かない理由は、まだ納得のいく作品がないからか。それとも、今は需要に応えて行けるところまで行きたいのか。どっちでもいいけど、俺はもっと……色々知りたいんだって」
F本人に話を聞いてもらちは明かない。なので、駄々をこねて画像をねだる羽目になった。なんだか、してやられた感。
未公開の最新イラストを見せてもらうと、そこには涙なんか一滴もこぼさない笑顔の少女がいた。
「は? マジかよ」
俺の理想のF像が崩れた。Fは一人で病み、世界を憎み無差別殺人を企てる少年。父親に犯された未成年。令和至上、稀に見る
ああ、理不尽な世界が、たった一人の少年に窓の役割を与えた。Fについていけば俺はラノベ作家になれるかもしれない。もっと早くに会いたかった。いや、同世代だったら良かったのに。俺は今日の太陽を思い浮かべる。太陽の日差しの強さは誰にも手を加えることができない。日陰を作るために屋根を設置するぐらいが限界だ。それをしてもなお、太陽そのものは消滅しない。自然に存在する。いかにも理不尽。
Fに才能という名の太陽があり、俺にはない。いや、カミュによるところの太陽が眩しいと同義。いや、言い過ぎか。俺達の差異を埋めるのは「努力」だろうか。仮にFが小説を書き、俺が絵を描いた場合、その才能はどうなるのだろう。等しくあらねばならない。だが、実際は違う。おそらく、Fが小説を書いたとしても、何かを成し遂げるだろう。何を? 新人賞受賞? まさかの芥川賞受賞? どうだろう。Fには人を魅了する何かがある。その何かは先天的なものかもしれない。もし、後天的に身についているのだとしたら、おそらくそれはFの親父によるエロい行いにおいてだ。つまり、Fは肉体と精神を資本にして成り立っている。
ところで俺はどうだ。己が犠牲になったことはおろか、人生を狂わせられた悲劇性は一切持ち合わせていない。素で何も持っていない人間だ。不幸のどん底にもいない。よって、底辺などと軽く卑下することもできやしない。ブラック企業に勤めたこともないから、脱ブラック企業だのと自虐的にSNSに晒すこともできない。じゃあ、ヒーロー性、人生においての成功体験の方はというと、こちらも特にない。履歴書に書くアピールポイントがないように、人生が薄味のカップラーメン。
そうそう、Fの世代なら多いと思うが、今の若い連中は成功体験が少ないそうだ。なんでも、自分で何かを成し遂げることが難しいらしい。それに、学校教育でも平等を重要視するあまり、運動会では一等賞がなかったりして、みんながみんな称賛される。あー、俺もそんな今どきの若い連中に生まれたかった。まあ、生年月日は変えられないからタイムマシンの開発を待つ。
俺は基本フリーターだ。成長過程における「褒められる経験」も少なかったな。微妙に体罰が残る世代だったし。体罰そのものが悪いとは思わないけど、理不尽なこともあったように思う。先生の力加減が必ずしも正しいかは分からない。叩かれた方は痛みで、叱られている内容そのものを忘れてしまうことも多かった。
Fはくぐもった目でアイスティーを飲み干した。案外早くて、もう三軒目でもやることがなくなりそうだ。俺は
「なあ、俺はFが普通の学生じゃないって知れて安心したんだ」
「褒めてるのそれ?」
「貶してねぇよ?」
俺は大げさに叫んでしまう。幸い、暗い店内に客はほとんどいない。純喫茶は常連しか来ないんだろうな。将来的にこういう落ち着く雰囲気の店が閉店しくのだろう。ここなら一時間、二時間、三時間でも、それ以上でも話し込める。
「僕も荒が、悲し気でよかったと思う」
どういう意味だよ。俺は泣いてなんかいないぞ。寧ろ、最近、ちょっと老けてないか心配で表情に暗いところはあるかもしれないが。白髪とは無縁だったのに、最近ちらほらこめかみの辺りに生えてくるしな。
「ぼくは、人の生き死にに興味を持っているけど、それを露骨にインターネット上で描くのは危険だと思っている」
「表現に規制がかかるから?」
「規制は人が勝手に決めたルールだ。ぼくの凶暴な筆致なら、規制された後も人々の心に焼き付くさ」
大した自信だ! トラウマを植えつけるイラスト、最高だ。ふいに目に入る過激なものに、人は惹かれる。
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