第7話
短編、ショートショートを含めるとこれまでに書いた小説は五十作ほどあるが、そのどれもが一次選考前後でふらふらしている。俺はもっと上に行きたい。それなのに、そいつらは地縛霊となって俺に迫る。お前が悪い! お前のせいで!
――成仏できない作品を供養する方法が見つからない。全部、俺の血と肉で、分身で、半身で、半神! いや、神は言い過ぎか。だが、男でも女のように子を産める唯一の奇跡が執筆だ!
「荒、殺意はある?」
どうだろうか。誰かを殺したい? 目の前で誰かが刺殺される非現実的で官能描写的でもある光景を思い浮かべる。喫茶店で殺戮のワンシーンを妄想するのが作家もどきだ。いや、エロいってわけではないが、むずむずするようなそわそわするような、戦慄するだけではないだろう悲劇の一場面を脳内映像で結ぶ。
人の血の色には何か興奮する作用がある。赤色を見るだけで興奮する闘牛のようなもので、某テレビ番組の格付けチェックの解答部屋が赤か青か(正確にはAの部屋かBの部屋か)選ばないといけないときに、赤い部屋はテレビの画面越しでも見ていて落ち着かないものだ。
具体的に書店員を刺殺するとしよう。そりゃ、包丁かAmazonでサバイバルナイフを買ってもいい。え? 足がつくって? 俺は完全犯罪を端から諦めている。獄中で首を吊って死ぬんだ! もちろん、犯罪者の手記として本を出してからな! あー、どうせ買うならダマスカスナイフを買いたいな。勿論、あのまだら模様がかっこいいからって理由で一択。
行きつけのTSUTAYAレンタルショップの地下にある、同系統の書店に勤務する女性店員を夢想する。背は俺より頭一つ分低い。なで肩に、くっきり浮かぶ鎖骨。その人にはやや大きすぎるきらいのあるエプロンは、膝丈まである。腕は木の枝みたいに細く、重い本を五冊も持てば翌朝には筋肉痛になるだろう。前髪を切りそろえ、人並みに小綺麗ではあるが、歯並びが悪くレジでは無表情。
探している本の在庫がないときに取り寄せてもらう段取りをしてもらうと、矢のように本棚を確認して「やっぱりありませんね」と飛んでくる。仕事熱心だが、その情熱は彼女の中にだけ蓄積されていく。それは客の心まで浸透しない。
彼女が書いたと思われる手書きのポップを見たことがある。本の紹介文は彼女の外見から想像がつかないほどおどけていて、どんなシリアス展開の本でも、それこそホラーでも、心休まる気がするのだ。赤マジックで血塗られた文字が笑っている。そう、彼女の文字はひとりよがりに笑うのだ。作品がおぞましいものであったなら、彼女はその作品から必ず明るい未来をくみ取って解釈してしまう。そして、おどけた調子で紹介してしまうのだ。
あの分からず屋を何とかしたい。
レンタルDVDの奥にひっそりと並べられた本棚。自宅から用意したダマスカスナイフで書店員の腹を刺す? 肺を狙った方が確実だろう。正直、心臓の位置は胃と被っているし、左にあるわけじゃなくて、真ん中寄りだったりする。ナイフがあばら骨に阻まれる可能性も高い。同じく骨に阻まれる可能性のある肺だが、心臓よりは面積は広いし、外して骨に当たったとしても、その骨が折れてさえくれたら肺に突き刺さってくれる。肺を損傷してくれたら出血性ショックで心臓が止まる可能性も高まる。とにかく、妄想の中で書店員は悲鳴を上げてもらわなければならない。刺されたら痛いとか何も言わずに倒れてくれそうだ。全身の力が抜けて崩れ落ちるんだろ? それから刺した犯人を驚きの眼差しで見上げる。そう復讐に狂い、醜く歪んだ俺の顔を見る。
復讐対象者はもちろん、こいつじゃない。俺は書店員の虚ろになっていく眼をしげしげと見つめ返す勇気はあるか? 持っていたダマスカスナイフを取り落とすようなへまはしないまでも、手の震えが刃に伝達するだろう。彼女の死に際、その見開いた目から色がなくなる。ほどなくして救急車のサイレンと警察がやってくるんだ。早いけど、ここは脳内早送りで。ストップ。スロー再生。
俺は体格の良い警察に拳銃を突きつけられる。骨と皮だけに衰えた俺は半ば狼狽える。(きっとカップ麺すら食べるのが億劫になっているだろうから、痩せるはず!)映画だと盛り上がる場面だ。だが、状況とは裏腹に俺は半泣き状態かもしれない。よくよく考えると体育の成績も悪かったからな。人生オワタ状態だと頭の隅で自分のことじゃないように考える。それか、無表情のままあっけなく取り押さえられるか?
俺はどっちもあり得そうだとえずいた。さっきのオイルサーディンの塩辛い味が喉から胃酸と一緒に歯茎まで届いた。あぶねー、吐くところだ。Fの前で醜態は晒せない。
「具体的に憎い対象はいない……な」
憎しみは具体的な人物像を結ばなかった。自分より上手い物書きに嫉妬したり、選考委員に不平不満があったり、流行を追うことばかりしているウェブ作家が憎かったりするが、具体的な名前で呼ぶことはできない。それは先輩であったりOBであったり、同期であったり、自分より後から書き始めた執筆歴一年の学生であったり。
追い抜く? 追い越される? デビュー前から毎日そんなことばかり考えて気に病む。 F。俺って、酷い場所にいるんじゃね? ここは地獄か?
ため息が出て、周囲の騒音がそれに飲まれた。耳には人の声が聞こえているのに、それらは雑音として処理されて、脳で「音」としては認識されない。川だ。喫茶店は三途の川だ。
そうだよな。俺はデビューできるまで焦燥地獄にいる。焦りで焼け焦げ、肉は生焼けで現実社会では仕事に駆り出される。いつになったら、作家を仕事にできるんだろうな。職場と家を往復。執筆と落選の輪廻。いつまで経っても努力が報われない。道が見えない。前が見えない。
刑罰より酷かもしれない。精神的にきつい刑罰で、作業をさせて、その作業が終わったら全部片づけさせて、もう一度はじめから同じ作業をしろっていうのが刑罰にあれば、一番きついだろうって聞いたことがある。
落選の重みは日に日に重くなっている気がする。あと、何作書けばデビューできるんだろう。
何でそんなに辛いのにやってるかって? こういう不幸な気分を小説にぶち込むんだよ。落選上等……くそくらえだよな? 二次選考通過者に幸あれアディオス! 今夜はアサヒスーパードライで乾杯だ! 落選した俺を呪えよアルコール! この怒りを火でくべたナイフにする? ないない。なんでって? 人殺しは一回しかできないからだよ? 受賞者も、選考委員もライバルも全員憎い。
小説はな……。文字で人を殺せるんだよ。
あっははははははははははははは!
愉快痛快!
そうだ。これだ、F! 文字だ! 文字は万能だ! 文字で人を殺せる! それだけじゃない、何度でも殺せる。うるさくて道化で、役に立たないくせに売れる人間を片っ端から文字で殺す。登場させて、殺す。死亡してストーリーから退場させたら、実は生きてました展開を用意して殺す。いやいや、一作品じゃ足りない。他の作品にも登場させて殺す。新キャラとして登場してきたそいつをあっさり殺す。復讐相手や主人公のライバルキャラにして、じっくり殺す。裏切者として殺す。ストーリー上の不可解な点は全てそいつのせいにして殺す。殺す殺す殺す殺す。やり方も様々。絞殺、圧殺、轢殺。うーん。屠殺。ブタのように殺してやるって恐ろしい雑魚が台詞を吐く海外ゲームがあったな。
そういえば「屠殺」は妙な漢字だ。人間には使えない語彙なのだろうか。「屠」は
「F。閃いたぞ。人間はみな、獣と同じだ。誰かを憎んで殺すってのは、衝動や欲求で殺すことだ」
そう、人も動物の一種だ。アニマルだ! ちょっと生意気に「衣食住」なんて考えたりするだけだ。衣食住は日本特有の三文字熟語らしいが。とにかく、海外であっても七つの大罪のように七つの欲望があるが、その中に食欲とか性欲とか睡眠欲とかあるだろ。人間は獣なんだ!
「荒にしてはユーモアのある解答だね。獣的な欲求で人を殺したいってことかな?」
急に店内がしんと静まり返ったような気がした。耳鳴り。店内は相変わらず煌々と明るい雰囲気を持続している。もっと、暗い場所なら心の深淵まで降りていけるのに。泥になりたい。肉片になりたい。死してなお、輝きたい。星になんかなりたくない。仏壇には一番若い頃の写真で。床の間には、愛犬のラブと一緒のツーショット写真で。
「そうだな。上手く説明すればよかったな。確かに衝動的に殺したいと思うかもしれない。人間だけが殺意を持って同種を殺せるらしい。そうだよな。動物が殺生するのは生きる残るため。食べるためだ。ってのを、この前俺は本で読んだんだけどな」
人はその身を焼いて他人を殺すものだ。
「人類学的な?」
「違う、ターザンの原作。ターザンの原作ってディズニーみたいなんじゃないんだよな、これが。ターザンは生き伸びるために自分を襲ってきた動物を狩るし、必要とあれば類人猿をも殺害する」
「そうなんだ。確かに、人が人を殺すときほど憎まれることはないよね。「人殺し」って言葉が人を罵るときの常套句みたいに存在するぐらいだし。動物に「殺し」ってつけても、その道のプロっぽくはなるけど、憎しみは感じられないよね」
ちょっと吹いた。確かに、狸に殺しをつけても狐に殺しをつけても「狸殺し」「狐殺し」になって、なんか間抜けだ。「熊殺し」ならベテラン猟師っぽいけど。「鬼殺し」は酒だしな。
「それから、Fに言いたい。憎い奴は小説内で殺せる」
「お、すごいこと言うね」
Fはすっかりアイスティーを飲み干してしまった。これで、喫茶店の俺たちは完全に手持無沙汰になったわけだ。結構な人気店で客が後を絶たない。さて、どうしたものか。Fは学生、支払いさせるのは酷だ。なんて格好つけた思考をしたが、うぬぼれている。俺だって安月給だ。薄給で死ぬ方が先かもしれないな。どんなに思い悩んでも金がないことには……。
「荒、混んできたから別の店に行こう」
言うなりFはスマホ一つでレジに向かう。まさかお前が会計してくれるのか。まあ、いっかと一人ごちる。学生とはいえ金持ちだ。ペイペイさまさま。
「めっちゃ気になることがあるんだが、リムジンには乗ったことあるか?」
炎天下に再び飛び出して聞くようなことじゃなかった。Fは赤みがかった頬を膨らませて笑う。
「親類の結婚式じゃ、しょっちゅう」
「いーなー。ドリンクついてるのか?」
「ワインを出してもらえる」
「ちょっと待て未成年!」
「飲んでないよ。ぼくは、いつもアイスティーだから」
本当かどうか怪しい。だが、Fなら成人してもワインは飲まなさそうだ。いや、飲むか。社交的に。自分が酒に酔わされるような真似はしないだろう。饒舌に世渡りするために飲むのだ。相手を油断させ、相手の口が軽くなるように仕向けて。そんなFを想像するとおかしくなって涙まで出てくる。人は人の上を渡り歩くってか。
後ろから来た自転車が不機嫌なベルを鳴らして俺達を追い抜いていく。危なく轢かれるところだった。ついでに轢死すればよかった。
自転車に対して歩行者側から攻撃する手段はないものか。小説ならここでバットの一本でも登場させて、轢かれる前に顔面殴打で事足りるのに。おお、そういう暴力描写思いっきり書きたいな。もしかして、ライトノベルで物騒なことばかり書くから落選するのか……。
Fは酷く暑い中、間延びしたような足取りで歩く。先ほどの喫茶店でだいぶ涼んだのだろう。時間を気にしないアジア圏の観光地の地元民のようだ。俺は冷えた身体からゆでだこになりつつある。ふつふつと腕に浮き上がる汗の粒。その粒が玉になるのも時間の問題だ。Fに闊歩される歩行者道は幸せだな。Fの足並みに、アスファルトの小石が弾け飛んでいるように見える。俺はどうしてたってその小石に嫉妬する。FがTwitter上で、絶対的権力を持っているというのに、俺は無名の作家のままだ。Fに踏まれたい。うどんのように引き延ばされたい。そんなささやかな自虐的感情と、激しい嫉妬に駆られる。
Fこそ、全てだった。誰もがFと交友関係になりたがる。それなのに、Fは彼女さえ作ろうとしない。Twitter上だけの話かもしれないが。いや、確信がある。こいつは自分の愛する女性を見つけることができないだろう。作ったとしたら、それは何かしら利用価値のあるもののはずだ。
疑似恋愛? はたまた、彼女がいることで自身の男としてのステータスが上がるからとか。
もしかして、Fはファンに気づかっている? アイドルみたいに結婚してはいけないマイルールでもあるのか? てか、Fにトランクスを濡らす夜はあるのか?
Fの家での生活は電気一つ点けないんじゃないだろうか。思考の海で芸術に火を灯すために。Fに唇は必要ない。息をするための唇の上の二つの穴だけで十分だ。Fは楽しんで絵を描いているのだろうか? いいや、Fは探求している。絵に血を落とす様に、命を力でねじ込む? いや、あいつのタッチは繊細だ。膂力なんかない。筆圧がなさすぎて砂のような演出しかできやしない。後はパソコンソフトの成せる技だ。
同人誌もやらない、創作界隈の企画にもあまり参加しない、もちろん代金はもらわない。そんなFが地球上に実在して、東京の某公園脇に差し掛かって一息つく。
スマホに通知が入ったらしい。ファンからの声援には逐一応えているみたいだ。そういう律義さにも憧れる。
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