二日目-③ ルミカ
しばらくの間テーブルでは沈黙が続いた。きっと、お互いこの後どうやって話を切り出すべきなのか考えていたんだと思う。その答えを導き出すのに要した時間がどれくらいだったのかは、よく分からない。五分ぐらいだったかもしれないし、三十分ぐらいだったのかもしれない。ただ、長い時間続いていた沈黙を破るなんてことが俺にできるはずも無く、それをしてくれたのはやはり野永さんだった。
「少年、もうそろそろどこか別のところにでも行かないか?なんていうか……ずっと座っていても疲れるだろう?」
「そうですね」
その頃には少しずつ飲み続けていたコーヒーがどうにか完飲できていた事もあって、俺は速攻で彼女の意見に了承した。最後まで砂糖もミルクも入れなかった事に関しては、ちょっとぐらいだったら自分の事を褒めてもいいんじゃなかろうか?
———
コーヒーチェーン店を出た俺と野永さんはこれからどこに行くかを特に決めるでも無く、駅の周辺をのんびり歩く。俺としても、一度冷静さを欠いてしまっている思考をきちんと整理し直したいと考えていたので、非常に都合が良い。そして平日の昼間特有の人の少なさに不思議な背徳感を感じていた。
そんな時だった。正面から歩いて来たサラリーマン風の男性が何かに驚いたかのように目を見開き、彼女の事を呼び止める。
「あの……すいません、もしかして野永
横を歩いていた彼女が立ち止まった。
——知り合いか……?いやでも、
野永さんの下の名前は春音だったはずだ。
近くを歩いていた人達も数人、立ち止まってこちらを見る。人によっては「えっ!?」と言うような表情をしていた。
「自分、すごくファンだったんです……!なんで急に活動休止なんてしちゃったんですか!?」
「え……いや……あの……」
男性の何を言っているのかよく分からない追求は更にヒートアップして行き、それに反比例するように彼女の声は小さくなって行く。俺自身、全く話について行けていない。
——野永……ルミカって誰だよ。で……ファン?
次々と浮かび続ける疑問符は解消される事無く、それどころか、どんどん積もって行く。
「人違いです」
野永さんは、突き放すような冷たい言葉を吐き捨てて、何も言わずに俺の手を取って早歩きでその場から離れた。
一瞬だけ見えた彼女の表情は、ここ二日間では見た物からは想像できない程に張り詰めていた。まるで、底無しの闇を覗き込んでいるかのような……。
———
「「……」」
一切の会話を交わすことも無く、連れられるままに歩き続けるとやがて駅から少し離れた高架下にたどり着いた。何を言ったらいいのかも、何をしたらいいのかも分からない。ただ確実に言える事は今現在、俺の脳内は沢山の疑問符だけが支配し続けている。
あの男の人の言葉はナンパとかそう言う類いのものでは無く、どちらかと言うと誰か特定の個人に向けられている物の様に感じた。それこそ、まるで有名人を目の前にしているかのような……。
「少年……。聞かないのか?あれがどういう事なのかって……」
声のトーンはもう落ち着いているが、俺の握っているその手はプルプルと震えている。
何かに怯えている、そんな気がした。少し考えて、一つ一つの言葉を丁寧に選びながら答える。
「聞きませんよ。あんな応え方からして、何かしら言いたく無い事情でもありそうな感じですし……」
「フフッ……君は優しいんだな。……少年その、ちょっと背中を借りても良いかな……?」
「え……あ、はい」
言われていた事がよく分からないまま了承すると、前を向いていた彼女がこちらを向いた。直後、彼女の表情が見えるよりも素早く俺は身体ごと百八十度回転させられ、同時に背中に何かが当たる感覚がする。
頭を押しつけられているとすぐに気がつきはしたが、俺は何も言わなかった。……いや、言えなかったんだと思う。声を掛けられるような雰囲気では無い、自分に今できるのはただ立っている事なのだ。
———
その状態で多分、三分ぐらいそうしていただろうか。背中からすっと離れる感覚がした後、彼女は力無く笑った。
「もう大丈夫だ、ありがとう少年。あと……ごめん、ちょっとここで吸っても大丈夫かい?煙草」
「全然良いですよ、俺はあんまりそういうの気にしないタイプなんで。大丈夫です。俺、野永さんの強いところも弱いところも全部受け止めて見せますから」
なんて、改めて考えてみると自惚れの塊のようにしか聞こえないような痛々しさに塗れた言葉に、野永さんは「ありがとうと」呟いた。高架の柱に寄りかかって持っていたバッグから煙草とライターを取り出す。今朝は特に気にもしていなかったためか気づかなかったが、彼女の吸っていたのはこの頃主流だと言う電子タバコでは無く紙巻きタバコのようだ。
ゆるく煙を吐きながら彼女はとても遠い所を見るような目をして呟く。
「最初に言っておくけどこれはつまらない話だよ。聞きたく無かったら、私の独り言として聞き流してくれて構わないからね」
そう一度前置きをしてから、彼女は淡々と語りはじめる。あの男性が言っていた「
「二年前までね、私は野永
女優という言葉を聞いて、色々と分かった気がした。コーヒーチェーン店で周りに座っていた人達の少し異様なざわめき具合も、野永さんの素性が分かった今としては腑に落ちる。
「でもね、きっと……少し上手く行ってたぐらいで、ちょっと調子に乗りすぎたんだと思うんだ。なんでもできるって自惚れてしまっていたんだね。今考えたらあれは……そんな私への天罰だったのかも知れない。……ともかく、今はこうして適当に生きてるだらしない人間なんだよ、私は。アハハハ……」
彼女の目元は赤く腫れていた。そんな彼女を見て、俺はどんな言葉を返したらいいのか分からないまま、少しずつ空へと吸い込まれて行く気怠げな煙草の煙を見つめていた。
——聞きたいけど、聞けない。
野永さんに、一体何があったのか。それが彼女が入院している理由に何かしらの関係があるのか。何が彼女をここまで苦しめているのか。そして……何故俺に、このことを話してくれたのか。その暗く重いどろどろと渦巻く感情に阻まれ、俺は結局何も言う事ができないままで時間だけが緩やかに流れて行った。
———
俺を現実に引き戻したのは、唐突に辺り一帯を包み込んだ猛烈な雨の音だった。雨が当たらない高架ギリギリの場所まで近づいて、地面に絶え間なく次々と叩きつけられていく大量の雨粒達を何気なく眺める。
「雨か……」
不意にそう呟いた後、野永さんがいつの間にか隣来ていた事に気がつき、少し驚く。
「あ……向こうの方晴れてる」
そう言って指差す方向に目を向けると雨の向こう側、マンション同士の隙間から少し傾き始めた日が橙色の一筋の線となって差し込んでいた。その様子に「なんか、狐の嫁入りのなり損ないみたいですね」なんて特に意味も無い言葉を返そうとして彼女の方を何気なく振り向いた時だった。
一瞬にして俺の目は奪われた。鼓動が早まって行くのが非常に鮮明に感じられ、言葉が出て来なくなってしまう。
「綺麗だな、少年」
日の光に照らされて煌めく瞳は、茜さす艶めいた黒髪は、凛とした佇まいは、ふわりとほころんだ表情は、思わず見惚れてしまう程に……ただひたすらに美しかった。
彼女がそんな俺の心情に気づいていたのかどうかは分からない。ただ、その目元はもう赤くなってはいなかった事だけは確かだった。
***
こんばんは、錦木です。
今回のエピソード、いかがでしたでしょうか?割と今回はしっかりと書けた気がします!これからも頑張ります!
感想をいただけると大変励みになります💦
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