一日目-② 違和感
財布のような何かが、見慣れた道路脇の側溝上にひっそりと落ちていた。俺はこの場所について隅々まで知り尽くしているはずなのに、前日までの記憶をいくら辿ってもこんな財布は一切記憶に無い。そして、朝の忙しい時間帯に面倒な事に巻き込まれるのが嫌なのか、それ以前にそもそも財布自体に気づいていないのか、誰も目を向けようともしなかった。そんな状況に少し動揺してはいたが、一度冷静になって考え直す。
——落ち着け……ありえない。俺以外にいる訳がない。きっとこれは、今朝からの俺の何らかの行動が原因で発生した何らかのイレギュラー……きっとそうだ。
しかし今朝からの行動を一通り振り返っても、この結果につながる行動があったようには思えない。
しゃがんで拾い上げるとそれはやはり、なんの変哲もないただの財布だった。茶色の本体に、細かな花柄の刺繍が施されている。見た目からしてたぶん、女性物だろうか……?あまり良くない事だとは分かってはいたが、一応中身を確認することにした。持ち主に一度心の中で謝りながら、閉じられたチャックを開く。
規則正しく並んでいるカード群、その中の一枚に見覚えのある桜があしらわれたデザインを見い出して、取り出してみるとやはりそれは、今現在自分のいるこのバス停、その名前の由来である「市立桜花閣病院」の診察カードだった。
「患者番号 026110
氏名
性別 女性
生年月日 二〇〇〇年十一月六日」
裏返してみた所でこの記載がされているのを見つけ、少々気まずい気分になる。
——いやまぁ分かってはいたけど、バリバリの個人情報じゃん……。……野永……春音さん?、すいません……。
生年月日や個人名の記載がある時点で……いや、それ以前に他人の財布を許可なく開いてしまった時点でもうすでにアウトなのである。俺は再び心の中で持ち主に謝り、カードを元に戻した。
——で、これ……どうしよう?
背後の丘の上に聳え立っている建物、件の病院へと視線を移す。もう目と鼻の先にある。正直、ここから少し遠い交番まで行くよりも、こっちに届ける方がよっぽど楽な気がする。
——交番まで行ったら色々と面倒な事務処理があるだろうし……。いくら時間があるとは言っても、面倒な事は嫌だしなぁ……。まぁ、病院の方にしとくか。
学校に行くのも所詮ただの妥協でしか無かった俺は、学校に行くのをやめてこの財布を届けることを決めた。何回も聞いてきた授業を聞くのも面白くないが、交番に行くのは流石に時間の無駄に思えてしょうがない。
と、そこまで考えた所で、俺は首を振ってその思考を振り解いた。
——……やめよ、虚しくなる。
と言うのも実は俺、刺沢牧人は今日、すなわち二〇二二年六月十日をひたすら繰り返している。気づいた時にはこの変なループは始まっていたから、いつからこうなっているのかは分からない。でも、俺がこうなっている事に気づいてからもうかれこれ三年程が経過するから少なくとも三年以上、つまり千日以上は「二〇二二年六月十日」を繰り返し続けている事になる。ある程度は慣れては来たが、未だに毎朝スマホに表示される日付が「二〇二二年六月十日」以外になっていないか期待してしまう。
もちろん気づいたばかりの頃は、どうにかしてこのループから抜けようと様々な事を試した。丸一日図書館に篭り、関係がありそうな相対性理論や量子力学について勉強してみたり、わざわざ新幹線に乗って有名な神社に神頼みに行ってみたり。精神的に疲弊していた時期には、生きていることすら辛くなり自ら命を何度も繰り返し絶った事もあった。
でも、どんな場所や状況、条件においても二〇二二年六月十一日午前零時になろうとした瞬間、死亡した場合はその直後に再び自宅のベッドの上でいつもの朝を迎えてしまう。例外は今のところ、一切存在していない。だって、
そんな円環の毎日を過ごす中で、俺の心は確実にすり減って行っていく。日に日に、海の底に沈んでいくような、自分そのものをつなぐ止める結び目が綻んでいくような……。ずっと、そんな感覚に囚われ続けている。
———〈数分後〉
桜花閣病院の建物をこんなに間近で見たのは果たしていつぶりになるのだろうか。最後に見た時と殆ど変わらず、少し古ぼけて黒ずんだ見た目をしてはいた。だが、やはり一応この町では一番大きな病院であるだけあって、その威厳を感じさせられる。玄関の自動ドアを通り抜けると清潔感のあるような薬品のような、なんとも言えない病院独特の匂いが鼻を通る。そのまま、受付という看板が掲げられた窓口へと足を運んだ。
「あの……すいません」
「あ、はい!おはようございます。初診ですか?それとも、再診ですか?」
看護師さんはやっていた作業を中断し、顔を上げる。
「これ……下のバス停の所で拾ったんです。で、なんかここの病院の診察券が入ってたんで……」
そう言いながら俺は握っていた財布を手渡した。
「どうもありがとうございます。ちょっと確認させて頂きますね」
彼女は「失礼します」と一言断わり財布開く。診察券を取り出してそれが野永さんの物である事を確認するなり、少し複雑そうな表情を浮かべた。
「あー……。野永さんか……あの人また勝手に外出を……」
この反応からして野永春音は、何か訳ありな人物なのだろうか……?少し考えるようなそぶりを見せた後、彼女は隣に座っていたもう一人の看護師さんの肩を叩く。
「ねぇねぇ、あなたこれ渡してきてくれない?野永さん……なんか今日いつも以上に変じゃない……」
「えー……なんで私が?あなたが行きなさいよ。渡されたのはあなたなんだからさ……」
もう片方の人に露骨に拒否感を示された看護師さんは、苦虫を潰したような顔をしながらも立ち上がった。
「ちょっとここで待っていてくださいね。野永さん、ここに入院していらっしゃるのでお渡ししてきます」
と、こちらには笑顔を向けてくれてはいたのだが……。
——この人、ほんの今さっきまで露骨に嫌そうな顔してたよね……。
「あ……はい」
結局俺が何かできるわけでもなく、看護師さんが一人の女性と共にここに戻って来たのは、それから大体三分程後のことだった。
「あの、どうもありがとうございました。なんでも、野永さんご本人がお礼を言いたいそうなので……。では……私はこれで」
看護師さんは一言お礼を言って、関わりたくないですオーラ全開でそのまま自分の持ち場にそそくさと戻っていってしまった。
——いや、どんだけ関わりたくないんだよ……。
「やぁ、君かい?私の財布を届けてくれたのは」
そんな言葉に、改めて目の前の女性と向き合って思わず言葉に詰まる。
立っていたのはとても美しい女性だった。それこそ、今まで見た事がないほど。ポニーテールにまとめられた、さらさらそうな黒髪、長く整えられたまつ毛。顔立ちも非常に整っている。身長もなかなか高い……大体俺より数センチ少し小さいぐらいだから……一六〇センチ後半ぐらいだろうか?その上、全体的に華奢な体格なのに体付きもすごい……色々と。
——いや、失礼だよな……。
自分の目線に嫌悪し、慌てて目を逸らせた。
***
おはようございます、錦木です。先日、このエピソードの告知をしたものの、リアルの方が多忙になってしまい、投稿ができませんでした。申し訳ないです💦
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