第3話 湧き上がる思い
今日も私は酸素を求めて、生物室の扉を開ける。どうか会えますようにと願いを込めながら。
「先輩、いますか?」
仄暗く少しじめっとした室内で唯一光が差し込む窓際に整列した水槽の前に、私が会いたくて仕方がなかった人──
後ろ姿も絵になる。スラリとした長身、制服から覗く白く細長い手足は少し骨張っている。今日もかっこいい。
ついうっとりと見つめてしまった。
次の瞬間先輩は私の方を振り返り、口角をあげて手招きをした。
「おいで」
先輩はいとも容易く私を喜ばせる。
もし私が犬だったら尻尾を千切れそうなくらい振っていただろう。にやけそうになるのを必死に耐えながら、一歩一歩近づいていく。そして先輩の左隣にたどり着いた。
「折笠さんは本当によく来てくれるね」
先輩の声が好きだ。少し掠れていて大人っぽい、だけど甘さを含んだ声。
その声で名前を呼ばれるたび、ドロドロに淀んでいた心が澄んだ水に洗われていくような心地になる。もっと呼んで欲しいとつい欲張りになってしまう。
私はこくりと頷いて、先輩の横顔を見つめる。先輩はもうすっかり魚に夢中だ。
ここに来るようになって、一ヶ月が経とうとしている。それはつまり、根も葉もない悪評を広められて一ヶ月が経ったということだ。流石にヤリモク男子に言い寄られることはなくなったが依然として私はクラスで孤立している。
その間一度、果奈が謝ったら許してあげる、と言われた。絶句してしまった。なんで私が許しを請わなければならないのか、まるで意味がわからなかった。だけどその時、嫌々でも謝っていたら、入学当初みたいに仲良しごっこを再開できたのかもしれない。
でも、私は先輩と出会って、クラスでの立ち位置とか女子グループの人間関係とか、そんなことはどうでも良くなってしまったのだ。
先輩がいればいい。
そう思うようになったのはいつからだろう。
決定的な出来事があったわけではない、と思う。もしかしたら一目惚れかもしれない。後は──
「折笠さん! ほらほら、見て!」
これだ。
普段はクールで無表情なのに、魚を前にした時のこの無邪気さ。まるで子供みたいだ。私はきっと、このギャップにやられたのだ。
今まで特定の誰かを好きになったことがなかった。そもそも恋愛というものに疎いのだと思う。小学生高学年にもなると女子は色めき立つし、中学生で交際を開始する男女は多い。私も告白の一度や二度、された経験はある。断ったけれど。
だから先輩をこんなに好きになるなんて、自分でも驚きだった。
キラキラと目を輝かせる先輩の指に吸い寄せられるかのように、私は水槽へ顔を近づける。
「ゴールデン・ハニードワーフ・グラミーだよ。その名の通りハチミツ色で可愛いだろう?」
そんな魚より、先輩の方がよっぽど可愛い。そう思いながら、水の中に目を凝らす。確かに黄色くて、ハチミツ色と言われればそうかも、と思う。でもそれより気になることがある。長いヒゲみたいなものが魚に生えているのだ。しかも二本。
「糸……いやヒモみたいなのが二本ついてますけど、何ですか? これ」
「ああ、ラビリンス器官だよ。補助呼吸器」
さらりと事も無げに答える先輩はさすがだ。だけど全然わからない。
「ラビリンス……迷路、ですか?」
「そう。構造が迷宮のようになっているからそう呼ばれているんだ。これがあるおかげで、彼らは空気が少ない環境でも生きていけるんだよ」
よくわからないけど先輩が楽しそうでなによりだ。私は先輩の饒舌な語りに耳を傾けることにした。
その時、ポケットに入れていたスマホが震えた。ブーブーという振動音が止む気配はない。
「スマホ鳴ってるよ」
「……いいんです」
十中八九、母からだ。前までは他にも選択肢があったがもう連絡が来ることはないだろう。
煩わしい。電源を切りたいが後々言い訳が面倒なので背負っていたリュックの奥に押し込んだ。邪魔されたくない。この心地よい時間を、何人たりとも。
先輩は何も聞かない。
私が話さない限りほとんど何も聞いてこない。どうしてここに来たの、とか電話に出ない理由とか。
それにひどく安心するのに、最近私は変だ。
先輩は魚のことばかり。そこも好きなはずなのに、心に
先輩は私に対して興味はないのだろうか。二人っきりで長い時間を過ごしているというのに。
私は意を決して、沈黙を破った。
「明日の土曜、どこか出かけませんか」
一生分の勇気を振り絞った。ここ以外で先輩と会って、話してみたいとずっと思っていたから。
「ごめん……今気づいたんだけどちょっとグッピーが病気みたいで、薬を買いに行きたいんだよね」
またもや魚。
今はっきりとわかった、私はこの水槽の魚たちに嫉妬してる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます