第2話 先輩との出会い

 私──折笠果奈おりかさかなの生きるちっぽけな世界はまるで汚水のようににごり、よどみ、上手く息ができない。


 過保護で支配欲の塊の母親、無関心で家庭を顧みない父親、馬鹿げた噂を広める下世話なクラスメイト、保身しか気にしてない教師、全部全部、汚くて大嫌い。


 父親の浮気を皮切りに、家はめちゃくちゃになった。元々ほとんど家にいなかった父だけど、仕事一筋で養ってくれていることに感謝していたし、尊敬していた。


 それなのに。母が雇った探偵によると浮気相手は高校の同級生だという。当時付き合っていたんだろうか。母と私を裏切ってまで失った青春を取り戻したかったのだろうか。


 母は、果奈だけはお母さんを見捨てないよね? と私に縋り付き、頻繁に私の行動を監視するようになった。少しでも連絡が取れなかったり、帰りが遅くなるとヒステリーを起こすようになってしまった。


 父はますます家に寄り付かなくなった。それでも二人は確固として離婚しないらしい。世間体を気にしてなのか金銭的な理由なのか、どちらにせよ家の居心地は最悪なものとなった。


 進学した高校では上手くやれているつもりだった。自分で言うのもなんだけど、私の容姿はそこそこ整っている。高校入学と同時に胸の辺りまで伸ばした髪をピンクブラウンに染め、メイクも始めた。入学初日に見るからにクラスの中心になるであろう華やかで目立つ女子に声をかけられ、カースト上位のグループの一員になった。彼らといるのは家にいるよりずっと気楽だった。


 それなのに、ある男子に告白されてから平穏は一変した。


 彼はクラスで一番仲良くしていたあの初日に声をかけてくれた女子の元彼であり、彼女はまだ彼に未練があったらしい。私は二人の仲を裂いた悪者に仕立て上げられ、非難された。


 勘違いも甚だしい。彼のことはなんとも思っていないし、告白だってちゃんと断った。ましてやもう別れている状態で知り合って、どうやって仲を引き裂いたというのか。


 それなのに、男好きだから気をつけろ、なんて馬鹿みたいな噂を流され、話したこともない男子に、遊んでるんでしょ? 俺とかどう? と絡まれた。


 教師は見て見ぬふり。耐えられなくなって私は教室を抜け出した。行く当てなんてない。家には帰りたくない。


 しばらく廊下と階段を幾度となく彷徨って、見つけたのは見るからに人気のなさそうな薄暗い教室。プレートには生物室と書いてあった。


 そっと扉を開けると、中には水槽がたくさんあるだけで予想通り誰もいなかった。


 私は適当な椅子に座るとホッと息をついた。ブクブクとエアーポンプから空気が送り出されている音以外は何もしない。目を瞑ると水の中にいるみたいだった。


 次の瞬間、扉ががらりと音をたて、私はびくりと肩を震わした。目を開け音のした方を見ると、制服を着た女子生徒が立っていた。


 綺麗な人。それが最初に抱いた感想だった。


 肩まで伸びた黒いさらさらの髪、切長の目、白い肌。背もすらりと高く、大人びている。ウルフカットの中性的な美人といったところか。


「見学? なら、好きに見てって」


 勝手に入って何をしているんだと怒られると身構えていたので拍子抜けしてしまう。素っ気ないもの言いだが一先ずここにいていいという許可がもらえたことに安堵する。


 少しハスキーな声の主は、がさがさと戸棚を漁り始めた。


「熱帯魚、興味ある?」


 こちらを見ずにそう聞かれ、すぐに反応できなかった。


 正直、全く興味ない。魚といったら食べる方を想像してしまう。観賞用の魚なんて、随分と見ていなかった。きっと、幼い頃──両親がまだ仲の良かった頃行った水族館以来だ。


 私が答えずにいると、今度は私の方を見て聞いてきた。一言一句違わず、熱帯魚、興味ある? と。淡々とした口調と無表情、それでもやはり美人だな、と改めて思った。


 嘘をつくか迷い、もうこれっきり会うこともないであろう相手に気を使うのも変な話だと思って素直に答えることにした。


「いえ全然……」


 言ってしまってから、機嫌を悪くしたのではと恐る恐る彼女の顔を伺う。その顔はさっきと同じで無表情のままだった。


「そっか、でもせっかくだから少しでも見ていってよ」


 そう言い、戸棚に再び向き直った。


 彼女の私に対する無関心さが、心地よかった。


 家では母に、クラスではほぼ全員に目をつけられていた私は、興味を持たれていないことにひどく安心した。父や教師するのような無視とは違う、不快感のないものだった。


 この人は、私を害することはない。そう信じられた。まだ出会ってほんの数分なのになぜかそう思った。


「……ただ、その、綺麗だなとは思います」


 つい、安心したからか感想が口から溢れた。ゆらゆらと泳ぎキラキラ光る姿は興味がなくても普通に綺麗だと思ったから。


「だろう!」


 先ほどの無表情が打って変わって、彼女は笑みを浮かべた。その豹変ぶりに面食らう。


 これはネオンテトラ、こっちはグッピーと説明を始める横顔はまるで幼い子供のように無邪気でびっくりしてしまう。私がポカンとしているのに気づいたのか、こほんと彼女は咳払いをした。


「私、熱帯魚のことになると熱くなってしまうんだ」

「そう、なんですね」


 可愛い、と思った。


「私は二年生の瀬川依織せがわいおり。生物部。といっても活動してるの私くらいだけど」


 私も慌てて自己紹介をした。


「一年生の、折笠果奈おりかさかなです」

「気が向いたら、いつでも来ていいから」

「はい」


 その言葉に甘えて、私は生物室へ通うようになった。先輩がいない日もあったけど、会えた日はなぜかすごく嬉しくて。


 今ではここは私の濁った世界で出会った、唯一呼吸できる居場所になった。


 先輩のいる生物室。先輩の隣。

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