第3話 ニ

 莉々香の言葉に悠杜は納得する。日本の夏は暑すぎる。気温もさることながら、あの湿度は耐えられるものではない。

「亜瑚と約束あるし、ついでに送ってやる」

 悠杜が恋人の名前を口にしたとたん、莉々香の中にある形にならない感情がざわめく。

「お迎えも来てくれる?」

 そう言ってから、莉々香は後悔をした。彼女との約束があるのに、妹を迎えに来たりなどしないに決まっている。

「暑いんだから、あんまり待たせるなよ」

 予想してなかった返事が来た。その言葉に、莉々香の胸の奥底から何かが込み上げてくる。

「うん」

 莉々香の嬉しそうな返事が響いた。

「んじゃ、宿題でもするか?」

 喜びに満たされていた莉々香は、悠杜の言葉で一瞬にして谷底へ叩き落されたかのように、落ち込んだ。


 目の前にある方程式が、暗号にしか見えない。そう莉々香は思った。

 頼りにしていた兄はスパルタで、答えだけを教えてくれるという優しいことはしてくれない。問題の解き方や考え方は、いくらでも教えてくれるが、莉々香が教えて欲しいのは答えなのだ。補習もある、せめて宿題だけでも早急に終わらせたいと、莉々香は切実に願っている。だがこの調子では、宿題が終わる頃には夏休みも終わっていそうだと、莉々香は軽くため息を吐いた。

 莉々香は少し恨めしそうな視線を兄の悠見るへと送る。だが悠杜は、莉々香の視線に気が付く事もなく、すぐ横のベッドに腰かけて読書中である。その姿に、毎日よくそんなに読む本があるものだと莉々香は感心する。

「お兄ちゃん」

「ん?」

 莉々香の呼びかけに、悠杜は本を置き立ち上がった。そして莉々香の背後に立ち、問題を覗き込む。先ほど教えたはずの問題が、総て白紙のままだった。

「どこが分からない?」

「全部」

 悠杜は、また最初から丁寧に教え始める。

「お兄ちゃん」

「ん?」

 莉々香は悠杜を見た。

「日本に来て、後悔してる?」

「別に」

 莉々香の突然の問いに、悠杜は即答する。それを聞き、本当に後悔していないのだろうかと、莉々香は思った。名門と名高い学校へ通っていたのだ。普通なら後悔すると莉々香は思う。

「本当になんとも思ってない。むしろ今の方が気が楽だ」

 莉々香の心の中を読んだかのように、悠杜が言葉を付け足した。

「King's Scholarsだったのに?」

 これ以上、その話題はしたくないと言わんばかりに、悠杜は莉々香の頭の上に軽く手を置いた。

「俺のことはいいから、自分の宿題の心配をしろ」

 莉々香は、しぶしぶ問題を見る。悠杜は莉々香の頭の上から手を戻し、説明を続けた。

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