第2話 一

 意外だったのは、妹の莉々香が日本に残ると言ったことである。その為、必然的に兄の悠杜も残ることになってしまった。

 二人だけで生活を始めてから、一年ほどが経つ。家の中のことは二人で当番制にすることに決めていた。そのため莉々香は、何かお願いがある度に、当番の交代を申し出るのだ。

「ね? お願い」

 ジッと自分を見つめる妹に悠杜は、仕方がないかと諦めを浮かべた表情で、軽くため息を吐いた。そして右手の人差し指を伸ばし莉々香の額を小突く。それは、兄が頼みを聞いてくれる合図であり、莉々香は嬉しそうに微笑んだ。

「じゃあ、明日の晩飯はビーフシチューな」

 悠杜は妹が作れる料理の中で、手間隙のかかるものを選んだ。

「えー、それ手間かかって大変なんだよ」

「だからだろ」

 他愛もない話をしながら、いつもと変わらない、穏やかで幸せな時間が流れていく。ほんの数日前までは、目の前にいるのは妹でしかなかった。悠杜にとって、それ以上の感情はなかったはずなのだ。

 悠杜は、自分と同じ少し色素の薄い妹の瞳を見つめる。その瞳に映る自分は、莉々香にとって兄でしかないのだ。そう何度も、悠杜は自分に言い聞かせる。

 四日前、妹の莉々香に告白をすると、バカ正直に告げに来た奴がいた。親友だった男だ。過去形なのは、今現在、悠杜の中では親友として認識をされなくなったからである。だが、表面的には、今も親友である事に変わりはない。

 自分の目の前で、妹が告白をされる。それ事態はまだよかった。妹は断ると思っていたからだ。だが、妹は告白を受けた。

 あの時から、悠杜の中に暗く蠢くものが潜んでいる。その正体を知ってしまった今では、必死にそれを心の奥底に閉じ込める。それは、光さえも抜け出せなくなる事象の地平のように、すべてを闇の中へ。

 莉々香は、兄の左腕に絡めた腕に力を込める。ずっと自慢の兄だった。純粋に兄が好きだった。兄が称賛を浴びる度に、まるで自分のことのように嬉しかった。

 だがいつからか、形にならないものが莉々香の心の中に広がってきた。苦しくて、切ないものが、莉々香を支配していく。その感情の正体を、莉々香はまだ知らない。

「お兄ちゃん、明日、学校まで送ってくれる?」

 莉々香は、おねだりついでに、補習に行く交通手段を兄に頼んでみる。

「頼む相手を間違ってるだろ。高志に言え」

 悠杜の素っ気無い答えが返ってくる。

「瀬野先輩は部活だから、朝早いんだもん」

 莉々香が即答する。

「一緒に行けばいいだろ」

「お兄ちゃんがいいの」

 普通なら、兄よりも彼氏を選ぶ場面だ。

「早起きしたくないだけだろ」

 莉々香は、兄の肩に頭をもたれた。

「違うよ、暑いから歩きたくないの」

「あー、それはそうだな」


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