楽園の夏
さくら
第1話 事象の地平
暑い夏だった。むせ返るような熱気と、絡みつくような空気が、理性を狂わせたのかも知れない。
気がつかなければ、何も変わらなかった。
苦しみも悲しみも、狂おしいほどの想いも、何もかもただ時が過ぎ、すべてが風化していっただろう。
兄と妹は、二人だけの想いを秘め続ける。
兄は妹に恋をしている。また、妹も兄を想う。
それはまるで、楽園で見る夢のように。
そして蛇は囁く。知識を。欲を。快楽を。
毎日のように暑い日々が続き、夜の帳が落ちても、暑さが和らぐことがない。
夕食後のひと時を、悠杜はリビングのソファーで本を読みながら妹と過ごしていた。
妹の莉々香は、兄のすぐ左横に座り、テレビの歌番組を見ている。そして、お気に入りのアイドルグループの歌が終わると、深くため息を吐いた。
悠杜はその様子を一瞥すると、視線を手元の本へ戻す。
「明日から夏休みなのに、なんでため息を吐いてるんだ?」
悠杜の言葉に、莉々香は視線を一つ年上の兄の顔へ移した。少し長めの明るい髪と、端正な顔立ちが視界に入る。
「だって……、宿題がいっぱいあるんだよ。それに……」
確かに、高校生になってから初めての夏休みだ。嬉しいのが普通である。
「それに、補習もある。か?」
悠杜の言葉に、莉々香は少しふくれた顔をした。
「後は補習のせいで、やっと出来た彼氏と遊べない。か?」
顔を真っ赤にした莉々香は、両手のコブシで軽く悠杜を数回叩いた。兄と同じ、明るい髪が揺れる。
「宿題、手伝ってやろうか?」
悠杜は本を閉じた。
「ほんと?」
嬉しさを隠せない表情で、莉々香は聞き返す。
「食事当番、一週間で手を打つ」
莉々香は、兄の言葉に少し考え込む。
「うーん、三日分じゃダメ?」
ねだるように甘えた声で、莉々香は答えた。そしてそのまま、兄の左腕に自分の腕を絡ませる。
今、この家には二人だけしかいない。突然、作家である父親が日本に帰ると言い出した。職業柄なのか、突拍子もないことを言い出すのには慣れていたし、特に理由も言われなかった。
父親は日本人であるから、郷愁を覚えたのかもしれない。二十年も帰っていなければ、帰りたくもなるだろう。だが残りの家族は、生まれも育ちもイギリスだった。
いきなりのことに、さすがに戸惑いはしたが、母親も半分は日本人のためか、あっさりと憧れの国へ行くのを承諾してしまった。
だが、年齢のせいもあるだろうが、母親は日本に馴染めず、すぐに帰国を希望し出した。日ましに愁いを帯び、やつれていく母親を見て、父親はイギリスへ帰る決断をした。日本に来てから四ヵ月後に、両親はイギリスへ戻ってしまった。
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