乗り込む大魔王――その少し前


 皇都ソルディカーナ。

 数千年に及ぶ人とモンスターの戦いにおいても、一度も戦火を浴びたことのない沈まぬ都市。


 エクスが勤務するソルレオーネもこの都の郊外に位置しており、戦乱終結後の現在においても実質的に世界の中心地となっている。


「ええい、まだ準備はできぬのか!? いったいいつまで待たせるつもりだ!?」


「も、申し訳ございませんっ! ですが、陛下の御身に何かあれば一大事ですので……」


「そのようなことはどうでも良い! なんとしても、一刻も早くここを離れねば! そうしなければ、余は死よりも恐ろしい責め苦を味わうことになるのだぞ!?」


 そして今。


 皇都ソルディカーナの中央に位置する皇居では、その皺だらけの顔を青ざめさせた現皇帝ドラクレス・ソルレオンが、大勢の侍従と共に国外退去の準備を行っていた。


「早くしなければ〝孫〟が……フィオレシアが余の息の根を止めにやってくるであろう!? どこでもいい……早くあの悪魔の手が届かぬ地に逃げるのだぁああああああッッ!」


 老いた皇帝の恐怖に引きつった叫びが宮廷に木霊する。

 そう、今回のフィオを狙ったストーカー事件。

 その主犯こそ、この皇帝ドラクレスその人だったのだ。


「し、しかし陛下。僭越ながら、いかにフィオレシア様が苛烈で知られる人類随一の女傑とはいえ、皇帝であり祖父でもある陛下に対して手を上げるようなことは……」


「するに決まっておろうがッッ!? 新入りか貴様は!? あの娘にとって余は自身を皇族から追放し、それによって父と母を死に追いやった憎き相手以外の何者でもないのだぞッッ!? 此度のことが明るみに出れば、これ幸いとばかりに余を処刑するに決まっているッ!」


 慌ただしく準備を進める近衛や侍従の中から歳若い一人を捕まえ、切羽詰まった様子で現況を問い詰める皇帝ドラクレス。


 全身からびっしょりと冷や汗を流し、足取りも覚束ない今の皇帝の姿には、かつて人類の指導者として大魔王エクスと対峙した英雄の面影は欠片も残っていない。

 

 だがそれも無理のないこと。

 

 実のところ、ドラクレスがここまでフィオに対して怯えるのはそれ相応の理由がある。

 現在の皇国は、すでに国民から選ばれた議員たちが議会運営によって国政を決める立憲君主制へと移行している。

 ドラクレスは当然この政治的転換に反対したが、勇者フィオレシアは多数の有力者の支持をあっさりと取り付けてこれを通した。


 結果として、今の皇帝はただのお飾りのようなもの。

 かつてのような権勢を振るうことも、下々の者を跪かせることもない。


 この一大転換期において、すでにドラクレスはフィオレシアとの政争で完敗を喫しており、世間一般から見た〝両者の格付け〟もとうに完了していたのだ。


「だがフィオレシアにはまだ付け入る隙があった……! 十年間無職のダメ男……元大魔王のエクスと恋仲だという致命的な隙がッッ!」


「お、恐れながら……雇用の問題は人それぞれの事情もありますし……」


「何を言うか!? フィオレシアは巨大企業のCEOにして次期皇帝……奴にとっても甲斐性無しのダメ大魔王を養っているなどという話は、十分なスキャンダルであろう!?」


 人とモンスター。戦乱による双方の被害の賠償問題は講和の際に細かく定められ、すでにすべてが解決済みとなっている。


 皇帝もエクスに対して難癖をつけるには、元大魔王という点よりも、〝ろくに働きもしないダメ大魔王〟という部分を突くしかなかなかった。

 しかしエクスは二ヶ月前についに就職。

 皇帝に残されていた最後のチャンスは、甲斐性無しのエクスが管理人という職を得たことで消え去ろうとしていたのだ。


「余と同様にフィオレシアに恨みを持つローゼンハイムを焚き付け、奴を背後から操ってフィオレシアの弱みを握る……大魔王との関係をおおやけにされて立場が弱ったところを、余の取りなしでローゼンハイムとの縁談を再構築させ、手綱を握る……! これ以上ない完璧な作戦であったというのに!」


「そのー……大変申し上げにくいのですが……あまりにもガバガバな作戦では……?」


「なんだと!?」


 あまりにもあんまりな皇帝の作戦に、若い侍従はなんとも言えない表情で首を振る。


 そして、その時だった――。


「いやはや、貴方のその耄碌もうろくぶり……結果として私の予定通りとはいきませんでしたが、それはそれで楽しめましたよ。ねぇ……皇帝さん?」


「っ!? 貴様……!」


 その時。ドラクレスが座る豪奢ごうしゃな玉座の背後の闇から、嘲笑混じりの軽薄な声が響いた。

 ドラクレスはすぐに背後を振り向こうとしたが、皇帝の体は金縛りにあったように動かず、そして背後からの声も彼にしか聞こえていないようだった。


「貴方も元とはいえかつての英雄……引きこもりのアスクレピオスを引っ張り出すためにも、もう少々粘って欲しかったところですが……まあ、いいでしょう」


「よ、余は……! 今の浮かれたフィオレシアならば倒せると、〝貴様から言われて〟……っ!」


「おやおやァ~? そんなこと言いましたっけぇ~? すみませんねぇ……最近私も物忘れが酷いもので。なにぶん、私もかれこれ〝数万年は生きている〟ものですから~」


 闇から聞こえるその声に、ドラクレスはただ息を呑むことしかできない。

 周囲を行き交う侍従たちも。先ほどまで彼と話していた若い近衛も。誰もその闇に気付かない。


「た、大変ですッ! たった今、フィオレシア様と全身から黒い稲妻を迸らせた大男が、陛下に会わせろと皇居上空に現れました!」


「はうあっ!?」


「おや、そろそろあのお二人も来たみたいですねぇ? では私はこれで失礼しますよ。もちろん、私との記憶は綺麗さっぱり貴方の頭から消してさしあげます。偉大なる皇帝閣下におかれましては、私のような者との関わりなど恥ずべき汚点でしょうからねぇ」


「なっ!? き、きさ――!」


 その言葉を最後に、玉座に忍び寄っていた闇は去った。


 解放されたドラクレスにそれまでの闇との記憶はなく、ついに現れたフィオとエクスの脅威に怯える、哀れな老人だけが残されていたのであった――。


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