第4話 『理想』
「さて潤。詳しく話を聞かせてもらおうか?」
”理想”という言葉に興味深々の孝弘は、掴んでいたリュックの肩紐からその手をゆっくりと放し、どうぞそこに腰掛けください、と言わんばかりに上にした手のひらを潤に向けた。
「わかったよぉ!」
「そうそう、人間素直が一番」
「それ、孝弘が言うかぁ~?」
軽い煽り合いを交わし、観念した潤が再び腰を落ち着けると、隣りに座ったままの彰を軽く覗き込むように少し顔を寄せた。
「彰は時間大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫」
「……彰も興味あんの?」
「う~ん、そうだね……”潤が言った”というところに興味あるかな」
「あっそ」
視線を上げながら軽くため息をついた潤の様子を伺いながら、孝弘が前のめりに話を切り出してきた。
「"理想の"結婚生活ということだけど、
二人はそもそも結婚ってどんなイメージを持ってる?」
「えっと、そうだなぁ……結婚すると幸せになれる、とか、
幸せになりたくて結婚するってイメージかなぁ?」
「え? 結婚したらそれだけで幸せになれるんじゃないの?」
「潤、それは結婚を簡単に考えすぎだよ。
そんな簡単に幸せになれるなら、そもそも”理想”なんて言わないだろう?」
「あ~……たしかに理想になるのかぁ。
うちの親が理想の夫婦というイメージはないしなぁ」
「とすると”理想”とはなんだろう?」
潤と彰は、その孝弘の問いに対し少しの間考えていたが、すぐに彰はスマホでその言葉の意味を調べ始めた。
「人が心に描き求め続ける、それ以上望むところのない完全なもの。
そうあってほしいと思う最高の状態……って書いてある」
「おー、言葉にするとたしかにそういうことか」
孝弘も潤と同様な印象だったらしく、なるほど、というような感じでゆっくりと首を縦に短く複数回動かした。
「じゃぁ”理想”を手に入れるためにはどうする?」
「どうする? え? ……努力する?」
「う~ん、努力するしかないと思う」
「そうだね。では努力すれば”理想”は手に入るかい?」
その瞬間、潤と彰の動きはピタッと止まった。
二人は特別何かを見るわけでもなく、その視線は固定されたままだ。
おそらく懸命に思考を巡らせているのだろう。
「……わからない」
「……だな。手に入らないかもしれないな」
孝弘はその回答を期待していたのか、その顔にかすかに柔らかい微笑みを浮かべた。
「ぼくもそう思うよ。『並みならぬ努力をしても手に入るかわからないもの』を”理想”と言うんだと思う。だから結婚を『しただけでは』幸せにはなれない」
「……たしかに……」
「わかる気がする」
「ぼくは、幸せな結婚生活を過ごすためは、お互いが常に”幸せを継続するための努力”が必要ということなんだと思っている。なぜなら結婚生活は、この先もずっと継続するものだからだ」
「そっか……そう言われるとそうかな……」
彰も潤に同調するようにうなずいた。
「にもかかわらず、努力なしで”理想”、つまり”幸せ”が手に入ると考えている人が多いように思える。結婚はゴールじゃない。むしろスタートと言える。実際、二人の生活はそこから開始されるものだしね」
「そしてその生活はずっと続くわけだもんね」
「そう」
「なんだか……こう、背筋が伸びる感じだな……」
「殆どの夫婦は、結婚初期には”幸せ”をたくさん感じているよね。
でも、幸せを維持する努力を怠れば、幸せは薄れてくし逃げていく。
その努力なしで幸せは得られないし、
ましてや何もしなければどうなるかは言うまでもないね」
「そう考えると大変だなぁ」
「そう思うよ。”幸せ”とは『簡単に得られて維持できるもの』ではない。
だから”理想”なんだろうね」
「こうやって聞いてると、たしかに理想だなぁ」
「でもそう考えると……不思議だね」
不思議……彰の放ったその何気ない一言。
しかし、潤はもちろん、孝弘もその発言が何を考えての事なのか汲み取れていなかった。
純粋に彰の思考が読めていなかった孝弘は、珍しくその答えを急くように反射的に問いただした。
「彰、何が不思議なんだい?」
「だって、”理想”なんて普通、追わない人が殆どじゃない?
”理想”って言いかえれば”夢”だよね?」
「夢……??」
ここまで聞いて、孝弘はやっと彰の言わんとしていることがわかった。
「ふふ。面白い着眼点だね、彰。いいね……いいと思う」
孝弘は、その彰の回答に満足し、目を閉じながら含み笑いをした。
「待て待て! 二人で納得してないで俺にもわかるように説明しろよ!」
「そうだね。大抵の人は”将来なりたい自分”という”夢”を抱くよね?」
「漫画家に”なりたい”、アイドルに”なりたい”、とかいう”夢”のことか?」
「そう。だけど殆どの人は年齢を重ねるにつれて”夢”を追わず、
早い段階であきらめる人生を送るよね?」
「まぁ、そうだろうね」
「それはなぜ?」
「そんなの『無理だ、叶えられっこない!』ってわかるからだろ」
別に普通のことだろ、というかのように潤はぶっきらぼうに答えた。
「その通り。”夢”を叶えるための努力の辛さを身をもって知り、
結果『夢が叶うことはないだろう』という、
道のりの果てしなさを現実で知るから諦めるわけだ」
「う、うん……まぁ、そういうことかな……」
あまりにも真剣に孝弘が答えたので、潤は少し確認しながら戸惑った。
「つーか、ごく普通のことだけど……これの何が不思議なんだ?」
「じゃぁ潤に聞くけど、”夢”は叶えるのが難しいとわかっている今、
新たな”夢”を追う気になるかい?」
「いやぁ……”叶うかどうかもわからないもの”を追うことはしないだろうな」
「それだよ」
「それ?……どれ?」
「”幸せな結婚生活”ってさ、十分”叶うかどうかもわからないもの”だろう?」
「あー……そうなるかな」
「にも拘わらず、なぜ殆どの人が
”幸せな結婚生活”という”夢”を追ってしまうんだろう?
ということ」
「あ!」
「”夢”なんだよ? 果てしないんだよ?
なのになぜ追ってしまうのか。
彰が不思議がったのはそこだよ」
潤がふと彰の顔を見ると、彰は何ということもなく、ただ軽くうなずいて答えた。
「たしかに……なぜなんだろう……俺も結婚したいって考えてるし、
幸せな結婚生活を送りたいとも思ってる……」
「経験してないことだから?」
「…………ぃゃ……」
「それもなくはないけど、ぼくは違う気がする。多分……」
そういって孝弘が自分の意見を述べようとした時、めずらしく潤が会話に割り込んできた。
「”夢”だと思ってないからだ……」
「!?」
「おー!潤、鋭いね。ぼくもそう思うよ」
彰は意外な発言を聞き、驚きの面持ちで潤を見た。
その潤は、孝弘に同意を得られたにもかかわらず、なぜかその顔は少し沈んでいるように見えた。
少しした後、弱々しい声ではあったが、潤は静かに自分の意見を述べた。
「”夢”だと思ってない……それどころか結婚さえすればそれが自動で簡単に手に入ると思ってる……からかな」
「適齢期になると周りはどんどん当たり前のように結婚していくしね。
結婚そのものが”普通”と映るならそう思ってしまうかも」
「……俺がそう思ってるんだから多分そうなんだろうな……
なんか……へこむなぁ……」
彰は、潤が沈んでいた理由がやっとわかった。
そんな潤を少し気遣うような素振りを見せる彰とは裏腹に、孝弘はいつものように自分の意見を淡々と話し始めた。
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