v2.0.4 - フレンド登録
トイレの個室にこもり、すーはーと深呼吸をする。
先日の一件もあって、俺はITから、インターネットから逃げ回るのはやめると心に決めている。
せっかくの機会だし、LINCアプリを入れる事からも逃げるつもりはない。
……でもさ。
ちょっっと早くね?
さすがに、こういうメッセージングツール的なものは、早い。
メールですらあっさり罠にかかるのに。
こんなよく分かってないツール、どんな罠があるか分かったものじゃない。
LINCについては中学時代、周囲に使っている子も多かったし、どんなものかはおおよそ分かっているつもりだ。
ギャルゲーとかアニメに出てくるLINCっぽいやりとりの描写がよく分からなくて、ムック本などであれこれ調べた事もある。
でも、知っているのと経験があるのはやはり違う。
俺は、LINCを使った事がない。
俺がITに触れていた小6までは年齢制限があってこういうツールは使わせてもらえなかったし、中学以降はITなるものを全てを遠ざけていたので、完全にノータッチ、未体験のLINC童貞だ。
そんな俺がLINCとか始めちゃって、大丈夫そ?
……ま、まあ、ケータイでやってたSMSの延長線上のもの、っぽいし?
そんなに怖がる必要はない……のかな?
俺のばーちゃんですら使いこなしてたしな。
ご老人ですら大丈夫なら、俺だって大丈夫……だよね?
……だ、大丈夫だよな?
と、登録するだけだし。
……とはいえ。
ミントとのやり取りで、俺が割と簡単に罠にかかるのは実証済みだ。
ここは一つ、決めておこう。
①LINCアプリを入れて
②登録して
③七橋さんとフレンドとやらになる
それ以外の事はしない。絶対にしない。
ミントの最初のメールみたいな事にならないように。
何か通知とかメッセージとか来ても反応しない。
それなら、いいよな?
大丈夫だよな?
よ、よし。
ARグラスへの新しいアプリの入れ方は、最近お年寄り向けのムック本で勉強して、地図アプリだけは入れてみた事があるので、わかる。
アプリストアというのがあって、そこから探して入れればいいはずだ。
アプリストアを起動すると、探すまでもなくLINCは開いたその画面上にあった。
「はじめてのmGlassアプリ」みたいな特集枠にちょうど掲載されている。
さすがIT嫌いの俺ですら知っているレベルのアプリ、格が違った。
特集を開いて、LINCのアプリページを開く。
もしかしたら一緒に特集されている他のアプリも入れると俺のARグラスライフがキラキラ快適便利になるのかもしれないが、最初に決めた条件から外れるし何より怖いのでスルー。
意を決してLINCのアプリの下にある「入手」ボタンを押し、「インストールしますか?」のダイアログにYESのジェスチャーをする。
と、何やら認証中の表示が出た後、インストールが始まった。
アプリはすぐにインストール完了になったようで、「インストール」ボタンが「開く」ボタンに変化したのでそれを押す。
と、青緑の起動画面が表示された後、「LINCへようこそ」という文言と一緒に、「ログイン」「新規登録」というボタンが並ぶ画面が開いた。
ログイン、というのは多分すでに使ってる人のためのものだから……ということで「新規登録」のボタンを押す。
と、いきなり「この端末の電話番号を入力」という画面になった。
……え?
電話番号?
刹那、電話番号がネットに晒されて電話が鳴りっぱなしになったあの時の事が脳内にフラッシュバックする。
で、電話番号はちょっと……
だって、ここで登録した電話番号が何かの事情で漏れたりしたら……?
嫌な想像と過去の体験が脳内をマッハで駆け巡り、「よし、やめよう、登録」という強いお気持ちが脳内に満ち満ちる。
……うん。やめよう。
電話番号が必要なら、やめよう。登録。
だって怖いし。晒しとか漏洩とか迷惑電話とか。
そう思いながら画面をよく見ると、下の方に小さく「メールアドレスでの登録はこちら」というリンクがあるのを見つけた。
……ああ、よかった。
電話番号を登録したくがないがために再び自主的にLINCから閉め出される可哀想な未来の俺はいないんだ。よかった。
俺はホッとしてそれをタップする。
と、メールアドレスを入力する画面が表示されたので、アドレスを入力。
ちなみに最近、ちょっとした裏技で、入力モードの時に、「俺のメールアドレス」と口で言うとメールアドレスが入力できる事を知ったので、便利に使っている。
無事入力できたので、「メールアドレスを確認する」というボタンを押す。
と、数秒の後、通知音がして、通知マークつきのメールのアイコンが視界に表示された。
メールアプリを起動すると、「【LINC】メールアドレスの確認」というメールが届いている。
開いてみると、
「登録を進める場合はこちらのURLを開いてください」と書かれたURLがあったので、これをタッチして開……こうとしてはたと手がとまる。
これ、大丈夫だよな……?
これが何かの罠、みたいな事ってないよな?
今まさに自分がやった操作によって送られてきたメールなわけだし。
タイミング的にも変なイタズラ仕込めるようなものじゃないだろうし。
だ、大丈夫だよな?
……まあ、うん。
それを大丈夫だと判断できるだけの経験値も知識も俺にはない。
タイミング的に大丈夫だと思うけど、ミントの罠とかだったら泣こう……。
腹を括ってURLを開く。
と、一度ブラウザが開いた後に、LINCのアプリが開き「メールアドレスの確認が完了しました」という文言と一緒にユーザ登録画面が開いていた。
うん、とりあえず大丈夫だったっぽい。よかった。
ほっと一息つき、続けてLINC内で使うニックネームと、パスワード、生年月日を入力して、登録ボタンを押す。
すると続いて位置情報へのアクセス、とか、アドレス帳へのアクセス、とかいった何やら物騒なものを要求してきたので、怖いのでとりあえず全部拒否。
以上で登録完了、かな。
あらためてLINCアプリのホーム画面を開く。
……と、フレンドリストには見慣れたくないのに見慣れてしまったCGキャラのアイコンと「mint」という名前があって、タッチしてみると「フレンド登録ありがとうね、ダーリン」というメッセージと可愛らしい猫のイラスト――スタンプ、って言うんだっけ?――が表示されていたのは見なかった事にする。
よし、無事登録できたっぽい。
ミントの事はまるで大丈夫じゃないけど、まああれは災厄みたいなものだ。気にしなくていい。
すんごい気になるけど、気にせずにおこう。
俺はふぅ、と息を吐き出し、トイレを出、教室に戻った。
七橋さんはまだ教室に残ってくれていた。
「お腹大丈夫?」
心配そうな七橋さんに、「あ、うん」と返す。
「ちょっと昼に牛乳飲みすぎた」
嘘をつくのはほんのり胸が痛むが、相手のお腹が少々黒いので言うほどは痛まない。
七橋さんは大変なものを歪めてしまいました。私の正直さです。
「LINCのアカウント作った」
七橋さんにLINCの初期設定が済んだ事を伝えると、七橋さんは一瞬「え?」という顔をした。
あ、え……?
そ、そうか、お腹を壊して駆け込んだ御不浄で準備したアカウントとか汚れっぽくてなんかイヤ……ですよね。
そ、それは配慮が足らず誠に申し訳ありません。
そ、そういうとこやぞ、俺。
しかし七橋さんはすぐにいつもの笑顔に戻り、
「おっけー。ちょっと待ってね」
そう言っていくつかのAR操作をしたのち、手をグーにしてこちらに向けた。
……??
……何?
俺のLINCセットアップお疲れ、のグータッチ、的な?
え? 七橋さんってそういうノリの人だったんで?
いやいやまさか。
でも、これは明らかにそういうジェスチャーにしか見えない。
じゃあ……しちゃう? グータッチ。
ウエーイとか言いながらしちゃう?
陽キャぶっちゃう?
いやでもさすがにそれは……
……と心の中で葛藤を繰り返していたら、どうやらARグラスが何かしらを検知したらしい。
LINCアプからの通知で、「annaさんとフレンド登録する場合はmRingを近づけてください」というメッセージと共に、指輪をはめた手でグータッチするアニメーションが表示された。
あ、ああ……
……な、なるほどね。
お互いの指輪を近づけるとフレンド登録できる、と。
そ、そういう仕組みか。
……はぁ、ビビった。
七橋さん、出会うたびに「ウェーイ」って言いながらグータッチしちゃう感じの陽の極まった者の一族なのかと思って真剣に副委員長辞職を検討しちゃったわ。
陽の者とだけは仕事はできぬ。
なぜなら彼らは眩しすぎて俺のような陰の者は一瞬で焼かれて蒸散してしまうがゆえに。
あ、ああ、そういえば最近街でちょいちょいグータッチしてる同世代くらいの人々を見かけるし、ウェイウェイ一派が幅をきかせて陽の者の勢力が強まってきてるなぁ、生きづらい世界だなぁと思っていたのだけど、あれはこのフレンド登録をしてたって事だったのね。
……そ、そうか。
そうだったのか。
世界が陽キャに染まったわけじゃなかったんですね。
世間の皆様、私の不見識により、勝手にウェイウェイしてる人だと思い込んでしまって申し訳ありませんでした。
今も変わらず陰の者は日陰のそこかしこでしぶとく生き抜いているし、ぼくもここで生きていていいんだね。
ありがとう、世界。
おめでとう、俺。
……とはいえ、だ。
こうして指輪ぶつけて情報交換するっていう仕組み考えた人なんて、どうせウェイウェイした陽キャに違いない。
結局のところ、ウェイウェイした人が世の中を作っているのだろう。
そりゃ、お金と人脈とコミュ力溢れる人々がビジネスをブン回すんでしょうし、陽キャ属ウェイウェイ目の人々の価値観が世の中に実装されていくのは当然ですかそうですね。
……はぁ。やっぱり生きづらい世の中だった。
どう生きたらいいんだろうね、本当に。
って嘆いていても仕方ない。
少なくとも今、こうして目の前に、俺なんぞという陰の者と接点を持とうとしてくれる貴重な陽の者がいる。
俺は恐る恐る指輪を嵌めた右手を伸ばし、ドキドキしながら七橋さんとグータッチした。
ティロリン、という音がして、「annaとフレンドになりました」というメッセージと共に、俺のフレンドリストに「anna」という名前が追加された。
――嗚呼。
なんたる事か。
なんたる偉業。
俺の人生、特に小6以降の人生において、俺の連絡先リストには親類縁者の名前、あるいは弁護士さんだの不動産屋さんだの業務関係の人の名以外が並ぶ事はなかった。
そんな俺の連絡リストに、ついにクラスメイトの名が載る日が来るとは。
しかも、その栄えある最初の一名――勿論、すぐ下にあるmintという名は再び見なかった事にする――が、我らがクラス一番の清楚系美少女でありクラス委員長、七橋杏南さんその人になるとは。
そんな現実、1年前はおろか、1ヶ月前の自分ですら「あり得ない」のほうに全額ベットしていたに違いない。
――まあ、このリストが親兄弟以外でこれ以上増える気もしないんだけど。
が、がんばろう。
もう一人くらいは増えたらいいなぁ……。
俺が胸の内で感動にむせび泣いていると、メッセージ着信の通知がきて、慌ててトークルームを開くと、「よろしくね」というメッセージと可愛い犬のスタンプが並んでいた。
目の前の七橋さん本人に目を向けると、七橋さんは変わらぬ柔らかい笑顔で微笑んでいらっしゃる。
俺は慌てて「よろしく」と返し、口でも「よろしく」と言った。
スタンプ……は、どうやって送ったら良いのか分からないのでナシで。
……早めに使い方とか小粋なスタンプとか、逆に送ったら人としてヤバそうなスタンプとかマナーとか色々調べておこう。
かくして七橋さんとのLINCフレンド登録は完遂された。
それにしても……はぁ。
登録直後、ミントとのトークルームを開いてしまったあの記憶を消したい。
俺のLINC童貞を奪ったのは七橋さんって事にしておきたい。
よし、そういう事にしよう。
記憶はいつだって、都合よく改竄すべきもの。
mintなどという名はフレンドリストにいなかった。いいね?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます