第6話

 はじめてお邪魔した福路先輩の部屋は僕のように退屈な部屋ではなく、隣の網田さんの汚い部屋とも違う洒落た部屋。でも、違う意味で気持ち悪い。

 

「なんだか少なくないです……?」


 部屋には物がほとんどなかった。机といす、ノートパソコン、プロジェクター、ベッド、観葉植物、以上。僕の部屋だってお世辞にも物が多いというわけではなかったけれど、それよりもずっと少ない。ともすれば独房のようにも見えなくもないけども、そう感じないのは、観葉植物のおかげなのか見目麗しい福路先輩のおかげなのか。


「それ、みあにも言われたけれど、少ないかなあ」


「少ないと思います」


 このやり取りが反響してしまうくらいには物がない。椅子も一脚しかなかった。僕はいったいどこへ座ればいいのだろう。きょろきょろしている僕の前で、福路先輩はベッドに腰かけ、どうぞと手を示している。椅子に座ってもいいよ、ということだろうか。僕は頭を下げながら、椅子に腰を下ろした。


「……君ってそういうところあるよね」


「え、それはどういう」


「そのままの意味」福路先輩がため息をついた。「それはともかく、急にやってくるなんて、どういう風の吹き回し?」


「えっと、この前、家に上がってもいいって言ってたので。それにホラー映画のお誘いもずっと断ってばっかりだったから」


 福路先輩からは、一緒に映画を見に行かないかと何度も誘われていたが、そのたびに僕は断っていた。一つは、僕と一緒にいたら先輩が変な目を向けられるんじゃないかと思っていたからで、もう一つはホラー映画というものが苦手だから。生まれて一度も一度も見たことないし、今後も見ることはないだろうと思っていた。


 でも、先輩の秘密がわかるなら、我慢するしかない。


 僕の考えを福路先輩は知らないはずだ。先輩からすれば、僕がホラー映画を見たいと言っているわけで――それがどうして嬉しいのかはわからなかったけれど――先輩は喜んでいた。それはもう、これまで見たことがないくらいのはしゃぎよう。


「ホラー映画を見てくれる人って少ないんだよ」


「そうなんです?」


「うん。特に私はグロテスクなのばかり見るからさ、みあも『酒がまずくなる』って言って一緒に見てくれないの」


 無気力人間のような網田さんが逃げるほどのホラー。想像するだけで、怖くなってきた。


「……加減してください」


「しょうがないなあ。お肉が食べられるくらいのスプラッタにするね」


「どんなのですかそれ」


 例えがよくわからなかったけど、なんとなくやばそうだ。


 怯える僕の前で、着々と準備が始まっていく。夕日が差し込むカーテンが閉じられると、部屋はノートパソコンの光のみとなる。暗闇の中、光に照らされた先輩は、神秘的でもあり不気味でもあった。


 天井にはプロジェクターがあって、そこから光が壁へ向かって飛び出していく。壁がスクリーン代わりということらしい。


「後は再生を押せば始まるよ」


「本格的ですね」


「全然だよ。もうちょっとお金かけたいんだけどね。学生のみとしてはこのくらいが限度かな」


 そういえば、福路先輩は美女と言っても差し支えがないにも関わらず、浮ついた話を一切聞かなかった。憧れの的として噂されているにもかかわらず、彼氏がいるという話はなく、サークル活動にも参加せず合コンにも足を運ばない真面目な人間という評価がなされていた。もしかしたら、お金はすべて映画に回しているんだろうか。


「何か飲み物とか食べ物はいるかな。ちなみにソーセージは絶対だね」


「じゃあ、コーラとかあれば」


「あるよ。映画を見るにはうってつけの飲み物ね」


 福路先輩はキッチンへと向かっていく。扉が開き、あわただしく扉が閉まった。駆け足で戻ってきて。


「君、大変だ。ソーセージがない……!」


 あまりにも深刻そうな声音でいうものだから、身構えた僕はその内容に虚を突かれた。遅れて言葉の意味を理解して、僕は笑ってしまった。


「どうして笑っているの?」


「ソーセージがないことをそんなに深刻そうに話す人ってはじめてで」


「だからって笑わなくてもいいでしょう」


 これが、いつも僕のことをからかっては遊んでいる福路先輩の気持ちなのか。そこはかとない喜びが湧き上がってきたけれど、悲しそうに俯いている先輩を目にすると、心にとげが刺さったような痛みが走った。僕には、こういうことは向いていないらしい。すみません、と謝れば、福路先輩の顔が上がる。その表情は実に晴れやかであった。


「ふふっ。だまされた?」


 どうやってもこの人には敵わないらしい。僕は両手を上げて、降参のポーズ。


「これに懲りたら、私のことはいじらないこと。さて、ソーセージを買ってこようかな」


「わざわざそんな……」


「私の家に来てくれた記念。いや、君が私のことを揶揄ってきた記念だから」


「…………」


「冗談。でもおごるのは冗談じゃないから安心してね。最近、おいしいお肉屋さんを教えてもらったからさ、ずっと君におごりたいと思ってたんだよねえ」


 言いながら、先輩が立ち上がる。


 不意に、先輩の目がすっと細められた。言いもしれぬ恐怖が僕の中に生まれる。何に対する恐怖なのか自分でもよくわからないけど、先輩の中によくわからないものが見えた気がした、としか形容ができなかった。


「この部屋から出ないでね」


「それは、どういう意味ですか」


 反射的に答えられたのは、疑問がふっと浮かび上がってきて口をついて出ていったから。そうでなければ、先輩の体から発せられる重圧に負けている今、言葉は発せなかったに違いない。


 すぐには答えは返ってこなかった。先輩は意味深な笑みを浮かべて、僕をじっと見ていた。


「乙女には秘密がいっぱいなの。それを混ぜ返すのはどうかと思うよ」


 ――知られたらいけないようなことをしてるのか。


 疑問は頭の中をよぎっただけで、言葉にはできなかった。わかった、という確認の言葉に、僕は頷くことしかできなかったのだ。


 笑い声を残して、先輩が去っていく。


 扉がバタンと閉まる。足音が離れていってようやく、僕にかかっていた硬直は解けた。


 滝のような汗が噴き出してくる。額には脂汗が浮かんでいた。それを拭おうと手を伸ばせば、その手が小刻みに震えていることに気が付いた。


 僕は、ひどく動転していた。


 これが恐怖。


 網田さんが体験した恐怖?


 僕はつばを飲み込み、首を横へ振った。あの怖がりようなこんなものじゃなかった。もっと恐ろしいものを目にしたに違いない。


「いったい、何を」


 福路先輩は、部屋を出るなと言った。あまり詮索するものでもない、とも言っていた。


 だからといって、この部屋を物色するな、とは言っていない。


 自分でも、屁理屈詭弁のたぐいだってことはわかっている。でも、体を動かしていないと、恐怖に押しつぶされてどうにかなってしまいそうだったのだ。


 とはいえ――。


 周囲を見渡してみても、特段気になるようなものは見受けられない。ワンルームの中にものがほとんどないから、一目見ただけでどこに何があるのかわかった。わからないのはノートパソコンとクローゼットくらいだ。

 

 ノートパソコンに近づいて、開いてみる。ロック画面が表示された。今どき電子機器にロックをかけていない人間なんていない。試しに、先輩の誕生日を入力してみたけども違った。お手上げだ。


 次にクローゼットを開く。そこに人が隠れているなんてことはなく、女性のクローゼットだなあ、という感想しか浮かばなかった。下に積まれた箱は見ないことにした。おそらく下着類が入っている。


 異常なんて何にもありはしないではないか。


 僕はノートパソコンの前まで戻ってきて、腕を組む。やはり、ロックを解除するしか方法はないのか。どこかに付箋とかついてないだろうか。あわよくば、そこにパスワードが書かれていないだろうか――。


 ガサゴソと探っていると、パソコンデスク足元に置かれたゴミ箱が見えた。中にはくしゃくしゃに丸められた紙がいくつもあった。その一つを取って、広げてみる。


 それは便箋だった。下の方が破り捨てられた便箋だけど、全部がそうなっているわけではないらしい。――六つほどを拾い上げてみたが、最初の便箋だけが破られていた。


 それらはどれも同じ言葉から始まっていたから、おそらくは同じ文面のものなのではないか。


 その、下部がない便箋を読むことにする。綴られた綺麗な文字は、まぎれもなく福路先輩のもの。


 あて先は僕だった。


 一体、何が書かれているのか、僕は角ばった文字を目で追いかけていく。


『あなたのことが好きです』


 そのワンフレーズを目にした途端、福路先輩その人の声で再生された。吐息たっぷりに、甘い言葉をささやかれてしまったように脳が錯覚して、僕の体が震える。その後にも文章は続いていた。返事を待ってますとか、たぶん書かれていたんじゃないか。でも、僕の目は滑り、脳はあまりにも驚きすぎて思考停止寸前。意味を理解することはなかった。それどころか、告白以前の言葉さえも吹き飛ばしてしまったくらいだ。


 夢か現かと思い、頬を叩くと痛かった。まごうことなき現実だった。


「どうして僕なんかを……?」


 僕は覚悟を決めて、文章へと目を戻す。


 僕と出会ってからのことがつらつらと書かれている。僕の好きなところも書かれていたけれど、はっきりとはわからない。だって薄目で読んでいたから。見たら、熱暴走を起こして倒れてしまいそうだった。


 僕との思い出を回顧していた文章が途中で終わる。夏の夜のことに差し掛かろうとしていたところだった。その先は、破り去られてしまったということだろう。


 ――あの悲鳴が聞こえた夜のところがなくなっている。


 茹で上がりそうになっていた僕の頭は、冷や水を浴びせられたみたいに、すっと冷静さを取り戻す。ここへやってきた理由もおもいだした。こうやって捨てられた手紙を読んで、気色の悪いにやけ面をするためでは断じてない。


 福路先輩が隠していることを知りたいのだ。


「福路先輩は、僕に好意を抱いていることを隠していた?


 バカな、と一度は否定した。一度だけではなく二度三度と。でも、実際はそうではないのだ。好きじゃなかったら、五回も六回も便箋に書いたりしない。……たぶん。


 僕だって、好きな人に好きだということを知られたくない。僕だったら、こうやって便箋にしたためることだってできるかわからない。だって、すごく恥ずかしいではないか。


 だから、僕への好意を隠すために網田さんを怖がらせたと考えれば、辻褄は合う。あそこまで怖がらせる必要はあるのか、という問題はあったけども。


 どちらにしても、この便箋は何かしらの証拠になりうる。僕はしわを伸ばして折り畳み、ポケットへと突っ込んだ。


 その時、外で音がしたような気がして、体がすくんだ。先輩が帰ってきたかと不安になったけれど、風で物が倒れただけらしかった。緊張しすぎて、どんな小さな物音でも今の僕にとっては地鳴りのようによく響く。


 ふうと息を吐いて吸って深呼吸する。


 遠くの方でぴちょんとしずくが垂れる音がした。窓の外はだいだい色から暗い青へと切り替わろうとしている。雲はまばらで、雨が降っているという様子はない。


 その水音は、部屋の外から聞こえてきていた。


 ゆっくりとそちらの方を向く。誰がそこにいて、僕を怖がらせようとしているのではないか。……振り返っても誰もいやしない。怯えた僕の心がそう錯覚させるのだと、心に言い聞かせる。


 扉の前に立った時、先輩の忠告を思い出した。


 詮索しない方がいいなんてわかっている。よくないことだって。


 それでも、知りたいのだ。


 頬を叩き、扉を開ける。廊下へ出ると、残暑を感じさせる熱気が僕を包み込む。


 薄暗い廊下は四方向へと伸びており、正面が玄関で背後がワンルーム、左がトイレ、右がバスルームだ。このアパートはすべての部屋が同じ間取りとなっているから、間違いない。


 音はバスルームの方からした。気が付くと、ぴちょんぴちょんと音は続いており、最初から水音はしていたらしい。今の今まで気が付かなかったのは、良くも悪くも舞い上がっていたからだろう。


 バスルームにはすりガラスがはめ込まれた扉がある。電気をつけると、何かがぶら下がっているのがぼんやり見えた。服でも干しているのだろうかとも思ったけど、ぶら下げられているものは大きく立体的で、どちらかといえばサンドバッグのようだ。


 扉からは鉄臭さとともに、臭気にも似た異様な雰囲気が漏れ出てきていた。


 この扉を開けてはならない。


 本能がそう叫んでいる。この先には見てはいけないものがあるに違いないと訴えていた。


 だけど。

 

 恐怖を理性で押さえつけ、僕は扉を開けた。


 鉄臭いにおいが、雪崩れ込んできた。せき込み、涙がにじんできてしまうほどに濃密で不快な香り。顔を上げると、ぶら下がるボンレスハムのような物体が、物干し竿にひもでくくりつけられくるくると回転しているのが見えた。下部からは液体がぽたぽたと落ち、ユニットバスに赤い波紋を生み出している。


 赤い鉄臭い液体。


 血。


 ユニットバスだけじゃない。壁も床も、赤で染まっている。


 血で染まっているのだ。


 悲鳴が口からほとばしる。飛び退いた拍子に、僕は何かを踏んでしまった。体がぐらりと傾き、倒れた。痛みにうめきながら踏みつけたそれを見れば、フォークだった。さび付いたように赤茶けたそれは、ここにあるべきではないのに、この場に似合っていた。


 がちがちと歯と歯がぶつかる。言葉を発することができない。


 ――あれは一体。


 体の震えが止まらない。立ち上がることさえ忘れながら、それでも、回る円柱形のそれに目線を向けた。


 下から見ると、何かに袋をかぶせられているのが分かった。真紅に染まった袋から飛び出しているのは、足だ。皮をはがれ、肉をそがれ、骨が露わとなっている――。


 あれはヒトだ。


 死んだ人間。


 僕は立ち上がる。こんなところにはいられない。あれは間違いなく死んでいる。警察に連絡しないと――。


「――見たんだ」


 声が聞こえた。


 僕は、振り返る。


 そこには、いた。


 福路先輩が立っていた。


 あの惨状を生み出した張本人が。

 

 僕もあの死体みたいになってしまうのか。


 そんなのは嫌だ。


 気が付けば僕は、手の中のフォークを握り、福路先輩へととびかかっていた。


 振り上げたフォークを、先輩の首筋めがけて振り下ろす――。


 ――でも、できなかった。


 僕は、先輩を殺せなかった。


 相手は犯罪者なのに。


 殺人を犯した人間なのに。


 暗闇の中に立っている先輩は笑っていた。僕がしようとしていることを理解しつつも、抵抗することなく、その場に立っていたのだ。


 僕は悟った。どうして殺せなかったのか。フォークを頸動脈めがけて刺すことができなかったのかを。


 相手の想いに気が付いてしまったから。


 自分の想いに気が付いてしまったから。


 手からフォークが落ち、フローリングで跳ねて、カランカランと悲しげに回った。


 僕にはどうすることもできなかった。先輩が逃がしてくれるとは思えない。そんなにバカな人じゃない。僕が口をつぐむと言ったって、信じてくれるような人ではない。


 殺されてもいいと思った。先輩になら、それでもいいと。


 次の瞬間、稲光がはじけた。


 僕の意識が光に飲まれる。


 バチバチと発光する装置を手にした先輩の顔は、驚きに満ちていた。

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