第4話
恐慌状態に陥っていた網田さんは失神した。
呼吸は正常。顔色も、やつれてはいたけれど、深刻な問題があるようには思えなかった。でも、倒れた際にどこか体を打ったかもしれず、心配になった僕は福路先輩に連絡した。
ワンコールで先輩は出た。
僕が事情を話すと、わかった、とだけ先輩は言って通話は切れた。
僕はスマホを手にして、立ち尽くす。
迷惑だっただろうか。迷惑だろうな。時間的に、講義は始まっているはずだ。帰ってくるとしたら、途中で抜け出すことになる。
それに――。
僕は、ソファで眠っている網田さんを見る。彼女は福路先輩の何かを思い出そうとして、気を失った。ならば、目覚めた時に先輩がいたら、怯えてしまうのではないか。
それで、何かが起きてしまうのではないか。
「僕は何を望んでるんだ……?」
ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
玄関の方を向く。誰が来たのかと疑ってしまったけれど、先輩がやってきたに違いなかった。
扉を開けると、そこには想像通り先輩が立っていた。その背後で、今まさにタクシーが走り去るのが見えた。
「みあが倒れたって聞いたけど」
「そうなんです。救急車を呼ぶべきかわからなくて」
「それで私を」
福路先輩は乱れた髪を直すことなく部屋の奥へ。その部屋の乱雑さに声を上げたものの、すぐに網田さんの脈を取り始めた。呼吸を確認したり、顔色をチェックしたり。
少しして、先輩が息をついた。張りつめた糸が、緩んだように見えた。
「これなら単に気絶しただけだと思う。急性アルコール中毒ってわけじゃないだろうし」
「よかった……」
「一応、今日は安静にした方がいいかな。このビールなんかは、今日はお預けね」
福路先輩は苦笑しながら、ぬるくなってしまったビールをもって、リビングへ。冷蔵庫を開ける音がして「同じビールばかり飲んでる」という声が聞こえてくる。
「先輩と網田さんって親しいんですか?」
「うん。私がこっちに引っ越してきたからの付き合いだから、小学生からかな」
「長い付き合いなんですね」
「だから、冷蔵庫の場所だってわかるし、仕事が終わるとお酒を飲むってことも知っている」
笑いながら言って、福路先輩は戻ってくる。
「飲みすぎるきらいがあるからさ、すごく心配になるよ」
そんな心配をよそに、網田さんはすうすうと寝息を立てている。先ほどまでの恐怖は、微塵も感じられない穏やかな顔だ。
網田さんが先輩に対して向けていたらしい恐怖。その原因となるものを、先輩本人からは全く感じられない。福路耀という女性が浮かべているのは、実に柔らかな笑顔だ。取り繕ったものとは思えなかった。
じっと見つめる僕の視線に気が付いたのか、先輩の顔が傾く。
「顔に何かついているかな」
「なんにも」
「ふうん。変なの」
何とも言えない空気が流れる。まぎれもなく僕のせいである。冷静になって考えてみると、生まれて初めて女性に招待され、生まれて初めて女性の部屋に上がったのだ。すごく緊張していた。心臓が口から飛び跳ねて爆発しそうだ。……気絶した人がいるのに、何を考えてるんだと自分でも思わないでもない。
「居心地が悪い?」
「……正直」
「部屋が汚いから……ってわけじゃないよね。どうせ遠慮してるんでしょ。女性の部屋に上がっちゃって申し訳ないとかなんとか」
図星なので何にも言い返せなかった。僕が黙っていると、福路先輩はおかしそうに笑う。
「優しいね」
「別に優しくなんか」
「わかったよ」ため息を一つして福路先輩は言った。「折角私が来たし、戻ろうにも今さらみたいなところあるしね」
「すみません」
「謝らないの」
また謝りそうになって、僕は口をつぐんだ。先輩の顔を見ることはできなかった。見なくても、どんな表情をしているかは想像に難くない。
立ち上がって、僕は眠りについている網田さんへと目を向ける。
一つだけ心配なことがあるとしたら、彼女のことだ。網田さんが恐怖していた相手が福路先輩に違いないとしたら、彼女がここにいることで何かが起きてしまうのではないか。網田さんが何かをするというのも考えられる。でも、それよりも――。
福路先輩が何かをするのではないか。
どうしてそう考えてしまうのか、自分でもわからない。ただ、無性にそんな気がしてならなかった。
目線を先輩へと戻す。先輩はいつも通り涼し気な笑みを僕へと投げかけていた。そこに、よこしまな考えは見当たらない。
「何かあったら言ってください」
「うん。すぐに連絡するから」
スマホを持った手をひらひら動かした先輩に見送られながら、僕は網田さんの部屋を後にした。
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