第3話

 翌日と、そのさらに翌日。


 いかにも真面目そうな刑事がやってくることもなく、いつも通りの日常が続いていた。


 この前の絶叫はいったい何だったのか。寝ぼけた僕の聞き間違えであったのか。いや、幻なんかではない、今でもそう確信している。だけども、ここまで変化がないと幻聴を疑いたくなってきた。……確認する方法がないわけではない。あの満月の夜、福路先輩が言ったことを実行すればいいだけだ。


 そんなことを考えながら顔を上げると、夏の日差しに照らされた真新しいアパートがある。あの時のおどろおどろしい雰囲気はなく、山が背後に迫っているからか街中よりさわやかである。今日は午後の講義がないから、こうして早く帰ってきて福路先輩と話をしようと思った。だけども、いざ扉を前にすると緊張して、呼び鈴を押せないでいたのだ。


「やっぱり、女性の部屋に上がるのはなあ」


「女性が、なに?」


 声が背後からして、僕は振り返る。一瞬、福路先輩だと思って心臓が飛び上がった。


 振り返るとそこにいたのは、沈んだオーラを放つ女性。このアパートに住む最後の一人、網田みあさんだ。


「網田さん」


 両手に花ならぬレジ袋を携えふらふらと歩くその姿は、福路先輩と似たような服装にもかかわらずどこか陰気に映る。


 ゆらりと幽鬼さながら目の前までやってきた網田さんが、僕の顔を見上げてくる。まじまじ見つめられると迫力があった。


「な、なんですか」


「耀んちの前で何してんの」


「ちょっと聞きたいことがあったんです」


「普通に聞けばいいじゃん」


 言うが早いか、網田さんは福路先輩の部屋の前に立ち、インターホンを鳴らした。呼び鈴が反響する。少し待っていたけども反応はない。


「いないわ。学校ね。ってか、あなたも大学生でしょ。こんなとこで何やってんの?」


「講義は午前中だけだったんです」


「ふうん。大学生はのんきでいいね」


 軽蔑というよりは羨望に近い響きがその言葉にはあった。網田さんは福路先輩の友人で、高校卒業とともに就職したのだとか。僕だって、好きで暇になったわけじゃないけども、それを社会の荒波に揉まれている網田さんへぶつけてもしょうがない。


「夜勤ですか」


「納期がギリギリでね」


 網田さんはプログラマーだ。疲弊した姿を見るたび、僕の中で、プログラマーにだけはなりたくないという気持ちは強くなっていく。


 夜勤明けの人をこれ以上引き止めたくなくて、僕が自室に引っ込もうとすれば、網田さんが立ちふさがった。


 その目は獲物を見つけた猛獣のように爛々と輝いていた。


「ちょっと付き合って」


「な、何に」


「一緒に酒を飲むの」


「こんな昼間っから、何言ってんですか」


「わたしからすれば夜よ」


「そりゃあ、寝てないんだからそうかもしれませんけども……」


 網田さんと酒を飲んだことは一度もない。彼女は、福路先輩の友人であり、隣の隣の部屋に住んでいる人に過ぎなかった。話だって、一度二度しかないっていうのにいきなりお呼ばれ。喜んでいいものなのか、もしくは何か裏があるのか。


 考えているうちに、腕をつかまれた。その手は思いのほか強くて、びっくりする。


「耀の頼みは聞くくせに、わたしの頼みは聞けないっていうの?」


「だって、怖い――」


「誰が怖いって?」


「……なんでも」


 それでいいのよ、と言って、網田さんは自室へと歩き始める。僕は引きずられるようにして、網田さんの部屋へとお邪魔することになった。


 僕の部屋とは違う意味で汚い部屋。ゴミや服やらが散乱するワンルームの中央には、ちゃぶ台があって、僕はその前に座らされる。


 ちゃぶ台にレジ袋をドンと置き、僕と相対する形で網田さんが座る。レジ袋をまさぐり、その中のものを放った。キャッチするとそれはビールだった。


「それしかないから」


 プシュッといい音がして、網田さんは缶に口をつけている。ちょっと日焼けしたのどが刻々と波打つ。ぷはあと、豪快な声が上がった。


 僕は、ビール缶に目を向ける。開けようかどうしようか迷ってやっぱりやめた。網田さんは酒に手を付けない僕を見て、不満げに鼻を鳴らす。


「飲まないなら、つまみでも食べたら?」


「昼ご飯を食べたばかりなんで遠慮しておきます」


「そ」


 網田さんはリモコンを手に取り、テレビの電源を入れている。ピッピッピ。チャンネルを切り替える。有料のスポーツチャンネルで止まった。そこでは、昨夜の野球中継の再放送が行われていた。


 僕は野球にはそれほど明るくない。知っているのは十二球団の名前くらいで、選手の名前はちんぷんかんぷん。だから、その再放送試合を見ていても、何も思うことはない。点差が十点ほどついていてもそんな試合もあるんだなって感じだった。


 だけども、その得点を見た瞬間、網田さんの目の色が変わった。


「何やってんのよ!!」


 ビール缶がちゃぶ台へと叩きつけられた。その衝撃で、缶の口から金色のしぶきが飛び出し、狭いちゃぶ台を濡らす。身を乗り出すような恰好でテレビを食い入るように見つめ始めた網田さんに、目の前の光景は現実のものなのかと、僕は何度も瞬きした。幻なんかではなかった。


 疲れ切った大人代表のような網田さんが、目を血走らせて野球を観戦している。何かよくないものが憑依したかのように、バントに失敗した選手を罵っている。


「野球、好きなんですか」


 ヒックとしゃっくりを一つした網田さん。「好きで悪い」


「そんなこと一言も言ってないです」


「好きよ。こうやって酒を飲みながらギャーギャーわめいていると、何もかも忘れられるから……」


「なんか、すみません」


「謝らないでよ。……みじめじゃない」


 缶ビールを一息にあおった網田さんは、空になったそれを放り投げようとして、思い直したのかちゃぶ台に置く。レジ袋からビールを取り出して、再び飲み始める。


「何本買ってきたんです」


「一ダース」


「買いすぎです」


「余ったら冷蔵庫に入れればいいもん」


「まあ、いいですけど体を壊さない程度にしないと危ないですよ」


「なに、心配してくれてんの?」


「だから、心配ってわけじゃなくて、見ていて痛々しいっていうか」


「バカ」


 ビールを持っていない方の手で空き缶を投げつけられた。痛い。


「弱いの?」


「酒ですよね。弱いってわけじゃないですけど、僕まで酔いつぶれたら誰が収拾つけるっていうんです」


「記憶をなくすまで酔いつぶれたらいいんだ。そうしたら、隣から聞こえてくる声なんて何も――」


「声? それって、先輩の部屋から聞こえてくる……」


 あれは幻聴ではなかった。


 仲間がいたのが妙に嬉しくて、僕は身を乗り出す。そんな僕の反応が意外だったのか、網田さんは目を丸くさせていた。


「聞いたよ。女の悲鳴だった。それで、耀の部屋を見に行ったんだそうしたら――」


 そこで言葉がぴたりと止まる。同時に、網田さんの体も石化してしまったように硬直した。


 アルコールの作用か真っ赤になった手から、缶が滑り落ちる。開いたばかりの口から、液体がこぼれ、フローリングへと広がっていく。ビールは網田さんのつま先を濡らしていたが、足を動かそうともしない。


「網田さん?」


 返事はなかった。網田さんは、頭を抱えて震えていた。その姿は、何かに恐怖しているように見えた。


「何か知ってるなら教えてください」


「知らない何も知らない。そうじゃないといけないの。じゃないと――」


 ――じゃないと食われる。


 テレビから悲鳴がこぼれる。ピッチャーの投げた球が、バッターの側頭部にぶつかったのだ。


 網田さんの体がくらりと傾いた。

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