第2話

 美人な先輩と、割安な家。しかも、料理は――毎日というわけではなかったけども――先輩が作ってくれる。その料理はかなりおいしいときた。今どき信じられないくらいの好物件だった。


 だけども、ある一点において、このアパートは問題を抱えていたのである。



 それが聞こえたのは、十三日の金曜日のこと。うだるような熱帯夜の中、満月が涼し気に浮かんでいた夜だ。僕はといえば、窓から見える風流な景色に目もくれず、机にかじりついていた。明日までの――日付をまたいだ今それはもう『今日まで』と言い換えられる――課題が終わっていなかったからだ。


 カチコチと時計の音が響く。風に吹かれたカーテンがひらひら踊る。


 つつましいベルの音が午前一時を知らせた。


 絶叫。


 つんざくような声が、天を切り裂き墜ちた雷のごとく僕を襲った。実際にはそれほど大きくはなかったのかもしれないけども、僕にとっては、つかの間放心してしまうほどの大音声であった。

 

「い、今のは……?」


 絶叫だったのはすぐに分かった。声もさることながら、言葉になっていない音声に込められていたのは、間違いなく恐怖と絶望だった。


 驚いた心臓がずきずきと痛む。夢でも幻聴でもなかった。


 声は隣から聞こえた。


「福路先輩――」


 僕はいてもたってもいられなくてよろよろと立ち上がり、寝間着姿のまま玄関を出る。頼りない蛍光灯に照らされたアパートの廊下には屋根はない。視線を山の方へと向けると、蛍光灯では塗りつぶすことのできない山があり、そこからは夏とは思えない冷ややかな風が吹いていた。


 福路先輩の部屋は僕が借りている部屋の隣だ。


 扉にはインターホンがある。押していいものなのだろうか。その前に警察を呼んだ方がいいのではないか――。


 でも、そうしているうちに、先輩が死んでしまったら。


 インターホンを押した。


 ピンポン、と間延びした音が鳴る。場違いな音は、虫の音もしない真夜中によく響く。気を張り詰めていた僕からすると、何かしらの反応があるまでの間、無限にも等しい時間が経過したように感じられた。


 たったったと足音が聞こえて、扉から距離を取る。先輩ではない人が出てくるのが怖かった。


 開いた扉から顔をのぞかせたのは、福路先輩であった。その理知的な顔を見た途端、膝から力が抜けた。


「どうしたの」


「心配で。さっき悲鳴が聞こえて、それで」


「悲鳴?」


 福路先輩は、考え込むように僕の背にそびえる山の方を見た。それが、どうにも不思議だった。あれほどの大音量だったのに、聞こえなかったとは思えなかった。


 ぽんと、先輩が手を打つ。


「ああ、あれは映画の音だよ」


「映画?」


「そ、ホラー映画。ほらよくある急に声を出すシーンがあるでしょ。ジャンプスケアっていうんだけど」


「つまり、ホラー映画に出てきた人が出した叫びってこと……」


「その通り」


 もっともらしい表情を浮かべて、福路先輩は頷いた。


 そんな馬鹿な。率直に言ってそう思った。だけども、福路先輩の顔を見ているとそんな気がしてくる。それに、先輩が嘘をついて何になるというのか。そんなことをするのは、犯人と知り合いか犯人くらいだろう。


 遠くで、パトカーが発するサイレンの音がした。


「あがる?」


「へ?」


「私のことを疑ってるでしょ、君」


「そんなつもりはないですけど」


「ないけど思うところはある、と。じゃあ、確認すればいいじゃない」


 ――ほら。


 ドアが開かれる。


 福路先輩は僕みたいにパジャマを着てはいなかった。今朝見た時と同じ格好だ。洒落た格好の先輩の姿は、扉の向こうに広がっている闇のせいで、浮かび上がるような不気味さがあった。


 闇の奥には、ぼんやりと扉が見えた。ぼそぼそとした音と、光が扉の隙間からわずかに漏れていた。映画を見ていたのはあながち嘘だとは思えなかった。


 ちょいちょいと手招きする福路先輩は、なんだか悪魔みたいだ。


 息が詰まりそうになりながら僕は、いいです、と返事した。


「そう」そんな先輩の声がちょっと残念そう。「まあ、ホラー映画苦手な人もいるよね」


「そう言うわけじゃなくて。もう遅い時間じゃないですか。なのに、女性の家に上がるのはさすがにどうかなって」


「私は気にしないけれど。もしかして、私のことを心配してくれたの?」


 僕は何も言えなかった。先ほどまでの疑問とか、福路先輩に抱いた恐怖心とかはさっぱりどこかへと飛び去ってしまって、残ったのは羞恥心だけだった。


 福路先輩が笑う。その、実におかしいとばかりの笑みを見ていると、いつもの先輩の調子が戻ってきたように感じられた。


「心配なんてそんな」


「わかってるって。とにかく、私は無事だから安心して。安心できないっていうなら、お姉さんが一緒に寝てあげても――」


「もう帰ります!」


 恥ずかしくて恥ずかしくて、これ以上この場にいたら、どうにかなってしまいそうだった。消えてなくなることもできないので、先輩に背を向けて自室へと戻った。

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