第8話 名前にこだわる男

 どうやら、この男子は、それなりの頻度でマリーズコーヒーに来ているという。アタシもここにはよく来るのに、男子が地味すぎていままで印象が残らなかったようだ。

「で、あんたは、こんなところで勉強してんの?」

 机上には、高校の数学のプリントやら、参考書やらがある。潮高校が独自に使用していると思われる見慣れない教材もある。しかも、参考書には数学Ⅱとある。この人は、同じ高校1年生ではなかったか。警察の事情を話しているときに、偶然知った情報だ。しかし、高校2年生で習うはずの勉強をしていた。さすがは進学校だ。

「混雑時間帯に教材を出していることは詫びる。しかしながら、あまり自宅でははかどらないのも事実」

「ってまぁ、マリーズには、アタシも勉強目的で来たことあんし、イイんじゃないの」

 本当は、宿題の答えを写させてもらうためだけど。

「そうか」

 正直、少し意外だ。ガリ勉な男子は、環境を選ばずどこでも勉強できるものだと思い込んでいたのだ。


 ふと、参考書を見やると、表紙に油性ペンで書いたような文字がある。ノートにも、よく見るとシャープペンシルや消しゴムにも。

朝永あさなが? 修治しゅうじ?」

 アタシはその文字を読み上げた。この男子の名だと思う。ここに来て、名前も知らなかったことに気が付いた。

朝永ともながだ。ノーベル賞受賞者にもいるだろう」

「トモ……? そんな人いたっけ? トム・クルーズなら知っとるけど」

「常識だぞ」

「勝手に常識と決め付けないでよ。大体、何でこれで『ともなが』と読むの?」

「『朝』という漢字を『とも』と呼ぶのは、源頼朝みなもとのよりとも源義朝みなもとのよしとも源為朝みなもとのためとも源朝長みなもとのともながなどでお馴染みのはずだが」

「頼朝なら知ってる! 弁慶べんけいのことでしょ?」

「……」

 男子は頭を抱えてしまった。何がおかしいか。


「ちなみに言っておくが、修治しゅうじではなくて、修治のぶはると呼ぶ。朝永ともなが修治のぶはるだ」

「覚えにくい。シュージでいい?」

「覚える努力をすべきだ」

 シュージはいちいち突っかかってくる。面倒な男だ。あだ名と思ってくれれば良いのに。だいたい「覚える努力をすべきだ」と言いながら、アタシたちの顔すら覚えていなかったくせに。


「何で、あんた、持ち物に名前書いてんの? 小学生じゃあるまいし」

「何か不満か? 逆に問うが、なぜ小学生でなければ記名してはいけないのか」

「いけないとは言ってないさ。珍しいと思っただけ」

「仮に、盗難に遭ってそれを見つけたときに、自分のものだと主張できる。ゆえに、盗難防止効果を期待できる」

 やはり、価値観が違う。アタシには触るだけで身体がかゆくなるような参考書や、使いかけの消しゴムが、盗難の対象になり得ようか。

「ま、変わり者だね」

「それはお互い様だろう。小生のような男に話しかけるとは」

「それは、あんたが助けてくれたからじゃない。それを感謝してんのに、素直に受け取らないから、ムカついてんの」

「では、話しかけなければ良かろう。にもかかわらず、小生に話しかけているのが、理解に苦しむ」

 それはそのとおりだ。何で、この男子に話しかけているのか自分でも分からない。


「り、璃乃ぉ。席が空いたよ。あそこ2人席」静かにしていた澄佳が、空席を指差す。

「ってことで、じゃーね」と立ち去ろうとしたときだ。

「ハナサキリノ!」シュージがアタシにフルネームで呼びかけた。

「何よぉ?」

「どういう漢字を書く? 教えたんだから教えろ」

 教えたというよりも、勝手にそちらが見せてきたんじゃないのか。

「は? 名前の漢字?」

「他に何がある。フルネームでな」

「おくで、『花咲』。『璃乃』は説明がムズいから勘弁」

「どういう漢字だ? 説明しろ」

 シュージのこだわりポイントが読めない。

「あんた、本当に面倒だね。璃は、左に王って書いて右に“T”を逆さまにしてその下に“X”を書いて……」

瑠璃るりの『璃』だな。『ノ』は?」

「これどーやって説明すんだ? 刀の右上がへこんでる……」

 ここで、澄佳が助け舟を出してくれた。「乃木阪のぎさか460フォーハンドレッドシックスティでしょ?」

「あー、それそれ」

乃木のぎ希典まれすけだな。自分の名前の漢字を説明できないとは恥ずかしいことだ。で、君は?」と、今度は澄佳に問う。

 いちいちしゃくさわる。ギャルに本名の漢字なんて話題に出ない。友達の名前は、呼び方さえ分かっていればいい。

「今枝澄佳です。漢字は──」

「君は、姉妹が小生の高校にいるのか?」

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