組み合わせの問題
とある女性が砂浜に
四年前、彼女はこの地にやってきた。都会で生まれ育った彼女にとって、喧騒や
さて、憧れの田舎暮らしは想像通り素晴らしいものだった。小さな村であったが、そこに暮らす人々は気持ちの良い人ばかりで、とりわけ隣に住む老夫婦は明らかに浮いた雰囲気だった彼女を優しく迎え入れてくれた。彼女の方も徐々に打ち解け、彼らをおじさん、おばさんと呼び慕うまでになった。初めは教わり、助けてもらってばかりだった農作業も月日が経つにつれ、自活し、獲れた作物を商品として自宅前の無人販売所で売り出せるまでになった。彼女自身、そんな生活に大いに満足しており、何よりこの村が好きだった。ひと言断りを入れれば誰もが道具を貸してくれ、借りた者は礼として作物を譲り、譲られた者もまた礼として料理を振る舞う循環。誰かが必要とすれば別の誰かが手を差しのべ、その良心に触れた誰かがまた別の誰かを助け、新たな良心の
しかし、どんな強固な糸の輪にもほつれが生じ、頑丈な鎖の輪にもひびが入り、そこからやがてはちぎれるもので、人間の場合はその
村での生活を始めて三年と少し経った日のことだ。いつも通りの外作業を終え、その日の販売所の売り上げを確認して、彼女は舌打ちをした。
まただ……。
このところ計算が合わないのだ。販売を始めてから、金額の不足は時々あったが何日も続いたのは初めてであった。料金設定上、皆がきちんと払えば、売り上げの合計の下一桁は必ずゼロになる。だが、何度打ち直してもその日の電卓が示す金額のその部分は4なのだ。
聞けば、他の店でも同じようなことが続いているという。だが、彼女には彼らが何の策も講じないのが不思議でならなかった。何度か、おじさんに話したことがあった。きちんと金を払わない者がいて、監視カメラをつけるなりしたらどうか、と。しかし、おじさんは首を横に振りながら決まって、大体が似たようなことを言うばかりだった。
「時々こういうことがあるんだよ。もちろん、ちょろまかした側が悪いが、その人にものっぴきならない事情があるのかもしれない。それに、だ。こういうことはいつの間にか止んでいるものだ。だから監視カメラなんて必要ないんだよ」
彼女にはそれが分からなかった。今までそれで済んだからといって、今回もそうだという保証などどこにもないのだ。彼女もまた首を振って答えた。
「事情ってなに? 仮にそんなものがあったとして、だからって何も言わずに持って行っていいっていうのはおかしいよ。私だって、足りないなら足りないって、そう言ってくれれば後で払ってもらうなり、場合によってはまけてあげるなりするよ。なんで皆、何もしないのよ!」
欲しいなら欲しいとその
彼女は押し入れの中の段ボールからビデオカメラを取り出した。販売所に取り付けようと、あらかじめ買っておいたものだ。おじさんは、それを使うことに対して最後まで首を縦に振ってくれなかった。彼女自身も彼の言うことをその日までは尊重した。だが、もう放っておいて良い段階はとうに過ぎていた。
翌日の朝、さっそく対策を講じた。彼女はまず、販売所の商品棚の目につく所に、とある張り紙をした。『ご自由にお取りください』と書かれたそれは、やましいことのない者には言葉足らずの文面に見え、彼らは脳内で「どうぞ、お手に取ってご覧くださいませ」と変換してくれるだろう、と彼女は踏んだ。だがその逆、悪意ある者にはその字面はかえって怪しく見え、さらには、これ見よがしに販売所の
つまり、彼女は彼ら自身の想像力に賭けたのだ。飼い馴らせば大きな力になるそれも、
一見、回りくどいその対策は彼女にとって最大の譲歩のつもりだった。本来ならば、見えにくい所にカメラをつけて犯人の割り出しをする方が良かったのだろう。その方が村人とすれ違う度にいちいちその者を疑いの目で見なくて済むから。だが、目的を「防止」のみに留めたのは、おじさんや他の村人と方向性の違いはあれど、彼女自身もまた別の寛容さを示したかったからであった。
幸いにも効果はてきめんで、その日から商品と代金の帳尻が合うようになった。そして残念ながら、対策と共にこうも露骨に犯行が止むということは、例えどんなに思いやりのある人々が溢れている村であろうと、そういった輩は一定数いるということの証明でもあった。
それからしばらくの間は何事もなかった。だが、ある日を境に今度は売れ行きが悪くなっていった。彼女にはその訳が分からず、それとなく他の農家の販売所を見に行ってみる。わずかな数の差こそあれ、行く先々にはまばらに売れ残った商品があった。熱心に商品を吟味する者もいれば、和気あいあいと雑談をする者達もいた。彼女の店でも以前は見受けられた光景だ。そのどこにも彼らを監視するカメラの目はない。代わりにあるのは彼女の姿を認めると彼らが送る、ある種の視線だった。その目には見覚えがあった。生まれてこの方、嫌というほど見てきたし彼女自身も何度かそういう目をしていただろう経験があったからだ。それはいつだって、多数派が正しいとした考えや判断、
あぁ、そういうことね……。野菜をダメにする虫が目の前にいても、この村はそこにさも
そんなことを思いながら彼女は帰路についた。自宅に着くと玄関に張り紙があった。そこに書いてある言葉は短いながらも、村の人々の気持ちを代弁しているように思えた。
『出ていけよそ者』
時を戻して現在――。
気付けば太陽はすっかり西に飲まれ、その残光を映した
ふと、彼女の名を呼ぶ者がいた。その声の主はゆっくりとこちらに近づいてきて隣に座った。二人共黙ったまま、しばらくの間、波の音に耳を傾けていた。ややあって、おじさんの方から沈黙を破る。
「引っ越すんだってな」
「うん。明日」
少し間をおいて、彼は申し訳なさそうに再び口を開いた。
「何もしてやれなくてすまなかった」
彼女はその言葉にゆっくりと首を振った。
「ううん……。あれは誰が悪いとか、そういうのじゃないんだよ、多分。ただ、トマトとジャガイモとか、そういう話だっただけだと思うの」
彼女が場にそぐわない突拍子もないことを言ったので、おじさんは一瞬戸惑ったように彼女の方に顔を向けた。彼女は努めて明るく付け加えた。
「ほら。教えてくれたじゃない。育てる組み合わせの問題。キャベツにはレタス。トマトにはネギとかニラとか。そういう組み合わせは支え合って、より良く育っていくって」
あぁ、と言う一方でまだ腑に落ちない様子の彼に、彼女はさらに言葉を継いだ。
「でも、トマトとジャガイモは違う」
ようやく分かったようでおじさんは言った。
「その二つは同じ畑にいてはいけない、と?」
「そういうこと」
「確かにな。近くで育ててもいかん。前後の時期で育てるのもいかん」
「きっと、私と村の人達もそんな関係だったんだと思う。ものの見方とか、考え方とか――そういう根っこの部分が違ったんだよ。ただそれだけで、この話はここで終わりなの」
そうか、と呟いてから、彼は話の
彼女は深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
やがて、立ち上がってズボンの砂をはらってから、改まった口調で言う。
「長い間、お世話になりました」
そうして
辺りはすっかり暗くなっていた。
最終手段のコバナシたち 尾針 四郎 @ranki-ponban
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