組み合わせの問題

 とある女性が砂浜に胡坐あぐらをかいている。彼女の眼前には、爽やかな太陽の下、活き活きと輝く海が広がっていた。夏らしい、半袖に半ズボンという出で立ちで、そこからあらわになった彼女の肌は健康的に日焼けしていた。近くを通りかかった者が彼女を一瞥いちべつすれば、溌剌はつらつとした印象を受けただろうし、時折、海から運ばれる涼しい風が彼女の長い髪を後ろになびかせれば、その横顔にえられた大きな目にその印象を強めたことであろう。だが、よく観察する者ならば、引き結んだ唇、微笑とも呼べないほどわずかに上がった口角、海の、あるいはその彼方、地平線の一点を眺めたまま微動だにしない瞳から、どこか寂しげな印象を抱いたことだろう。水面みなもを作りながら何度目かの風が彼女の顔を撫でた。息を大きく吸い込むと、鼻腔に潮の香りが広がる。それは以前の彼女にとっては憧れた匂いであり、今の彼女にとっては嗅ぎ慣れた香りであった。


 四年前、彼女はこの地にやってきた。都会で生まれ育った彼女にとって、喧騒やせわしなさは常であり、そこで就職してからはそうしたものがいつしか鼻につくようになっていた。ゆっくりした所でのんびり暮らしたい、そうした願いはその頃には叶えたいものから叶えるべきものになっており、それは辞表として現れた。心残りと言えば、そのかしこまった書類に「けつい」とでもふりがなをつけなかったことぐらいだった。

 さて、憧れの田舎暮らしは想像通り素晴らしいものだった。小さな村であったが、そこに暮らす人々は気持ちの良い人ばかりで、とりわけ隣に住む老夫婦は明らかに浮いた雰囲気だった彼女を優しく迎え入れてくれた。彼女の方も徐々に打ち解け、彼らをおじさん、おばさんと呼び慕うまでになった。初めは教わり、助けてもらってばかりだった農作業も月日が経つにつれ、自活し、獲れた作物を商品として自宅前の無人販売所で売り出せるまでになった。彼女自身、そんな生活に大いに満足しており、何よりこの村が好きだった。ひと言断りを入れれば誰もが道具を貸してくれ、借りた者は礼として作物を譲り、譲られた者もまた礼として料理を振る舞う循環。誰かが必要とすれば別の誰かが手を差しのべ、その良心に触れた誰かがまた別の誰かを助け、新たな良心のかてとなる連関。村人各々が当然のこととして形成するそんなぬくもりが、それまで都会の視野しか持っていなかった彼女には新鮮であった。

 しかし、どんな強固な糸の輪にもほつれが生じ、頑丈な鎖の輪にもひびが入り、そこからやがてはちぎれるもので、人間の場合はそのほころびはいつだって悪意ある人間によって引き起こされることを彼女はよく知っていた。そして、そんな善人の皮を被った誰かに別の者が毒されていき、気付けば信頼など夢のまた夢とばかりに各々、その輪の好きな箇所に切れ目を入れていく――むしろ、彼女はそんな輪だった何かの方が見慣れていた。

 村での生活を始めて三年と少し経った日のことだ。いつも通りの外作業を終え、その日の販売所の売り上げを確認して、彼女は舌打ちをした。

 まただ……。

 このところ計算が合わないのだ。販売を始めてから、金額の不足は時々あったが何日も続いたのは初めてであった。料金設定上、皆がきちんと払えば、売り上げの合計の下一桁は必ずゼロになる。だが、何度打ち直してもその日の電卓が示す金額のその部分は4なのだ。

 聞けば、他の店でも同じようなことが続いているという。だが、彼女には彼らが何の策も講じないのが不思議でならなかった。何度か、おじさんに話したことがあった。きちんと金を払わない者がいて、監視カメラをつけるなりしたらどうか、と。しかし、おじさんは首を横に振りながら決まって、大体が似たようなことを言うばかりだった。

「時々こういうことがあるんだよ。もちろん、ちょろまかした側が悪いが、その人にものっぴきならない事情があるのかもしれない。それに、だ。こういうことはいつの間にか止んでいるものだ。だから監視カメラなんて必要ないんだよ」

 彼女にはそれが分からなかった。今までそれで済んだからといって、今回もそうだという保証などどこにもないのだ。彼女もまた首を振って答えた。

「事情ってなに? 仮にそんなものがあったとして、だからって何も言わずに持って行っていいっていうのはおかしいよ。私だって、足りないなら足りないって、そう言ってくれれば後で払ってもらうなり、場合によってはあげるなりするよ。なんで皆、何もしないのよ!」

 欲しいなら欲しいとそのむねを伝えてくれれば、売り物ではないものをあげるつもりでもいた。要するに、彼女は犯人のやり方が気に食わなかったのだ。400円分の品々を手に取って、100円玉3枚と50円玉1枚を入れる。それがうっかりしたものなら、さして問題ではない。そんなことは誰にでも起こり得る間違いで目くじらを立てるほどでもない。だが、それが連日のこととなれば、おや、となるのは当然で、その4枚が全部1円玉になれば大問題だ。中には1円も払わずに持って行く者もいるようだったが、彼女にとってはそちらの方がまだ「潔さ」という点ではマシだった。許せないのは料金箱の中が外から見えないのを良いことに――人前であろうとそうでなかろうと――そこにいい加減な金を入れておきながら、私はきちんとお金を払う普通の人間です、という顔をしている輩で、彼女には、そんな彼もしくは彼らがジャラジャラと殊更ことさらご立派な音を立てて箱に1円玉を入れている姿が容易に想像でき、腹立たしかった。

 彼女は押し入れの中の段ボールからビデオカメラを取り出した。販売所に取り付けようと、あらかじめ買っておいたものだ。おじさんは、それを使うことに対して最後まで首を縦に振ってくれなかった。彼女自身も彼の言うことをその日までは尊重した。だが、もう放っておいて良い段階はとうに過ぎていた。

 翌日の朝、さっそく対策を講じた。彼女はまず、販売所の商品棚の目につく所に、とある張り紙をした。『ご自由にお取りください』と書かれたそれは、やましいことのない者には言葉足らずの文面に見え、彼らは脳内で「どうぞ、お手に取ってご覧くださいませ」と変換してくれるだろう、と彼女は踏んだ。だがその逆、悪意ある者にはその字面はかえって怪しく見え、さらには、これ見よがしに販売所のすみに取り付けられたカメラにその疑念は膨らむことだろう。よく見ればそのカメラには電源は入っていないのだ。彼らはきっと思うだろう。何か裏があるに違いない、と。

 つまり、彼女は彼ら自身の想像力に賭けたのだ。飼い馴らせば大きな力になるそれも、しつけを誤れば飼い主に牙を向く猛獣となるもので、彼らは自分自身でありもしない裏を覗き、そこに罠を創り出す。そうして彼らの疑惑に満ちた目には、張り紙の文字が「ご自由におりください」と見えるだろうし、暴走した想像力は彼らに別の解釈すら与えてくれるかもしれない。盗れるものなら盗ってみろ、と。

 一見、回りくどいその対策は彼女にとって最大の譲歩のつもりだった。本来ならば、見えにくい所にカメラをつけて犯人の割り出しをする方が良かったのだろう。その方が村人とすれ違う度にいちいちその者を疑いの目で見なくて済むから。だが、目的を「防止」のみに留めたのは、おじさんや他の村人と方向性の違いはあれど、彼女自身もまた別の寛容さを示したかったからであった。

 幸いにも効果はてきめんで、その日から商品と代金の帳尻が合うようになった。そして残念ながら、対策と共にこうも露骨に犯行が止むということは、例えどんなに思いやりのある人々が溢れている村であろうと、そういった輩は一定数いるということの証明でもあった。

 それからしばらくの間は何事もなかった。だが、ある日を境に今度は売れ行きが悪くなっていった。彼女にはその訳が分からず、それとなく他の農家の販売所を見に行ってみる。わずかな数の差こそあれ、行く先々にはまばらに売れ残った商品があった。熱心に商品を吟味する者もいれば、和気あいあいと雑談をする者達もいた。彼女の店でも以前は見受けられた光景だ。そのどこにも彼らを監視するカメラの目はない。代わりにあるのは彼女の姿を認めると彼らが送る、ある種の視線だった。その目には見覚えがあった。生まれてこの方、嫌というほど見てきたし彼女自身も何度かそういう目をしていただろう経験があったからだ。それはいつだって、多数派が正しいとした考えや判断、あがめるべきだとした人や物などに異を唱える少数派に、皆が同じペースで同じ方向に歩く中、我が道を行く者に、向けられてきた。最後に訪ねた店では、そうしたさげすみの目で彼女をジロジロと見ながら何やらひそひそと話し込む者達もいた。

 あぁ、そういうことね……。野菜をダメにする虫が目の前にいても、この村はそこにさも高尚こうしょうな理由あり、と判断するわけね。「ここで皆がすべきなのは、いくら自分の野菜が食い散らかされようが黙って見ていることです。誰かが泣く傍ら、別の人間が嘲笑っていても構いません。大事なのは、いつか彼らがなにかの気まぐれで止めてくれるのを待つことです。だって優しさと温もりに満ち溢れているんですから」そう言いたいんでしょ? むしろここでは、誰かれ構わず疑ってかかる人こそが害虫なわけだ。ごめんなさいね。皆さんの「優しさ」に水を差してしまって。

 そんなことを思いながら彼女は帰路についた。自宅に着くと玄関に張り紙があった。そこに書いてある言葉は短いながらも、村の人々の気持ちを代弁しているように思えた。

 『出ていけよそ者』


 時を戻して現在――。

 気付けば太陽はすっかり西に飲まれ、その残光を映した茜色あかねいろの空も今や、刻々と暗みを帯びていくばかり。ちらほらと見かけた人の姿も黄昏たそがれと共に減っていき、そこに残るのは彼女ただ一人となっていた。

 ふと、彼女の名を呼ぶ者がいた。その声の主はゆっくりとこちらに近づいてきて隣に座った。二人共黙ったまま、しばらくの間、波の音に耳を傾けていた。ややあって、おじさんの方から沈黙を破る。

「引っ越すんだってな」

「うん。明日」

 少し間をおいて、彼は申し訳なさそうに再び口を開いた。

「何もしてやれなくてすまなかった」

 彼女はその言葉にゆっくりと首を振った。

「ううん……。あれは誰が悪いとか、そういうのじゃないんだよ、多分。ただ、トマトとジャガイモとか、そういう話だっただけだと思うの」

 彼女が場にそぐわない突拍子もないことを言ったので、おじさんは一瞬戸惑ったように彼女の方に顔を向けた。彼女は努めて明るく付け加えた。

「ほら。教えてくれたじゃない。育てる組み合わせの問題。キャベツにはレタス。トマトにはネギとかニラとか。そういう組み合わせは支え合って、より良く育っていくって」

 あぁ、と言う一方でまだ腑に落ちない様子の彼に、彼女はさらに言葉を継いだ。

「でも、トマトとジャガイモは違う」

 ようやく分かったようでおじさんは言った。

「その二つは同じ畑にいてはいけない、と?」

「そういうこと」

「確かにな。近くで育ててもいかん。前後の時期で育てるのもいかん」

「きっと、私と村の人達もそんな関係だったんだと思う。ものの見方とか、考え方とか――そういう根っこの部分が違ったんだよ。ただそれだけで、この話はここで終わりなの」

 そうか、と呟いてから、彼は話の接穂つぎほを見失ったかのように黙ってしまった。

 彼女は深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。

 やがて、立ち上がってズボンの砂をはらってから、改まった口調で言う。

「長い間、お世話になりました」

 そうしてきびすを返す彼女。座ったまま見上げるおじさんの顔はどこか寂しげであった――彼女にはそんな気がした。

 辺りはすっかり暗くなっていた。

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最終手段のコバナシたち 尾針 四郎 @ranki-ponban

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