その瞳は緑色に輝く

 それは、とある場末のバーの店主が作り上げたカクテルだった。エメラルドグリーンに透き通るそのカクテルに名はまだなく、あくまでもそれは彼の道楽の範囲内でおさまっているだけで売り物ではなかった。というより、その特徴ゆえに客に出すには欠陥品と言わざるを得なかったのだ。それは、飲む者の感情を味として映し出す鏡のような酒であった。喜び楽しむ者がそれを口にすれば甘く、怒り哀しむ――その他、負の感情を抱く――者がそれを飲めば、その酸味と辛味に顔をしかめることだろう。ただし、心の底から世を楽しめる者は稀であり、大抵はその笑顔の裏に悩みの種がある。逆もまた然りで絶望の中にも案外、一縷いちるの望みがあることも少なくなく、また、そうであってほしいと人は願う。つまり、多くの感情は混色であり、その比率も人によって異なり、そうした点でそのカクテルは味が一定ではないのだ。さらに、それは感情の強さに比例して、より洗練された味にもなった。例えば、「今が人生の最高点だ」と思う者が飲めば、それは今まで味わってきた中で最も甘美なものになるだろう。ただし、その最高点がのちの人生では通過点に過ぎず、さらに高みに登れるかもしれない。対して、「ここが人生のどん底で、あとは上がるだけだ」と思ったところで、どん底のさらに下に落ちないという保証はどこにもないのだ。だとするとそのカクテルの味は実質、限界知らずということになる。

 個人によって味が変わり、どこまでも甘味を、酸味を増していく。そんな気分屋なカクテルの本来の味などはなからどこにもないのかもしれない、そう判断したバーの店主はそれを一人で味わうことに留めた。


 ある日のことだ。そろそろ今日のところは店を閉めようかと思いながら彼が片づけをしていると、カランカランと入り口のドアに取り付けられたベルの音が静かな店内に響いた。

「いらっしゃいま――」

 反射的にそう言いながら、入り口の来店客に目を向けた彼は一瞬固まった。その男性客も彼の顔をじっと見つめたまま立ち尽くしていた。

「こいつは驚いた。何年ぶりだ?」

 つかの沈黙を破ったのは店主の方からだった。見覚えのある顔と忘れかけていた、ややハスキーな声に懐かしさを覚えたのだろうか、その客は照れくさそうに笑いながら答えた。

「それは、こちらの台詞だよ。まさか、こんなところで再会できるなんて……。十年ぶり――じゃないかな?」

「もうそんなに経ったのか……。まぁ、そんなところに突っ立ってないで座れよ。いらっしゃい」

 そう言って彼は、十年来の友人をカウンター席に案内した。

「いや、本当に……。こんなところで会えるなんて。連絡も取れないし、昔の集まりにも顔を出さないからどうしているのかと思っていたところだよ」

 感慨深げにまじまじと見つめながら、昔と変わらない優等生然とした口調に店主はふっ、とだけ笑って注文をとった。

「何飲む?」

「あっ――。あぁ……。じゃあ、ハイボールを頼むよ」

 さっと友人の分の酒を作り、彼は自分用に例のカクテルを作った。

「俺も勝手にやらせてもらうよ。お代はとらないから」


 最初こそ、探り探りのどこかぎこちない会話であったが、酒のおかげもあってか次第に二人は昔のように打ち解け始める。店主が言った。

「そういえば、噂で聞いたんだが結婚したらしいな」

 友人は左手を見せた。

「まぁね。自分でもまさかできるとは思っていなかったんだけどね」

「会社の経営も上手くいき、か。順風満帆とはまさにこのことだな」

「いやいや……。たまたま運が良かっただけさ。それに、やっと軌道に乗ってきたところでね。まだまだこれからだよ」

「それでも、だ。俺もできるだけ器用に立ち回っていたつもりだったが、お前にだけは敵わないと何度思ったことか。今だから言えるがな、当時はどう出し抜いてやろうかとばかり考えていたもんだ。まぁ――結局、万年二位だったけどな……」

 自虐的に笑ってみせた店主に、友人は手をひらひらと振って、

「それは勉強の話だろ。それに僕の方も内心ひやひやしてたよ、いつもね。それから、君なら何か面白いことをやってのけるとも思ったものだよ」

「あぁ。おかげさまで、しがないバーで来る日も来る日も酒をあおって、記憶と合わない帳簿にすすり泣かせてもらってるよ」

 静かな店内に高らかな二人の笑い声が響いた。


 しばらくして、友人は腕時計を見て言った。

「おっと。もうこんな時間か。そろそろ帰らないと。お勘定を頼むよ」

 店主は首を振って

「いや、いいよ。今日は俺のおごりだ」

「いや、それは悪いよ――」

「なに、ささやかな結婚祝いとでも思ってくれ。それに早く帰らないと、ご自慢のワイフが嫉妬で目を緑色にさせてる頃だろうよ。『どこの雌猫とほっつき歩いてるのかしら』ってね」

 友人は、おどける店主の言葉に甘えることにし、改めて礼を言い、席を立った。そして帰り際に言った。

「元気そうで良かったよ。また来てもいいかい?」

「もちろんだ。いつでも待ってるさ」

 そう言い、店主は例のカクテルが残ったグラスをかかげてみせた。入り口のベルの音と共に店をあとにした友人。再び静かになった店内でただ一人、彼はもう一度、胸の中で友人を祝い、そのカクテルを一息に飲み干した。途端に口の中に爽やかな甘味が広がった。


 それから、友人はそのバーにしばしば通うようになった。そんな彼との会話を店主は大いに楽しみ、初めのうちはカクテルの甘味にふけった。しかし、会うほどにその甘味はくどくなり、雑味を持つようになり、徐々に舌先にピリピリとした後味を残し始め、ついには不快な酸味を感じさせるだけの液体となった。その正体に彼はうすうす気付いていた。だが、せっかくの再会にそんな野暮な感情を抱いていることを認めたくなかった。それでも、友人の言葉から、その語気から、その表情から、その一挙手一投足から彼の自信や充足感といったものが垣間見えるようで、その度にその感情は過敏に反応し、確実に膨らみ続けた。

 味覚として顕在化けんざいかしたそんな事実を否定したかった。だから彼は友人の前でそのカクテルを飲むことをやめた。


 月日は経ち、珍しく友人がひどく酔っ払った様子で店に来た。異変を感じ取った店主は店先の看板を「closed」に裏返し、友人が口を開くまで待った。しばらくの間、彼のため息と傾けたグラスの中の氷がカランと鳴る音だけが聞こえる。やがて彼が口を開く。

「君は、恋人はいないのかい? 結婚は?」

 店主はいつも通りの軽い口調を努めた。

「いや……。二年と少し前にこっぴどくやられてそれ以来さ」

 力なく笑って友人は続けた。

「結婚なんてするもんじゃない……」

「おいおい。なんだ? 閉め出されでもしたか?」

 わざとふざけてみせる店主とは対照的にその友人は真剣な面持ちで、珍しく語気を荒げた。

「閉め出す? はっ――。そんな権利があるなら、ぜひとも聞かせてもらいたいね。君はいつか言ったな。雌猫がどうのって。あぁ、そうさ。とんだ雌猫だったわけだ」

 一瞬、何のことを言っているのか分からなかったが、すぐに彼の言わんとすることを察した店主も真剣に尋ねた。

「もし、酒の勢いでそれを言っているんなら今日は帰った方がいい。だが、確かな証拠があるなら話すといい」

 すると、友人はおもむろにスーツの胸ポケットから一枚の写真を取り出し、それを眺めながら弱々しく言った。

「山ほどあったさ。気のせいであってほしいと思っていたよ……。だけどね。全く――。探偵はいい仕事をしてくれるよ」

 そうして、訥々とつとつと妻の不倫のあらましを語り出した友人に、店主はただ黙って耳を傾けた。


「絶対に復讐してやる」

 ひとしきり話をし、その言葉を最後に友人はして眠り込んでしまった。すぐそばには先ほどの写真が伏せられている。こんな優秀な男をかき乱す女とはどんなものだろう、ふと、そう思った店主はその写真を手に取った。

 ――衝撃が走った。と、同時によこしまな好奇心を抱いたことを激しく後悔した。

 どこかのホテルに入ろうとする、自分よりいくつか年上の男性。そして――。

 その隣には見覚えのある女性がいた。

 店主は気持ちよさそうに眠っている友人を見た。いつかの彼は照れくさそうに言っていた。出会ってからあっと言う間の出来事だった、と。

 写真を見なければそのままでいられただろう。目の前で眠る友人もあの口ぶりからしておそらく何も知らない。だが知ってしまった以上はどうすることもできなかった。彼にとっての問題は、自分に別れを告げたとある女性が目の前の男と結ばれた「どこかの女性」であった人物であり、そして、それらがほとんど同時期の出来事であることだった。

 「私はいつだって我慢してきた」とでも言いたげな顔でいかり、むせび泣いていたかつての女性が、どこか寂しげに別れを告げるその時にはすでに別の男に唾をつけ終わっていた。そんな光景が脳裡のうりをよぎる。どちらから始めたことだったのか、誰が悪かったのか、そんなことはもう、どうでも良かった。


 なんとか友人を起こし、送り出した店主はバックバーに向かい、そこに立ち並ぶ瓶をいくつか手に取る。それはほとんど無意識の行動だった。もう、嫉妬も劣等感も恥じることなどなかった。むしろ、それらを醜いものとして捨て去ろうとした高貴さの方が醜く、一瞬でも抱いた同情などというものも今の彼にとっては、その感情を抱く者が自分に酔っていたいだけの自慰行為としか思えなかった。

 誰もかれもが見たいものだけを見て、全てを知った気になればいい、俺もそうさせてもらう。そう決心した彼はグラスに満たされた澄んだカクテルを――それ越しに見える緑色の世界を――飲み干した。幾層にも積み重なった魅惑的な甘味に彼の全身は震え上がった。


 静かな店内に、狂喜の笑い声が響く。


 それは、とある男たちの間で立ち回る魔性の女だと、自分だけが勘違いしている女に向けたものだったのかもしれない。あるいは現在進行形でその毒牙にかかっている写真の男に向けたものだったのかもしれない。はたまた、無知という免罪符に、自分だけが被害者だと思い込んでいる友人だった男に向けたものだったのかもしれない。今もこの世の中に同じ感情を抱いている者がごまんといることだろう。その店主の場合は彼らに対してであり、これから起こるであろうその三角関係の喜劇を彼はただ知らぬ顔で見ているだけで良い――内心では、踊り狂う彼らを「ざまぁみろ」とほくそ笑みながら。

 他人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだ、そう思いながら何杯目かのカクテルを飲んだ。似たような言葉がドイツ語にもあった。おあつらえ向きなその言葉で、彼はそのカクテルを呼ぶことにした。

 ――「Schadenfreudeシャーデンフロイデ」と。

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