傷に寄せて
目の前に、黒く丸い影のようなものが現れた。影は空中でみるみるうちに形を変えて、最後には人の形になった。その姿にはどこか見慣れた感じを抱いたが、目元だけ
「そんなに自分を痛めてどうする。自分を大切にしろ――」
「黒」は話の途中でその手を振り払って、別の方向に歩き出す。
「黒」が「白」に会い、それは「黒」に何かを言い、「黒」はそれに背を向け、「白」は消え、「黒」はまた別の声の「白」と会う。それを繰り返し、やがて「黒」は膝を抱えて座り込んだ。うつむく「黒」が何かを言った。こちらからは背中が見えるだけで声も聞こえないが、なぜかそれだけは分かった。すると、次々に「白」が現れ、たちまち、たくさんの「白」が「黒」を取り囲んだ。その一人一人に見覚えがある気がした。彼らは手に手を取り合い、口々に言った。
「残された奴らの身にもなってみろ」
「そういうことを言っているうちはまだ頑張れる」
「色々あるだろうが元気出せよ」
「そうだ。前向きにならなきゃダメだ」
「そうそう。私なんかさ――」
「黒」を中心にぐるぐると回りながら発せられるその声たちは、脳内で右往左往し、反射し、混ざり合い、最後にはけたたましい笑い声になっていた。耳を
「黒」がその縄の端で輪を作り、そこに首を通すと、天から無数の白い手が降りてきて、その縄を持ち上げ始めた。ゆっくりと浮上する「黒」の体。その足が地を離れた時、くるりとこちらを向いた「黒」が口を開いた――それは傍観する私の声だった。
疲れた……。
私は息苦しさと、右半身の硬い床の感触で目を覚ました。そこは横向きの世界だった。何度かまばたきをして、ふわふわとまどろむ意識を
閉じたカーテンとほの暗い部屋。酒の空き缶の数々。口を開けて倒れた薬瓶。そこからこぼれだし、散らばった錠剤。首を起こしてテーブルの上のデジタル時計を見た――三十時間以上も眠っていたようだ。口元に乾いた感触があり、シャツにも嘔吐の跡があった。横になった時、口があった付近には吐き出された溶けかけの錠剤がいくつか転がっていた。行きつく先が地獄だろうがどこだろうが構わなかったが、こんな地獄はお断りだった。全身にのしかかかる倦怠感で再び体を横たえ、そんな惨状をぼうっと眺めていた。
少し楽になった気がして身を起そうとした。途端に、激しい頭痛と胃の辺りからこみあがってくる感覚に襲われ、そのまま四つん這いになり、緑色の液体を吐いた。鼻の奥から脳天まで、酸味と不快な苦味を帯びた針で突き刺されるようだった。喉がいがらっぽく、すぐにでもうがいをしたかった。それでも体は吐き足らず、筋肉がこわばる。左手の指を喉に突っこんでも出てくるのはねばねばした唾液と鼻水と、涙ばかりで、胃がきりきりと痛んだ。痛みから逃れるように、左手の甲、正確には人差し指と中指の付け根を一心に見つめた。
――そこには何十、何百と
次に目を覚ましたのは喉の渇きによって、であった。全身に重みを感じた。それでも痛みはマシになったようで、おぼつかない足取りで台所に行き、冷蔵庫から水を取り出した。コップに注ぐのも
薬の影響だろうか、シャワーを浴びても疲労感と眠気はとれなかった。体を拭いて、今度はコップに水を注いで半分ほど飲んだ。それから、適当に服を着て煙草に火をつける。深く吸い、煙を吐き出すと、腫れあがった喉を煙に
薬を飲む時は「このまま消えてしまえ」と唱えていた。めまいに
現実のあいつが浮かんだ。いつかのそいつは神妙な面持ちで講釈を垂れた。夢の中でも――白くぼやける誰かになっても――雄弁をふるっていた。使い古され、
黙れよ。
まだ長い煙草をコップの中に落とした。ジュッという音と共に赤い火が消えた。どこかで聞いたことがある。浸した方が危ない、と。底に沈んだそれは、やがては透明な水を黄色く濁し、
――黒い自分が「死に損ない」と笑った。白いあいつが「自分を大切にしろ」と叫んだ。彼らが消えてからも、その笑い声と叫び声だけが残り、それらは混ざり合い、ガリガリ、という何かを爪で擦る音になった。
眠っていたようだ。掴んでいたコップは床に転がり、その中身はシャツにこぼしたようで、染みになっていた。死ぬこと一つまともにできない自分が情けなく、呆れてそのまま座っているしかなかった。
ガリガリ――。
また音がした。ため息が出た。もう来るな、と言ったのに。けれども音は鳴り止まない。しつこさに耐えかねて、音のするベランダの方へ行き窓を開けると、外はパラパラと雨が降っていた。
「もう来るなと言ったろ」
そう言っても伝わるはずもなく、こちらを見上げるばかりで
いつもそうだ。こちらの都合などお構いなし。一度、手の傷を手当てして食い物をやっただけで味を占めやがって……。
濡れたままソファに――そこがこの猫のお気に入りのようだった――乗ろうとしたので抱き寄せて止める。それでも振りほどこうとするので、
「分かった。分かったから。まずは乾かそう」
そう言うと、猫は腕の中でおとなしくなった。伝わっているじゃないか……。
濡れた毛を乾かしてから深めの皿に水を注ぎ、飲ませる。静かな部屋にピチャピチャという音だけが響いた。しばらくして満足したのだろうか、飲むのを止めて冷蔵庫に向かい、扉のすき間に顔を近づけ、すんすんと鼻を鳴らした。腹が減った、という合図だ。
「何もないぞ」
聞こえていないかのように鼻を鳴らし続ける。仕方なく扉を開けたが、大量の酒ばかりで、あるのは一枚の食パンのみ。消費期限は二日前で、薬を飲む前に最期の
「腹をこわして苦しみたいなら、食べるといい」
猫は用心深くにおいを嗅ぎ、ムシャムシャと食べ始めた。
静かな部屋で一人と一匹で一枚を分け合った。
「君も物好きだねぇ」
ソファに座り、膝の上の猫の背中を撫でた。いつもこうして語りかける。言葉など返って来ず独り言になるので、今日は勝手に返事を用意させてもらうこととしよう。
「こんな死に損ないのところに来なくたって、他はいくらでもあるだろうに……」
――かといって、生きているのかい?
「ふっ。『生き損ない』といったところかな」
笑ったのはいつぶりだろうか。
――君は、友達はいないのかい?
脳裏に真面目くさったあいつがよぎった。
「分からない」
――なるほど。こちらはそう思っていても、あちらがそうとは限らないものだ。同じく、あちらの
「君は、いるのかい?」
――分からない。
「一緒だな」
――どこが?君は死ぬために生きている。僕は生きるために生きている。
猫は、撫でる手とは反対の、私の左手の指を舐めた。パンの残りかすでも付いているのだろうか。必死に舐めるその姿が、少しでも多く「生」を取り入れようとしているかに見えた。
「すまない……。また濡らしてしまった」
――構わないさ。泣けばいい。誰も見ていない。
手当した猫の左手に触れてみた。痛がらないから傷は治ったみたいだ。
「……大変だな」
手を撫でる私の左手を猫が舐めた。傷だらけの手の甲にざらざらとした感触がした。
――あぁ。死ぬのも大変だ。
やがて、膝越しに深い呼吸が伝わってきた。
「疲れたな」
――あぁ。眠ろう。
「起きたら美味いものを食おう」
――あぁ……。きっと腹が減っているさ。
「おやすみ……」
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