転機

 あの日の私は、うっかり作り過ぎた夕食を前にため息をついていた。今の生活を始めてしばらく経ち、ようやく新しい職場にも慣れてきたが、そんなやらかしを拭い去るにはまだまだ時間が要る、そんな時期だった。当時は、不安とか緊張とか、そうした「引っかかり」があると頭がそちらにばかり働いて体が勝手に動いた結果そうなってしまうことがあった。その原因がまだ不慣れな仕事に関することもあったけれど、大抵は彼との「話し合い」に関することだった。

 別に「量」それ自体は問題なかった。もともと食べる方だし、当時は食べることでストレスの解消になっていた――今も、かもしれないが……。

 問題は、そうした時に「ほとんど無意識に」作り過ぎてしまうことだった。あの日の場合は「話し合い」の結果が改めて、変えることのできない現実として突きつけられることへの気がかりで頭がいっぱいだったのだ。

 どこか味気ない夕食をとっていると、スマホの通知音が鳴る。彼からだ。二人で時間をかけて話し合い、納得し合った結果なのだから内容は分かっていた。覚悟を奮い立たせるように小さく息を吐き、届いたメッセージを開いた。

「先ほど離婚届を出してきました。これからお互い別々の人生を歩むことになりますが――」

 あまりにも無味乾燥であっさりとした報告に多少は拍子抜けしたが、いたずらにセンチメンタルさを出さない文面に安心どころか感謝さえ覚えた。

 電源を切り、目の前にある夕食をぼんやりと見つめていると次第に笑えてきた。

 

 最初に彼にふるまった手料理は肉じゃがだったと思う。中学時代の友人たちと久しぶりに再会し、同窓会じみた飲み会をしたあとだった。たまたま、彼と女友達と帰り道が同じ方向で、その間も思い出話は尽きなかった。誰から切り出したのかは覚えていない。皆が皆、思い出話に花を咲かせ足りなかったのかもしれないし、もしかしたら、その日集まった中でその三人だけがその時は独り身だったことを知って親近感を持ったのかもしれない。とにかく、一番距離が近かった私の家で飲み直すことになった。途中のコンビニで、すっかり酔っぱらっていた三人は思い思いに商品をかごに入れ、「どう見ても三人で飲む量じゃないだろ」とパンパンに膨らんだレジ袋を抱えた彼がバカ笑いしていた。

 家で飲んでいると、何かのタイミングで彼が、私の作り置いていた料理が入った鍋を覗き見た。中にはがたっぷりと入っていて「食べたい」と言うから温め直すと美味しそうに食べてくれた――「十勝とかちの大地を感じる」なんてふざけていたけれど。それから、よく彼と会うようになって付き合って初めてのデートはピクニックだった。誰かのためのお弁当なんて作ったことなかったから、すごく緊張したけど、彼は「これ美味しい、これも、これも」と子供みたいに喜んで食べてくれた。

 ……いつからだったのだろう。そう言ってくれなくなったのは。

 明確なきっかけが何だったのかは今でも分からない。多分、そんなものはなかったのだと思う。ただ、一度は「永遠」を誓い合った二人が、互いに生じたいくつもの小さな亀裂に目を背け続けた結果だった。進行していく裂け目を自覚しつつもひたすらに傍観していた。いよいよまずい、と思い立った時にはそれは二人の世界を分かつには十分な大きさになっていて、それを修復不可能と半ばあきらめ気味に二人が納得するには十二分すぎる時間が経っていた。互いに「こちら側」から「あちら側」へと責任という石をひとしきり投げ合った後、私たちは気づいた。「永遠」などそんなものだった、と。

 そして、片割れの私は、というと、別居を決めるまでの年月ですっかり肥えた習慣という悪魔に取り憑かれ、「美味しい」と言ってくれた人など昔にいなくなったと頭では分かっていながらも、時々そうして多めの食事を用意し誰と分け合うでもなく、一人前の胃袋に落とし込んでいる。名実共に独り身となったその日であっても、だ。

 これが嘲笑えないでいられるか。

 

 どれほどの時間そうしていたのだろう。ふと、視界の隅にきらりと輝くものがあった。それは宝石のたぐいはないながらも、上品な多面カットを施された指輪だった。それまで控えめにきらめくだけだった指輪が意味を持たなくなって初めて、滲む視界の中で見たこともないぐらい強く輝いていた。

 涙をぬぐって、もう一度息を吐いた。今度は大きく。これで終わり、と自分に言い聞かせるように。――深く。――深く。

 そうして、指輪を抜こうとした時。

 ――左手の薬指に違和感が走った。

 とっさに指輪をつまむ指に力が強くなる。けれども、指輪はびくともしない。

「嘘でしょ」

 今度は、うんと力を込めて引き抜こうとしたが、やはり指輪は薬指に食い込むままで頑として動こうとしなかった。

 すっかり鈍い光を取り戻した指輪を見つめながら、私の脳は精一杯稼動していた――先ほどまでのように追憶に浸るためなどではなく、ここ最近の食生活を思い返す、そのためだけに。食べ過ぎた自分を内心毒づいた。抜けてくれない指輪を呪った。ついでに前の日の献立も恨んだ――今となっては、あの日もその前の日も何を食べたのか覚えていないが。

 目の前にはとっくに冷めてしまった夕食が広がっていた。

 ……残りは明日食べよう。



 私がドラマティックなヒロインだったら、きっとあの場面で指輪はすんなり抜けていただろう。けれども、私は平々凡々な一般人。ふとした瞬間に、あの時は良かった、と過去を美化してしまうのは今も昔も変わらない。それでも、あの日やあの日思い出したことを、良い経験になった、とも思えるようになったことはあの日までの自分に比べれば少しはマシになった証だろう。

 あの日は私にとっての転機だった。それは指輪を外すために身を軽くしようと決意した日だ。

 そして今日も私にとっての転機だ。それは新たな人生に羽ばたくために身を軽くしようと決意した日だ。

 私は、つい先ほど外れた指輪を投げた。

 ――それはゆっくりと放物線を描きながら、吸い込まれるようにゴミ箱に入っていった。

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