ユウコさん

 ユウコさんは、私が今の家に引っ越してきてから初めてできた友達だ。彼女の本名は知らない。「好きに呼んでいいよ」と彼女が言ったから私がそう呼んでいるだけだ。いろんな意味を込めたその名を、彼女は気に入ってくれた。彼女がどういう人生を歩んできたかも知らない。友達だからといって、その人の全部を知っておく必要はないと思う。

 そして、私は彼女の生まれた日も知らない。だから私は、私と彼女が初めて会った日を――三月三十日を――彼女の誕生日にした。


 今日はユウコさんと出会って三度目の三月三十日だ。

「よし、そろそろ時間だし上がっていいよ」

 夕方の忙しい時間帯を乗り越えお客さんがいなくなった静かな店内から、ぼんやりと曇り空を眺めていた私に店長が声をかけてきた。

「今日もありがとうね。お疲れさま。それと――。これ。頼まれてたヤツ」

 店長が手に提げていたケーキ箱を掲げて言った。中身はこの店の名物のショートケーキが二つ入っている。一つは私の分で、もう一つはユウコさんの分だ。

「ありがとうございます! 帰りにお金払いますね!」

 いいよ、いいよ、と店長はニコニコしながら断ってくれた。

「ユウコさんだっけ? 喜んでくれるといいね。メッセージもつけといたからね」

「えっ、ホントですか。すみません何から何まで……。ありがとうございます!」

「いいって。いいって。それより、雨降るだろうから気をつけてね」

「はい! ありがとうございます。じゃ、着替えてきますね。お疲れさまでした」

 帰りの支度をして店の外に出ると、曇りと予報されていた空からは、パラパラと雨が降り出していた。ケーキを貰っておいて傘まで借りるのはなんだか悪い気がして、仕方なく小走りで帰ることにした。


 ユウコさんは、ふらっと遊びに行くことがある。どこに行ってきたの、と聞くと、決まって海に、山に、と適当にあしらう。本当に海に行ったり、山に行ったりしているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。そして決まって、「それでね、帰り道でね」と話が続く。その話だって、本当のことか私には分からない。


 そんな彼女のことだから、バイト先から帰ってきて「ただいま」と玄関から声をかけても返事がなかったことに、私は特段驚かなかった。シャワーを浴びてすっきりした気分で鏡を見ながら乾いた髪を梳かしていると、不意に耳元で声が聞こえた。

「おかえり」

「わっ――」

 驚いて声の方を向くとユウコさんがいた。

「いつも言ってるでしょ! 急に耳元で喋りかけてこないでよ。びっくりするじゃん」

 私の反応がよほど気に入ったのか、ユウコさんはくすくすと笑っている。

「ユウコさんこそおかえり。今日はどこ行ってたの」

 いつも通りの挨拶みたいな会話だ。帰ってくる言葉は分かっている。そして、私が分かっていることもユウコさんは分かっているのだろう。いたずらっぽく笑いながら答えた。

「海に行って、山に行ってきたよ」

「ずいぶんハードスケジュールだねぇ」と調子を合わせる。

「だって、四六時中一人でここにいたって退屈なだけだよ。ここに住んでたからって、ずっとここにいないといけないわけじゃないでしょ」

「そりゃそうだけどさ」

「それでね、帰り道でね、元カレに似てる人を見かけたの」

「元カレさんに?」

 そう尋ねると、ユウコさんはしかめつらで首を振って

「いやいや。似てるってだけ。それにあんな奴に『さん』づけはしないでいいよ。――それでね、なんか昔のこと色々思い出してだんだんイライラしてきたから、八つ当たりでそいつの耳に吹きかけてやったの。ふっ、ってね。あの驚きようといったらもう――」

「いたずらもほどほどに」

 軽くたしなめる私をよそ目にいたずら好きな彼女はお腹を抱えて笑っていた。


 けれども私は彼女が本当は優しい人だと知っている。


 店長から貰ったケーキのことを話すとユウコさんは「私なんかのために――」と少し困った様子だった。椅子を引いて、いいから、いいからと半ば強引に彼女を座らせケーキを振舞おうと箱を開けると――。

「崩れてるね」

 ユウコさんは箱を覗いて言った。ユウコさんの分の、メッセージつきのケーキはなんとか無事だったが、私の分は派手に崩れていた。

「ははっ。帰り道、雨で走ったから崩れたみたい。……でも、ユウコさんの分は無事みたいだからさ。……味は変わらない。食べよう」

 自分に言い聞かせるようにそう言った私に対してユウコさんは微笑んだ。

「私、崩れた方がいいな。上に乗っかかってるチョコプレートだけ移してよ」

「いや、でも――」

「いいから。いいから。私の誕生日でしょ? 私が主役なんだから言うこと聞きなさい」

「……分かった。……ごめんね」

 ユウコさんは聞こえなかったかのように、にこにこしながら、はやく、はやくと両手を叩いた。私は急かされるままにユウコさんのお皿に崩れたケーキを乗せて、その上にメッセージプレートを乗せてあげた。

「ユウコさん、お誕生日おめでとう」

 ユウコさんの前にお皿を置くと、彼女は少し恥ずかしそうに笑いながら「うん」とだけ頷いた。それから、「いただきます」と両手を合わせ、ジェスチャーゲームのように想像上のフォークで想像上のケーキを口に運び、もぐもぐと口を動かした。

「やっぱり私には崩れてる方がいいよ。食べかけって感じ、出るでしょ」

 私に気を遣ってくれたのだろう。けれど、そう言いながら微笑む彼女はどこか寂しそうでもあった。


 ユウコさんは幽霊だ。私の前の入居者で、自ら命を絶った姿でこの部屋で発見されたらしい。


「美味しい?」

 申し訳ない思いで綺麗な方のケーキを食べていると、ユウコさんから話を切り出してくれた。

「もちろん! 店長の自信作だよ」

 なるべく元気を装って答えると、「ふうん」とだけ言って、彼女は崩れたケーキに視線を落として、黙ってしまった。


「ユウコさん、二歳になったね」

 しばらく流れた沈黙に耐えきれず、今度は私から話を切り出すと、「そうだね」という生返事が帰って来るだけで彼女は壁に掛かったカレンダーをぼんやりと見つめていた。もう一度謝ろう、そう思い、視線をユウコさんの方に向けると彼女も私の方に向き直っていた――何かを思いついたかのように大きく目を開いて。その顔にはいつものいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。

「年齢と言っても、『レイ』はゴーストの方だけどね」

 そう言って、自慢げに人差し指で空書きをしてみせた。おそらく「年霊」と書いているのだろう。うまい、うまいと褒めると、その人差し指でカレンダーを指して、さらにユウコさんは言った。

「今年の三月三十日は仏滅だね」

 ユウコさんが放つ唐突なブラックジョークにはいつも驚かされる。唖然とする私を見て、彼女はまた一段と大きく笑う。そんな彼女の笑い声につられて私も笑ってしまう。こんな構図に何度救われたことだろう。


 彼女がいつどこで生まれ、どんな名前で生前を過ごし、何を理由に、どんな思いで自ら死を選んだのか、私は知らない。知る必要のないことだと思っているし、それらは彼女が話してくれた時に初めて知るべきことだ。でも、今、私を見て嬉しそうに笑っている「ユウコさん」のことなら――ほんの一面だと思うけれど――私は知っている。

「ユウコさん、いつもありがとう」

「えっ、何が? あぁ……。家賃のこと? ここ、事故物件だから安いもんね」

 わざとおどけてみせたのだろう。恥ずかしそうにぎこちなく笑いながら、もう一度、目の前の崩れたケーキを食べるふりをして彼女は言った。

「美味しいね。これは、店長の自信作だ」

「うん、そうだね」


 ユウコさんは「優」しくて、「遊」び心満載の「幽」霊で、私の「友」達。

それだけで十分じゅうぶんだ。

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