最終手段のコバナシたち

尾針 四郎

牢獄通の独白

 私は気怠さと息苦しさを覚えながら、扉の上の時計を見た。


 あと六分か。九分も耐えたんだ……。もう良いんじゃないか……。誰が咎める?誰も何も言いやしないさ。今度にすればいいじゃないか。……。いや……。あと六分だ。九分も耐えられたんだ。あと六分ぐらい大丈夫に決まっているさ。時計を見るな。別のことを考えるんだ……。


 ……今、この部屋に入ってきた者はさぞ驚くことだろう。全身を汗でてらてらさせながら、(おそらく)顔にしわを寄せ、何やら考え込んでいる様子で微動だにしない男を、扉を開いて真っ先に目にすることになるだろうから。いっそのことあの有名な彫像のようにほお杖でもついてみようか――事実、今の私は考える囚人なのだから。


 いいぞ。この調子だ……。考え続けろ。


 私は時々、この牢獄に入ることにしている。扉は目の前にあるものだけで、いつもと変わらず錠はないが、私はあえてそこに錠をつけ鍵をかけることにしている。いや、錠を「見る」ことにしていると言った方が正しいだろう――十五分という時間でおのずと開く錠だ。それもあと六分の辛抱なのだが、この部屋にあるのは呼吸の度に喉にからみつくような熱気と、退屈な静けさのみで、この三百六十秒を紛らわせてくれる代物などない。いつもなら、私のような「牢獄通」と雑談でもしてこの苦しみを紛らわせるのだが、あいにく今日の今この瞬間には誰もここにはいない。だから、こうして暑さに耐えながら、ただひたすらに座って独白で時を過ごすしかない。

 先ほど扉に錠をつけたと言ったが当然、実物としてはない。出入り自由の扉にあえて設けたそれは、いわば、自戒なのだ。それを解く秘密の鍵はいつでも私の中にある。まだその時でもないのに、「もう出よう」と囁く「私」の中に、だ。しかし、今の私は刑期十五分を抱えた囚人なのだ。刑期満了前に脱獄を促す同居人に屈したくないし、第一、そんなことは「まだここにいるべきだ」と言わんばかりに目を光らせている看守の「私」が許さない。もっと言うなら、耐え忍ぶこと、それこそが私の目的に対して求められることなのだ。

 では、私の目的とは何か。それは「自由」の実感である。今の私のように独りだとなおさらだが、ここに入る度に、自由とは縛られてこその「自由」なのだと痛感する。それは、会社から帰宅してネクタイを緩めた時だったり、課題を終えた時だったり、窮屈な人間関係の地元を去った時だったり、そりが合わない義両親に別れの挨拶をした時だったりと様々ではあるが、そこには共通して、抑圧から解放され本来持つべき「自由」を取り戻した安堵感があるのではないだろうか。実感としての「自由」とはまさにこうした瞬間にあり、ここではその実感を十五分――私の場合ではあるが――で味わえるのだ。束縛からの解放感を、「自由」のありがたみを手っ取り早く味わいたいのなら、私のように「牢獄通」になってみるのも一興かもしれない。


 さて、そんな獄中生活も残すところあと一分。時計を見る度に、何度も何度も心を揺さぶっていた同居人も、いまやすっかり鳴りを潜めたようだ。やはり思考だ。思考こそが孤独と暇を埋めてくれるのだ。

 時計の盤上で秒針が一度ずつ時を刻む毎に、その「あと一分」が待ち遠しい。

 分針が六度、また六度と時を刻み、十五回目の一分間を耐え忍び終えようとする今の私にとって、扉の向こうの「そこ」はもはや通い慣れたそこではなく、百八十度景色を変えた特別な「楽園」なのだ。

 カチッ……。

 かすかに針が動く音が聞こえた。

 ――あるいは、あの音は錠が解かれた音だったのかもしれない。

 座りっぱなしで凝り固まった筋肉をいたわりつつ、ゆっくりと扉へと歩を進める。


 牢獄の熱気と、それから思考による疲れもあったのだろう。どこかぼんやりとしていた私の意識を現実に引き戻したのは反響する子供たちの声だった。楽しそうにはしゃぐ彼らの湯船に、ライオンがドボドボと新たに湯を満たす。それが扉を開いて初めて目にした光景だった。


 コーン……。

 どこかの誰かが、洗面器をタイル床に置いたようだ。

 火照りもすっかり消え去り、今では、浴場に響き渡るその音を私は「楽園」から――水風呂から――楽しんでいた。清涼感と、達成感と解放感にどっぷり浸かりながら。そして――。


 ――あぁ、これこそが「自由」だ。


 顔馴染みの中年男性が、私が先ほどまでいたサウナ室へ向かうようだ。私以上の「牢獄通」の彼のことだ。刑期は二十分ぐらいかな……。

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