第31話 フェンリルです(後編)

 声に視線を向けると、赤いスカートの子が道の真ん中で泣いていた。


「おかあさん、おかあさん」


 頬に流す涙を手でこすりながら、女の子はお母さんを見つけられなくて泣いているようだ。


「ちょっとまって、エミリー」


 博美が行こうとすると、先に行商用つづらを背負った商人の男性が向かった。そして女の子に何やら声を掛けている。しかし、女の子は泣きながらイヤイヤと首を振っている。


 博美は、二人に駆け寄った。


「どうされたのですか?」


 博美の言葉に、商人の男性がジロリと博美に視線を向ける。

 男性の頬には大きな傷があった。


「博美様、ここは私が」


 エミリーの警戒する口調に、男性が慌てて手を振った。


「いや、ちょっとまって、俺は怪しい者じゃないから。いや、ほんとだって。この強面の顔じゃ、信用できないかもしれないけどさ、これ見てよ。俺の名はショーン。商人ギルドにも入っているから」


 ショーンと名乗った男性は、身分証のような物をエミリーに見せてきた。

 男性の話し方や声を聞くと、見た目よりも若く優しい感じを受けた。


「身元は確かなようですね」


 エミリーが言うと、ショーンはホッとしたような顔になった。


「でしょ。いつもこの顔で警戒されるけど、俺、人さらいじゃないからね。この子に逃げるように言ったけど、全然言うこと聞いてくれなくてさ」


 ショーンから事情を聞いた博美は女の子の前でしゃがみこむと、女の子に優しく話しかけた。


「こんにちは。わたしの名前は博美って言うの。あなたのお名前は?」


「……レベッカ」


「レベッカちゃんね。可愛い名前だね。お母さんとはぐれたのかな」


 涙を浮かべたレベッカが、コクリと首を縦に振る。


「そうなんだ。怖かったね。もしかするとお母さんが向こうにいるかもしれないから、お姉ちゃんたちと一緒に探しに行かない?」


 博美が街の出口を指さすと、レベッカが笑顔を見せる。


「うん、いいよ」


「じゃあ、行ってみようか。お姉ちゃん恐いから、レベッカちゃんが手をつないでくれたら安心できるんだけど」


 言いながら、博美が手を出した。


「わかった!」


 レベッカが元気よく博美の手をぎゅっと握ったときだ。


「ぐぉおおおおお」

 と巨大な咆哮がした。


 いつの間にか、博美たちの前に真っ黒な大きな獣がいた。


「うわぁ」


 ショーンが腰を抜かした。


 足音もせず、地響きもせず、見上げるほどの大きな黒い獣が目の前にいる。

 まるで風と共にやってきたようだった。


「グルルルルル」


 こちらを見下ろす大きな獣。その迫力は恐怖そのものだった。血走った赤い目に、ダラダラとよだれを垂らした大きな口。下を見れば石畳を踏みつける太い前足は、分厚い鋼のような鋭い爪で地面を掻くように動かしている。


 レベッカは黒い獣から背を向け、博美に抱きついた。


「おねえちゃん、こわいよ」


「大丈夫。大丈夫だよ、レベッカちゃん」


 そう言いながら博美はレベッカをぎゅっと抱きしめるが、博美の手も震えていた。


 恐い。

 でもレベッカちゃんを守らないと……。


 どうしよう……。


「博美様、お逃げください」


 エミリーが庇うように前へ出た。


「結界!」


 そう叫ぶと、エミリーが地面に手をついた。


 透明のベールのようものが、黒い獣を囲むように広がっていく。


「今すぐ、その子を連れて逃げてください。この魔物はフェンリルです。私は街の衛兵たちが来るまでこうしていますので」


 こちらに背を向けたまま、エミリーが言う。


「でも……、エミリーが」


 血走った目で魔物は鋭い爪で、結界を壊そうとガリガリとひっかいている。


「グルルルルッルル!」


「私の結界がいつ破られるか……。はやく、博美様!」


 博美の肩にショーンが手を置いた。


「俺たちが居ても役に立たない。ここはその人が言うように逃げよう。この子のお母さんもすでに避難しているかもしれない」


 博美は、胸に抱きしめているレベッカに視線を降ろした。


 そうだ、今はこの子を無事にお母さんの元へ届けないと。


「わかった、エミリー。あなたもタイミングを見て逃げて」


「はい」


 ショーンが「このおねえちゃんも来るから、一緒に逃げよう」と、博美からレベッカを抱き抱えた。


 そうして、街の外まで必死で走る。

 兵士たちが皆を誘導しているのが見えた。


 その大勢の人がいるなか、赤いスカートの女性が、

「レベッカ! レベッカ! どこにいるの?」

 と大きな声を出していた。


「おかあさん」


 ショーンがレベッカを降ろすと、走っていき、その女性と抱き合った。


「よかった、よかった、レベッカ」


「ありがとうございます、助かりました」


 レベッカの母がショーンに頭を下げた。


 ショーンはポリポリと自分の頬を掻く。


「いや、彼女のおかげなんだ。こういうツラだから、僕は小さな子から怖がられるんだよね。彼女が一緒に来てくれて良かったよ」


 ショーンから聞いたレベッカの母親は博美にも頭を下げた。


「ありがとうございました」


「いえ、レベッカちゃんがお母さんと無事に会えて良かったです」


 その言葉に、安心したように母親の目には涙が浮かんだ。


 うん、よかった。


 ショーンが博美に言葉をかけてきた。


「俺たちも、皆と一緒に街から離れた方がいいだろう」


「いえ。皆さんは、先に避難してください」


「君は?」


「わたしは友人がいるので戻ります」


「おい! ちょっと君!」


 ショーンの呼び止める声を背に、博美は来た道を走って戻った。

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