03.31|自己という敵

 

「人間はくそだ」という心理を抱くことがよくあるのだが、その感情が自分の中から沸いて出てくるとき、わたしはいったいどういう人間を想定して「くそだ」となっているのだろう、とふと思った。これはだから、つまり、人間はくそだと心の中でずうっと連呼をしておきながら、結局のところ人間をまったくみていないことになるのではないかと。


こういう、心理内に生成される仮想敵みたいなものを、わたしは有しているとして、果たして良いことなのだろうかと悩む。その心理を心の中に有している結果として、いつかどこかでそれを明確に関連付けて暴走してしまうのではないかなどという不安が、現状ある。わたしはだから、正直言って、真っ当な人間ではまったくないし、やはりどうしてもどちらかというと、生きるのが下手な部類になってしまう。感情表現も下手くそで、だからこのようにして心内にばかり、ひとつの、敵を作る気がしている。


これは結局のところ、思うのは、くそだ、と思う事柄の中に自分自身の有している嫌な部分があるからな気がしている。自己嫌悪の感覚がわたしは昔からずうっとあるが、その事柄がわたしが年齢を重ねていった結果として目撃した諸々に、自分をみているのだと思う。だからこれらは、池の中に映る自分、鏡写しの自分をずうっと眺めているようなもので、わたしはなんというか常に、自分ばかりなのだと思う。


虚しさばかりが広がる夜というものは、どこまでいってもこうである。わたしはいま夜中の三時一〇分に漠然と日記を書いているわけだが、こんな時間に、それも、微妙な空腹感と眠気のある中で、かつ、無数の、SNSの文言を浴びたザッピング中毒状態の脳みそで物事を考えようとするから精神的にローの方向へばかり向かってしまうという、ただただ「そりゃあそうなりますよ」をやっているだけなのだと思う。SNSで文言を浴びるという行為は、それだけ自分に対してなにか、感情発露のきっかけを与え続ける、ということであるので、精神衛生上あまりよくない世界なのは間違いない気がしている。


本を読むときに触れる言葉と、そういう場で触れる言葉の質感は明らかになにか違うものがあるかもしれないし、違うものである、とわたしが思い込んでいるだけな気もする(本の言葉のほうが権威があるとか、心が、魂があるなどということを云いたいわけではまったくない。それこそまやかしだと思う)。いまのわたしに必要なものは、おそらく、信じるという事柄な気がする。なにかひとつ指針としての、信じるものを有することが心を救うのかもしれないが、果たして救われるとはなんなのだろう、という、結局のところに落ち着く。救いとはおそらく、わからないが、そもそもとして人は苦しむものなのだという前提を、諦めて受け入れる事である気がする。寝たほうが良いのだと思う。テキトーばかりでもうしわけない。

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る