第16話

▫︎◇▫︎


 オリオン・ライオネルの世界は、1人の少女によって全てが形成されていた。


 冷たく、子供に一切興味のない父と幼き頃に王妃によって毒殺された母の顔は、6歳になるオリオンにとってはもはや忘れてしまったも同然だった。

 だからだろうか、オリオンにとってその少女ネージュ・アクアマリンは全てであった。1〜10までオリオンの持ち得るものはネージュの為のものであり、ネージュのためならば命さえも惜しくはなかった。


 けれど、そんなオリオンにとって全てだった世界はあっという間に崩れ去って行った。

 自分の軽率な行動によって、彼女の世界は無くなってしまった。


 父王とネージュの父公爵によってネージュとオリオンは離れ離れになった。どうにか侍女の中にオリオンの息がかかった者がネージュと共に過ごせるようにしたが、その女エリアンヌからオリオンにもたらされる情報は、あまりにも悲惨なものだった。


 何度も自殺を図るネージュ。

 日に日に弱っていくネージュ。


 どれをとっても、苦しくて、泣き叫びたくて仕方がなかった。

 でも、オリオンには圧倒的に力が足りなかった。凍りついた心を持つネージュの太陽になりたくても、オリオンにはなれなかった。


『ーーー愛するものを守りたくば、力を得ろ。誰にも邪魔されない、誰にも文句を言われない圧倒的な力を得ろ。それがお前の武器になる』


 7歳の時、自暴自棄になりかけていたオリオンの元に唐突に、気まぐれに顔を出した父王は、この言葉をオリオンに吐き捨てて帰っていった。

 その大きな胸糞ムカついて、イラついて、でも、あの男に自分の命は守られているという事実に気がついて、だからこそ、文字通り血反吐を吐くような努力を重ねた。

 身体中に刃物で切り裂かれた傷跡が残っても、ネージュを助けるためだと思えば、何も苦にならなかった。


 やっとのことで、ネージュに向けて自分が行動を起こしても問題にならないであろう力を身につけた時には、6年もの月日が流れていた。

 12歳の彼女の誕生日に1冊の本を贈った。

 オリオンとネージュの色彩の本にはたくさんの宝物が詰まっている。雪のように淡くて儚い言葉も、本に記せば永遠となる。

 オリオンとネージュの本には、たくさんの宝物が詰まっている。


 狂おしいほどに愛している彼女と再会ができた時には、10年もの月日が経っていた。一緒に過ごした時よりも長い月日の間に、彼女は美しい大人の女性へと変化していた。


 周囲から彼女へと向けられる視線に嫉妬した。

 彼女へと向けられる声に嫉妬した。

 彼女と同じ空気を吸っている人間全てに嫉妬した。


 嫉妬で狂いそうになる自分を泣けなしのりせいでおさえこんで、オリオンは彼女との逢瀬を楽しんだ。


 そして、彼女を自分の檻の中へと招き入れた。


 元々彼女の父公爵がネージュを殺そうと企み、何度もオリオンの作戦によって失敗していたことは知っていた。だからこそ、ネージュが不安になってオリオンを頼るように仕向けた。

 大事な本を使って企むのはどうかと思ったが、泣けなしの理性が敗北をして、結局は彼女のことを自分の手の届く範囲に閉じ込めた。

 結婚するまでは使用してはいけない続き部屋を、自分の持ち得る最大限の権力を使って無理矢理に使用し、彼女を徹底的に守り、慈しみ、閉じ込める。


 狂っている。


 自分でも理解している。

 けれど、オリオンにはもう自分のことを止められなかった。

 彼女にはもっと冷たいものを渡したかった。でも、結局与えられたのは熱くて火傷しそうなものだけだった。


 綺麗事ではないけれど、綺麗で揺るぎないものを。

 上辺よりも、胸の奥の奥をゆっくりと温めるものを。


 理想だけはあるけど、心のどこ探してもまるで見つからなくて、オリオンは結局自分なりの最低限しか彼女に与えられない。

 伝えたいのに伝わらない。

 その不条理が、本当は臆病なオリオンの一挙手一投足をキツく縛りつけ、オリオンの行動を鈍くする。


 だから、彼女をどこまでいっても守りきれない。

 分かっている。でも、変えられない。

 苦しくてもどかしいこの気持ちが“恋”ならば、“愛”ならば、この世界はどんなに残酷なのだろうか。

 美しいネージュをこれでもかと堪能し、けれど彼女を結局のところ守れなかった夜会が終わって、風呂に入り、ゆったりとしたズボンのみを身につけて湿った髪をかき上げたオリオンは、彼女の部屋と自分の部屋をつなぐ扉に背中を預ける。

 優しく本の表紙を撫でてから本を開くと、彼女の苦悩に満ちた文章が浮き上がってきた。


 初めてだった。


 強くあろうとする彼女が初めて弱音を吐いた。苦しいと叫んだ。望みを告げた。心の底から嬉しかった。彼女が自分を求めていると分かったから、自分だけではないと理解できたから。

 凍りついた彼女の心にとって、オリオンは太陽でいられたようだ。

 そうなりたいと願って、傲慢な思い込みを拗らせていたと悔やんだ時期もあった。笑ってなかったことにしようと思っていた。

 でも、夢は叶った。

 ネージュはオリオンのことを大事にしてくれている。


 だからこそ、とびきりの言葉を返したかった。

 でも、言葉はまるで淡く儚い雪の結晶のようで、ネージュにプレゼントしたくても夢中になって探せば探すほどに、形は崩れ落ちて溶けて消えてしまう。

 何を返せばいいのか分からなくて、頭がぐちゃぐちゃになっていって、でも最終的には一言だけが頭の中に何度も何度も浮かび上がる。

 正解ではないけれど、正解に最も近くて、でも足りない言葉。


『愛してる』


 オリオン選ぶ言葉が、そこに託された想いが、ネージュの胸を少しでも震わすことができているだろうか。

 分からない。

 でも、諦められない。

 愛しているよりも愛を届けたい。


 熱い感情がオリオン胸を震わせる。

 オリオンは激流のように溢れ出す感情を止めることができずに扉を開いた。


 ふわっと愛しの彼女の身体が自分の方に倒れ込んできて咄嗟に抱き止める。

 すべすべでもちもちで柔らかい彼女とはいつの間にこんなに差ができてしまったのだろうか。

 男と女の違いの大きさを、彼女抱きしめるたびに実感する。


「ネージュ、愛してる」


 愛おしい彼女に、オリオンの声は聞こえない。

 でも、それでも、ネージュの全てを愛している。

 言葉では表せないほどに、愛しているというたった一言の言葉では言い表せない程に、オリオンは彼女を愛している。


「私も、オリーを愛してる」


 昔よりも落ち着いたゆっくりとした口調になった彼女は、自分の声すらも知らない。こんなに凛とした、澄んだ雪の響きのような声を知らないなんてもったいないと思いながらも、独り占めできる今が嬉しい自分に反吐がでる。

 でも、そのくらいに愛しているのだ。


(愛してるよりも僕の愛が君に届くまで、もう少しだけ待って)


 ゆっくりと微笑みながら、オリオンはネージュのくちびるに自分のそれを重ねた。

 オリオンの騎士や傭兵並みの傷だらけの身体は、彼女には似合わない。それでも、オリオンはやっぱり彼女の隣にいたい。

 彼女への愛を紡ぎ続けたい。




 ーーー音を失った難聴令嬢ネージュのために、虐げられてきた第2王子オリオンは恋文をしたためる。愛しの彼女に、愛していよりも愛を届けるために。

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