第9話

▫︎◇▫︎


 どれほどの時間が経っただろうか。

 ネージュがぼうっとしている間に馬車は王城の中に入っていた。


 美しい城。

 ネージュの音を奪った場所がある場所。

 ネージュを危険から守ってくれる場所。


 どれもが当てはまって、でも、どれもが他人行儀で何となく違う感じがする。

 この世に完璧な“正解”は存在していないとわかっていても、何となく求めてしまう“正解”は、どこに存在しているのだろうか。


 少なくとも、ネージュは知らない。


 わずかな揺れと共に、馬車が停車した。

 ひらりと白いマントを翻して、オリオンがネージュよりも先に馬車を降りて、ネージュに手を差し出す。裏側には深い青色と淡い青色が使われているマントは、白い衣装に身を包んだ彼にピッタリだった。


《お手をどうぞ、姫》


 恭しい態度に表情をした彼は、くちびるを動かして私の動きを促す。


 聞こえないのがもどかしい。

 苦しい。


 けれど、そんな我が儘は言えなくて、ネージュはにこっと笑って彼の手に自分の手を重ねる。

 王城の中に入ってからは、もっと苦しい視線を向けられ続けた。男性からは気持ちの悪い視線、女性からは嫉妬に狂ったような狂気の視線。どれも恐ろしくて、苦しくて、泣き出したかった。でも、そんなことなんて許されないから、ネージュは心を殺して微笑みを浮かべ続けた。

 どろっとへばりつくまで身体に叩き込んでいる微笑みの仮面は、ネージュの想像以上に優秀だ。オリオンが隣でエスコートをしてくれるという現状を除けば、それだけが今この場での圧倒的な救いかもしれない。


(『身につけた技能は永遠の財産になる。』………確かに、これは圧倒的な財産であり、私の武器ね。誰にもない、私だけの武器)


 大好きな本の一節を暗唱してから、ネージュはこの言葉の深みを噛み締めていた。そうやって気を紛らわせているうちに、ネージュは大きな扉のあるお部屋の前にやって来た。オリオンが扉を開くように指示を出すと、大きな扉は衛兵によって軽々しく開かれる。


[父上と母上にはちゃんと許可を取っているから、安心して過ごしてね]


 大きな扉はいとも簡単に開け放たれ、内装が顕になった。

 赤いカーテンにラグ、優しい桜色の壁紙に焦げ茶の木目を基調とした家具。どれもネージュ好みの可愛らしくて上品なデザインで、少しわくわくしてしまう。


[これが私のお部屋!?]

[そうだよ。ドレスも装飾品も、文房具も本も用意している。君の好きに使ってくれ。続き部屋の奥は僕のお部屋だから、困ったことがあったら訪ねておいで。ネージュならいつでも大歓迎だ]


 にっこりと笑って手話で話してくれるオリオンに、ネージュはぎゅっと人目も憚らず抱きついた。


《大好き》


 くちびるだけを動かして、誰にも伝わらないようにネージュは彼に伝える。


 彼はネージュのもので、ネージュは彼のもの。

 しかし、ネージュは難聴というとても重い傷物で、彼はこの国の第2王子だ。王太子のストックといえども、この国で2番目の結婚適齢期の玉の輿だろう。

 ネージュはどう足掻こうとも、どう努力しようとも、本当の意味で彼の隣に立つことはできない。

 それが辛くて歯痒くて、泣きたくなる。

 ぐしゃっと泣きそうに歪んだ顔が、抱きついたことによって彼に見えなくなっていることに安堵しながら、ネージュはネージュが彼に抱きついている現状を見ないふりしてくれている衛兵に心の中で感謝した。


(本当に、愛しているの。………狂おしいほどに、)


 ネージュはずっと気が済むまで、オリオンのことを抱きしめていた。

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