第3話
3ページ目に彼からのお礼の文章とルビーが嵌め込まれたブレスレットが送られてきて、ネージュは4ページ目にお返事を書いた。
他愛もないにはたくさんの甘い言葉が綴られていて、ネージュは本をもらってから日々が一転した。色を失っていた世界に、鮮やかな光が差し込んだ。
毎日のように何ページも何ページもお互いに近況を綴りあって、幸せを分かち合う。
今日は青い鳥が空を飛んでいた。
今日は真っ赤なオリオンの瞳の色のような薔薇が咲いた。
今日は四つ葉を見つけた。
今日は花が咲いた。
今日は水浴びをした。
今日はオリオンの瞳のような赤い紅葉を見た。
今日は雪だるまを作った。
たくさんの日々を綴って、そしてオリオンに報告する。
学びに向かう姿勢が尚の事向上したネージュは、話し方も学んでいた。定型分くらいは話せるようになっておきたかった。
小さな言葉でもいい。
音を失ってしまったネージュは声を失いたくなかった。
侍女や教師から発声レッスンを受けるが、手話や筆談を用いたレッスンでは、やっぱり向上が難しい。自分が何を言っているのかすらも分からない。くちびるの動きを読めても、自分はその音を出せない。
もどかしくて、もどかしくて、とっても辛い。
でも、オリオンの本があったから乗り越えられた。
彼は、秒単位に刻まれたぎじぎじと音を立てるくらいに密集したスケジュールを送っていた。本当はネージュへの手紙を書く時間すらもないはずなのに、彼は毎日欠かさず必ず1回は送ってくれる。
何度か体調を崩してしまった時期もあったけれど、その時も必ず送ってくれた。そういう時は必ず字が乱れていて、ネージュはすぐに感じ取ることができた。
彼は必死になって学んでいた。
だからこそ、ネージュも負けていられなかった。
《ご機嫌よう》
「ご機嫌よう」
目の前の侍女のくちびるの動きを真似て声を出す。
[少し声が大きいかと]
[分かったわ]
手話で教えてくれた侍女に手話を返して、今度は喉の力を抜いて小さめに声を出す。
「ご機嫌よぅ」
[今度は“う”の発音が小さかったです]
[やっぱり難しいわね]
[でも、お嬢さまは日に日にお上手になられています]
この離宮の侍女は全員、手話を扱える。
音を喪ったネージュと共に、寝る間も惜しんで徹底的に学んだからだ。
「ご機嫌よう」
[完璧でしたわ。幼き日の頃のように、お嬢さまの愛らしいお声をまた聞けるようになるだなんて、わたくし夢のようですわ]
「ありがとう、エリアンヌ」
《いえいえ》
くちびるの動きを読むのにも最初はとても苦労した。眠る間も惜しんで必死になって周囲の人の口の動きと発音をリンクさせて、どれでも上手くいかなくて、最終的にくちびるとその他の部位のリズムから感で言葉を予想するという技術を手に入れるまでにものすごい時間を要した。
でも、手に入れてしまえばそこからはネージュの世界だった。
工夫に工夫を重ねて、狭い世界の日常生活くらいならば問題なく過ごせるようになってきた。
[ダンスや音楽も学びたいわ。でも、やっぱり音がないと難しいかしら]
[先生曰く、お嬢さまは元々幼き頃に習っていた基礎がございますので、難易度はぐっと上がりますが、できないことはないということだそうです]
[まあ、本当?では、挑戦してみるわ]
勉学や刺繍、主教や文化だけでは全く足りない。
ダンスも知識があったとしても実際のステップが踏めなかったら全く意味がないのだ。
ネージュは知識を技術として身につけようとしていた。侍女伝にダンス用の靴やバイオリン、ピアノ、フルートを手に入れて、徹底的に学び始めた。ダンスの相手を務めるのはもちろん侍女なのだが、侍女の少女はネージュと共に必死になって学んでくれた。
知識だけの頭でっかちなネージュは、音が聞こえない所為で初歩の初歩で躓くこととなった。初めにステップを踏み始めるべき時が分からなかったのだ。
そして、楽器の奏者の動きが変わってからすぐに踊り始めるという技術を手に入れてからも、何拍子の曲が流れているのか分からず、踊るのに苦労した。音がないと、どうしてもステップが速くなりやすく、テンポが上がってしまうのだ。
教師にはネージュのパートナーの力量次第だと言われて、それがまた悔しかった。
でも、決してそのことはオリオンの手紙には書かなかった。彼にこれ以上の学習を進めたくなかった。ネージュの為だけに、苦労を重ねてほしくなかった。
だから、ネージュは彼の手紙で己を鼓舞して彼の足を引っ張らないように必死に学ぶ。
音が聞こえないというディスアドバンテージを、他のことを完璧にすることでアドバンテージにできるように、努力を重ねる。努力を重ねれば重ねるほどに身体はボロボロになっていく。靴擦れはできるし、足や手に豆はできるし、無駄な箇所に筋肉もついてしまう。
でも、ネージュは必死になって彼に合わせて何度も何度も練り直した無茶なスケジュールを毎日毎日こなしていく。
彼からの手紙や贈り物だけを心の支えに、必死になって生きもがく。
(私の命は、彼の手の中にある)
自分の全てを捧げているかのごとく心酔してしまっている自覚のある15歳の終わりへと向かい始めたネージュは、彼からもらった1番の宝物の本を抱きしめて、ふわっと微笑んだ。
彼に本をもらってから、ネージュは決して屋根の上には上がらなくなっていた。
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