第2話

▫︎◇▫︎


 オリオンと遊んだ後、ネージュは高熱に長い長い間うなされた。


 ーーーそして、ネージュの世界から音が消えた。


 さらさらとペンを走らせて、何も聞こえない世界でネージュは学ぶ。ただただ彼の隣にいるためだけに、ネージュは新たな知識を蓄える。

 勉学、ダンス、刺繍、異国の宗教や文化にまでも手を出して、本を端々まで読み込んで、出来うる限りのことを身につける。


 6年前、ネージュは寒い寒い冬の凍り付くような泉の中に落ちた。そして、高熱にうなされた。当然のことだろう。冬の泉に落ちたのだから。やっとのことで熱が下がった頃には1ヶ月もの月日が流れてしまっていた。


 回復に喜んだ。

 また彼と一緒に遊べると胸が高鳴った。

 けれど、その思いは裏切られた。


 ネージュの世界からは音が消えていたから。

 日常生活さえも送れなかった。普通にも戻れなかった。ただただ何も聞こえない恐怖に包まれた真っ黒な世界で、ネージュはたった1人だった。

 屋敷も移された。王城の暮らしから、離領の別邸に閉じ込められた。ネージュのそばには誰もいなくなった。側仕えは数人の侍女のみ。ネージュの視界からは数人の侍女以外全てが消えた。

 誰も救ってくれなくて、誰もネージュを理解してくれなくて、絶望の自分自身が鳴らす音のみが自分の脳内を支配していた。


 気が狂いそうだった。


 ただただ生きづらい世界で、ネージュは何度も別邸の屋根に登った。けれど、踏み出す勇気はなくて、結局は屋根裏部屋で泣きじゃくった。

 精神的に不安定ということを誰にも悟られたくなかった。だからこそ、ずっと1人で努力してきた。


 でも、そんな日々が今日で終わりを迎えたと思えば舞い上がるほどに嬉しかった。

 12歳の誕生日、手紙すらも全てが禁止されていた世界に1つの誕生日プレゼントの箱が届いたのだ。贈り主はオリオン・ライオネル。この国の第2王子にしてネージュの幼馴染だ。


「オリー」


 呟くように声を出してネージュは箱を撫でた。

 音を失ったネージュは、自分が記憶を手繰って出した声の発音が合っているかも分からない。けれど、出さずにはいられなかった。大事な大事な彼の名前を。

 淡い黄色のボックスに滑らかなシルクの真っ赤なリボン。

 しゅるしゅると撫でるようにして、真っ赤なリボンを解いて中身を取り出す。

 中に入っていたのは焦茶色の革表紙に金箔とルビー、アクアマリンが飾られた豪華絢爛な本だった。1冊の方はするりと表紙を優しく撫でると優しい温かみを感じた。


(魔法?)


 キョトンと首を傾げながら真っ白な手袋を身につけて、たった今宝物になった本を壊物を触るかのような慎重さで開く。


 ーーーぱあああぁぁぁぁぁっ!!


 きらきらと黄金と白金の光を放った本は、唐突に彼の癖が大いに反映された流麗な文字を書き始めた。


〜〜〜


 愛するネージュへ


 連絡が遅くなってすまなかった。

 本当はずっと前から連絡を取りたかったのだが、クソジジイとクソダヌキが邪魔をしてきてかけなかった。やっとのことで2人が出した課題を終えて、君の12歳の誕生日にこの本を送る許可が取れたんだ。本当に長かった。

 クソダヌキの話によれば、君はものすっごく勉強を頑張っているそうだね。僕も結構頑張ってるんだけど、君がやっているという履修範囲にまでは到底追いつけそうもないや。本当に、ネージュは賢くて頑張り屋さんで、僕の自慢の“婚約者”だ。

 賢い君ならもう気づいていると思うけれど、これは連絡用の特殊魔道具だ。僕が作ったんだ。凄いだろ?

 この本の仕組みはとっても簡単。

 僕と君の交換日記みたいなものだ。この本は2冊が1組になっていて、僕が書いた内容が君の本に転送されて、君の書いた内容が僕の本に転送されるようになっている。ちなみに、主人以外が開こうとするとバリアが働くし、中の文字は主人以外が見ても読めないから、中身を見られても大丈夫だよ。

 僕と君の密かな恋の逢瀬のためだけの魔道具だ。

 しっししー!悔しがれ!ジジイにタヌキ!!

 まあ、そんな感じで、物も本のサイズくらいのものなら文字同様に届けてくれるから、君が見て綺麗だなって思ったものとか見せてくれると嬉しいな。

 大好きだよ、ネージュ。


 ネージュが大好きなオリオンより


〜〜〜


 読んでいる方が恥ずかしくなってしまうような文章が記された本を見つめて頬が赤くなるのを感じながら、ネージュはここ数年で初めて微笑んだ。


 唯一近くに控えていた侍女が驚いたように目を丸くする。そして、パタパタと急いでどこかに向かった。

 幼き頃からずっと支えてくれている彼女のことだ。思い詰めて何度も死のうとしていたネージュが幸せそうにしているのを見て感極まったのだろう。

 音が消えたことによって視覚が優れるようになったネージュは彼女がハンカチで目元を抑えて部屋を去っていったのを見逃していなかった。


 幸せいっぱいな気持ちで本を抱きしめて、ネージュは今まで手慰めに作っていたたくさんの押し花の栞の中から1枚を取り出した。


 水色と白のグラデーションの花の名前は『雪花』という。


 未だに婚約が解消されていなかったことに驚きながらも、彼のためにもっともっと知識を身につける覚悟を決めたネージュは万年筆を手に取って机に座った。


 本の2ページ目を開き、文字を記す。

 愛しい彼に、恋文をしたためる。

 初々しい乙女の恋文は誰にも、オリオン以外の人全てに秘密だが、これだけは言える。


 ネージュは案外文章を書き記すのが下手だった。


 ちょっとだけしょぼくれながらも、昔彼と一緒に必死になって練習した、彼と癖が似通った字を撫でてネージュは栞と一緒に文字を彼の本へと転送した。

 魔力が豊富で魔法が得意な自分が、この時ばかりは誇らしかった。

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