射干玉の 肆

 総司郎は無表情だ。いつもというわけではないが顔のパーツが眉くらいしか動かない。霊道はそんな彼だからこそ、何をしでかすのか分からずに興味を惹かれるのかも知れない。

 今回だって、鼠の天ぷらなんて物を用意して無言のまま例の襖の部屋へと踏み込んでいた。


「全員入ったか? それなら光が差し込まないように閉めれる場所を全てしめてくれ」


 言われるがままに動く玄。そんな彼の行動を横目に、光が全て奪われる前にと総司郎は部屋の真ん中へと三方を設置した。

 そして全員の視界は漆黒に包まれる。

 霊道は身震いした。経験した中で最も暗い生活上の闇は、夜道程度だからだ。だがこの空間は比較にならない絵の具のような黒。総司郎と玄が傍に居るのかさえも疑ってしまうような、そんな恐ろしさが精神を襲う。


(冷静になるのよ。人間は光が無いと極端にストレスを感じてしまう、だからこそ別の五感で緩和させるべき)


 霊道は自身が座っているのが畳の上だ、というのを再確認するように床を撫でたり軽く爪で引っかいたりした。

 これは今自分は確実に存在しているという証明の為、併せて自分以外の物があるという事を脳に伝える為の行動である。


(遮断実験は五感を奪うことが条件、だから今は逆をやらなきゃ。視覚は駄目、味覚も無理、だったらあとは聴覚と嗅覚!)


 耳を澄ませ、匂いに注意する。

 するとどうだろう。畳の良い香りと襖の外から聞こえる鳥の鳴き声が、真っ暗な闇の中に鮮明なる光景を描いてくれるではないか。

 四畳半以上程度とは思えないほどに際限のない暗黒空間に思えた世界は、一瞬にして趣ある和室へと変化した。


(残るは――)


 五感ともうひとつ。

 それを連想するよりも早く、総司郎の声が鼓膜へと流れ込んだ。


「来るぞ」


 墨を塗ったような視界に蛍、いやそれ以下かも知れないくらい朧気な光が浮かぶ。まるで蛍光塗料のようなソレはやがて形を成し、一匹の動物のシルエットを浮かび上がらせた。


「狼? 狐?」

「恐らく狐だろう、鼠につられて出て来てくれたってことはな」


 冷静に言葉を返す総司郎の前には、ゆっくりと歩み寄る光の塊。

 果たしてそれは捧げられた鼠の天ぷらへ顔と思しき部分を近づけた。


『げに、さかしきかな』


 聞いたことも無い言語が部屋へと響く。


『時経れど我の意思わかる者うちいづれば、待ちし心ありけるもの』

「あまりに口語的過ぎて全てを訳すことは出来ないが、何となく意味は分かる。やはりあなたはお稲荷様、即ち宇迦之御魂神の御使いということで間違いないですか」

『否』


 総司郎の眉間に皺が寄る。

 当てが外れた。ともすれば相手がどのような存在なのかてんで分からず、振出しに戻ってしまうからだ。

 しかし――


『さかしき者なれば我が色分からん。きしかたにここより西、道広なるかたわれの主によりて討たれし狐なり』


 総司郎の瞳孔がひらく。


玄狐くろぎつねか……!」

『ながゐすぎき。故、そろ天下みばやえ』


 光は箪笥の方を指し示すと、そのままふっと消えてしまった。



 ――襖を開ける。

 突然さし込んだ光に二人が険しい顔をするも、総司郎は構わず口を開いた。


「俺は大きな勘違いをしていた。あれは神使じゃない、神そのものの方だ」

 「神様が私たちの前に現れたの? 今?」と尋ねる霊道にこくりと頷く。


「玄狐といってな、函館から松前にかけて伝わっていた伝説のひとつ。元々は江戸時代に京都の偉い人の娘さんが蝦夷の殿様、すなわち松前城主へと嫁ぐ際に何匹か狐を付き添わせたんだ」

「狐っすか」

「ああ、平安京……現在の京都に伏見稲荷があるように平安時代から爆発的に稲荷信仰が広まったんだ」


 総司郎の視線が三方へと向く。


「さっき話したように鼠は古代から害獣として扱われていた。そんな鼠の天敵となる動物はまさに神の使いだったというわけさ。だから作物を荒らす鼠を食う狐、から転じて豊穣の神の使いとしてお稲荷様が祀られるようになったんだ」

「じゃあ鼠の天ぷらっていうのは」

「今でこそお稲荷様は油揚げが好物とされているが、元は鼠を揚げた物を供物としてお供えしていたんだ。だがお供え物に鼠というのは後始末が大変でな。神への捧げものとした手前、その辺に捨てるわけにもいかない。かといって食べるわけにもいかず……と当時の人は度々困っていたらしい」


 「そこで」と三方を持ち上げる。


「当時修行僧たちが行っていた精進料理を参考にし、本物の鼠を使うのはやめたってわけさ」

「じゃあ一体何を揚げていたんだ?」

「豆腐、つまり油揚げだ。火が通っているから日持ちするし、備えた後は皆で食べられるからな処理にも困らない」


 なるほどと玄が相槌を打つ。


「話を戻すぞ。稲荷信仰にあついところの娘さんだったから、狐を何匹か連れて嫁いだんだが数年後に若くして亡くなってしまうんだ。その時に付き添っていた狐たちは皆故郷へと帰ったんだが、一匹の黒い狐だけは蝦夷の地から去ろうとしなかった」

「どうして?」

「その地の狐と子をもうけてしまったから帰れなかった、というのが伝承にある。それでしばらくは平穏に過ごしていただろうな」


 言葉尻から嫌な予感が二人の脳裏を過ぎった。


「ある日藩主が狩りに出かけた際、黒狐を見つけてしまう。そして討ち取られた結果、怨霊となり……あとは想像通り。色んな人が病に倒れて、ってところだ」

「待ってくれ。どうして怨霊が神様になれるんすか」


 総司郎は玄の瞳をじっと見つめた。


「この世ならざるモノには格があるからだ」

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