射干玉の

射干玉の 壱

 虫の音も静まる夜更け。

 とある部屋の襖からカリカリと音が鳴る。まるで何か尖った物で削るような、さらに想像を膨らませるなら動物が爪で木をひっかくような音。

 今夜もそれは響いていた。


「……またかよ」


 うとうとしながら机に向かっていた大学生、八次やつぎげんは毎夜聞こえる謎の音にうんざりしていた。

 初めの頃は家屋のどこかにガタが来ているんだろう、と楽観視していたがあまりにも長く続き、それでいて夜中の決まった頃合いにしか聞こえないことから考えを改める。

 これは何かによる意図的な嫌がらせだと。


「くそっ、眠れねえから柄にもなく勉強してたってのによ」


 怒りを床へとぶつけるように立ち上がり、ずかずかと廊下を歩く。

 彼の家はかなり古い造りで廊下に明かりなんて物は無かった。夜に部屋から出るなら懐中電灯を持ち、進む方向を照らしながら歩くしかない。

 そんな家だから最初は隙間風が音を鳴らしている、と思ったのだ。


「やっぱりこの部屋、だよな」


 玄はある部屋の前に立ち、和紙のようにうっすらと黄ばんだ白い襖を照らす。

 人の気配があるというのに相変わらずカリカリと何かが音を鳴らしている。ここまで図太い行動をするのだから、泥棒とかではない。

 そして玄はいつも通り音の鳴る襖をシャッと開けるのだ。


 またいつも通り、そこには何もいない。

 天井から部屋の隅まで四方を懐中電灯で照らしてみるも、生き物の影は無い。

 あるのは――


 ――襖の裏に残された、無数の爪痕だけだった。



 ◆



 懐中電灯なんかよりも明るい日が登り、玄の家にも朝が来た。

 毎日あんなことが起こるせいで睡眠不足は必至。今日も今日とて嫌がる瞼を無理やり引き上げながら大学へ行く準備を始める。

 良い意味でも悪い意味でも何も変わらない日々。

 玄は廊下の途中でふと庭に停めてある愛車を見た。

 艶々とした黒いボディ。流麗なラインはふっくらとしたお尻の方まで伸びており、クーペボディを活かした車体はとても愛嬌のあるフォルムをしていた。


「俺のT230型セリカ、いつ見ても……くう! わくわくするぜ」


 玄の数少ない趣味のひとつに休日のドライブがあった。

 彼自身運転が好きなのもあるが、色んな景色を目に焼き付けることに快感を覚えていたのだ。

 だが……


「ごめんなセリカ、今はドライブって気分になれねえんだ。……眠いまま運転すると危ないしな」


 まるで恋人にでも話しかけるようにぎこちない笑顔を車へと向ける。

 そして返事がない事を「いつも通り」と納得すると、愛車に背を向けて靴を履き玄関を出た。


「……あの」


 玄が家を出ると玄関の横、塀の近くに見知らぬ男性が立っていた。

 顎に手を当てながら彼の家をまじまじと眺めている。不審に思った玄は意を決して男性へ声をかけたのだ。


「ここ俺の家ですけど、何か用ですか?」

「ああ、いやすまない。ちょっとな」

「用があるなら俺に言ってください。今ここ俺しか住んでないんで」


 男性は少し考えるような素振りを見せたあと、何か合点がいったような顔をして返事をする。


「じゃあ質問なんだが、この家で妙な事が起きてないか?」

「えっ」


 思わず眉を上げる。

 ドンピシャ。まさに自分の悩みの種とも言える現象が毎晩起きている。この男性がそれについて話しているのかは分からないが、玄は藁にも縋る想いで声を絞り出した。


「起きて……ます」

「ふむ、やはりか」

「あの! 俺別に変なとこ行って変なモン背負ってくるようなことしてないのに、何か憑いちゃったみたいで――」

「あー分かった分かった、落ち着いてくれ。ほら名刺わたすから、都合の良い時に俺を呼んでくれ」


 そう言って差し出された名刺には見覚えのない三文字が記載されていた。


「きょう、かいや?」

「店でもないし、会社ってわけでもないな。なんて言ったらいいだろうか……ああ、生業のことだ」


 どうにも釈然としない説明に男性も苦笑い。

 ハッキリ言って怪しさは満点であったが、このくたびれた男性に一縷の望みがあるのならばお願いしてみたい、とそう玄が思ったのもまた事実。

 玄は丁寧にお辞儀をして、貰った名刺を大切にパスケースへとしまった。

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