草の縁 参

 これ以上は壊れるんじゃないかというくらいに心臓が鳴る。

 息が出来ない、したら背後の何かに悟られそうで。

 霊道の精神は極限状態へと差し掛かっていた。


 ――ガサッ


 再び響いた足音。

 霊道は驚きのあまり気を失いそうになった。


「あ、おいおい」


 しかし、後ろへと倒れかけた彼女の手をしっかりと握る者が居た。

 記憶に新しい声。見覚えのある顔は霊道の意識を一気に引き戻すには十分な材料だった。


「よう。お前さん、また会ったな」

「琴葉総司郎……?」


 相変わらずの無表情で手を握っていたのは総司郎だった。

 無論、彼の手を離したりはしない。それどころか一層強く指先へと力を込めた。


「いてててて! 爪が刺さってる!」

「あ、ごめんなさい! ちょっと精神の安定を図ろうとして……」

「何だ、山の動物にでも脅かされたか。安心しな、この山に熊は生息しちゃいないよ」

「ち、違うわよ!」


 緊張が解けたのかすくっと立ち上がる。


「その分には問題なさそうだな、じゃ」


 するりと手を放し、歩き始めた総司郎。


「ちょっと待って!」

「怒られそうだし、出来れば待ちたくないんだけどなあ」

「あなた風に言うなら、ここで会ったのも何かの縁よ。少し付き合って」


 そういう話に持っていかれると弱い。

 総司郎は軽くため息をつきながら踵を返した。

 正直なところ霊道は今彼に離れて欲しくは無かった。恐怖が薄れないうちにようやく掴んだ蜘蛛の糸を手放したくは無かったのだ。


「それで、何があった」


 総司郎の質問に対して霊道は先程のことを口に出そうとして躊躇う。

 言葉にしたら恐怖を認めそうで、また声が聞こえそうで怖かったのだ。

 長い間彼女が口ごもっているのを見て、総司郎は呟いた。


「鳴き声か?」


 霊道は目を見開き頷く。これが彼女に出来る精いっぱいの返事だった。


「なるほどな。よし、こっちに戻って来な」


 総司郎の手招きに従い、霊道は不気味な岩の方へと歩み寄る。

 内心は怖いくらいに怯えていた。また肉眼でこの岩を視認したくなんてなかったのだ。

 カタカタと震える霊道に対して総司郎は一本の箒を押し付けた。


「俺は元々ここの掃除をしに来たんだ。ここの住職、タケミチさんとは仲が良くてな、定期的に奉仕活動をしに来るんだよ」

「えっと、つまりこの岩を掃除しろってこと?」

「岩っていうより石だな。俺が手拭いで石を拭くから、あんたは近くの枯葉とかを掃いてくれ」


 霊道は言われるがまま箒を受け取ると、流れに身を任せて掃除を始めた。


 ◇


 ――数十分後。

 見違えるほど綺麗に、とはならなかったが小綺麗にはなった。散らばっていた枝や葉は丁寧に掃き出され、苔むしていた石は少々艶を取り戻している。

 いつの間にか霊道も達成感に包まれていた。


「ようし、これで良いだろう」

「どうして掃除を――」


 ――あははは……


 流れるように聞こえてくる笑い声。


 ――うふふふふ……


 しかし今度は恐怖を感じない。

 その声色にはどこか喜びが、感謝が込められているような感じがしたからだ。


「これがお前さんのビビっていた声の正体。夜泣き石だ」

「よなきいし?」

「この石、今はここにあるが明治三十二年、西暦にして一八九九年より前は函館山の山頂にあった物だ。山を要塞化する時に小さくしてここに移動させられたってわけだな」


 総司郎は石の表面を指さした。

 そこには霊道達には読めなかったかすれた文字が刻まれており、一層の不気味さを醸し出している。


「ここには南無妙法蓮華経、って書いてある」

「お経?」

「惜しいが違う。これはお題目というもので日蓮宗にちれんしゅう特有の文句だ」


 初めて聴く単語の波に霊道は酔いしれる。

 そして思う、「嗚呼、この人は知っているんだ。この石のことを」と。

 自分の知らないことをつらつらと、まるで知識の水を流し込むように話してくれる。彼女は総司郎という人物に無意識のうちに惹かれていた。


「昔、悪人によってとある母子の命が奪われた。そしてあろうことか遺体は石の下へと埋められてしまったわけだが、その始末の悪さからか石からは毎晩すすり泣く声が聞こえて来たらしい」


 総司郎は再び南無妙法蓮華経の文字を指さす。


「そこに現れたのが日蓮宗の僧である日持上人にちじしょうにん。彼はこの母子を供養し、鳴き声を止ませることに成功したという」

「ならもう成仏はしたのね」

「そいつがそうでもない。その後文化ぶんか十三年、西暦にすれば一八一六年に日亀にちきという僧がこの石を見て、日持上人の筆跡を残すべきだと言いながら三人の石工に字を掘り直させたんだが……後に三人とも亡くなったらしい」


 上げて落とす総司郎の話し方に霊道は少し寒気を感じた。

 別に怪談を聴いているわけでもないのに、実物を前にしてそれにまつわる噺を聴いてしまうと謎の臨場感が彼女を襲うのだ。


「まあ、そういうところから夜泣き石は別名で題目石とも呼ばれていたりするんだな」

「つまりこの石は殺された母子の墓石、とも捉えられるわけね」

「そうとも言えるだろうな」


 何故だろうか。

 先程までこの世のものではない存在にとてつもない恐怖を覚えていたのに、その経緯を知ってからは謎の親近感さえ芽生えてしまっている。

 霊道は石に、歴史に、噺に対して自分では抑えきれない程の好奇心を覚えた。


「それとお前さん、俺が忠告したのに余計なところで耳を澄ましただろ」

「なっ、しょうがないでしょ! わざとじゃないんだから……」

「あんたはもう繋がった。こういう安っぽい言い方はしたくないんだが、普段人々が気づくことのない裏のチャンネルと接続しちまったわけだ」


 総司郎は自分の耳に指をあてる。


「普段、あんたらが気にしていない、捉えることのない音が『必要なもの』として拾われた時、そいつらの声は聴こえるようになるのさ」

「……それってカクテルパーティー効果かしら」


 カクテルパーティー効果。

 多くの音の中から自分の必要としている声や音を聞き取ることの出来る現象をいい、学校などで無数の会話が飛び交っているのに自分が必要としている情報を聞き取ることが出来るのはこの効果によるところである。


「悪いが俺は理数系がテンで駄目だ。何を言っているのか分からないが、お前さんがそう思ったのならそれでいい」

「つまるところ、私がおばけ? とかの声を必要な物と判断しちゃったわけでしょう」

「……なんか、案外のみ込みが早いんだな」


 少し投げやりな態度をとる総司郎に対して、霊道は腰に両手を当てながら睨みを利かせた。


「私は見たことのないモノは決して鵜呑みにしないけど、自分で体験した事はまた別なのよ」

「なるほど、中々に高尚な考え方だな」

「それと言い忘れていたけど、あんたって呼び方はやめてよね。私の名前は菅野霊道、そうそう居る名前じゃないんだからちゃんと覚えなさいよ」


 先程の怯えていた彼女とは打って変わり、ずかずかと積極的に会話を繋げる態度に気圧される。

 総司郎はバツが悪くなったのか、荷物をまとめるといそいそとその場を後にしようと歩き出す。


「ちょっと待って! 総司郎、あなたの知識量から察するにどこかの研究者と見たわ。よければどこの所属なのか教えて欲しいんだけど……」

「悪いが俺は高卒、研究者じゃない。ただの自営業をしてる一般人だよ」

「どんな仕事をしてるの?」


 総司郎はこれも縁か、と少し息をつき霊道の方へと振り返る。

 気怠そうな彼の瞳が珍しく光を帯び、真っ直ぐにこちらを見つめていたことからその一瞬は霊道の記憶に深く焼き付いた。


「境界屋、だ」

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