第10話

 数時間前までの日常が遠い過去のように思える。いつもと違う場所で寝泊まりしたせいか、今朝は夢見心地で別世界に迷い込んだかと思ったくらいだ。


 こういう時はしばらくの間、上体を起こしてベッドに座り込み何も考えずぼんやりとして過ごしたい気分になる。


 しかし、突然ベッドの脇の方から呼び出し音が部屋中に鳴り響く。一瞬動悸がして焦ったが、音の発する方向に首を向けてその正体を確認すると、小棚の上にある内線電話の受話器を取り上げ耳に近づけた。


「……もしもし?」


「アルトさん! おはようございます! 昨日はよく眠れましたか?」


 朝から快活な声が電話口から聞こえてくる。その声の主がエミであることは言うまでもない。お陰で鈍かった思考回路が一気に覚醒した。


「あぁ、おはようエミ。そうだな、少し前から起きていたけどぐっすり眠れたよ」


 そう言うと心なしか少し嬉しそうな声でエミが話す。


「それは良かったです! アルトさんにとって初めての場所でのお泊りですから、睡眠不足になっていたら申し訳なくて……」


「エミが詫びる必要はないだろ? それに孤児院では雑魚寝をしていたから、寧ろ今住んでいるアパートと同じくらいゆっくり寝られたよ」


 昔――俺は能力を使った後孤立しがちだったが――なかなか寝付かない孤児院の仲間がいて、夜遅くまで騒いでいた。結局院長先生に見つかって説教をくらうのだが、怒られている時間も長くて早めに寝ていても眠れないということが多かったものだ。


「それならいいんですけど……その部屋を選んだのは私ですから、もし寝苦しいようなら別の部屋を用意しますのでいつでも言ってくださいね?」


 少々彼女は気を遣い過ぎているとは思ったが、好意で心配してくれているならそれを指摘するのは失礼というものだろう。取り敢えず当たり障りの無い返事をしておくことにした。


「快適すぎるくらいだから大丈夫だよ。それより、何か用事があって電話したんじゃないのか?」


「あっ、そうでした! すみません、アルトさん。昨晩、お食事をとられていないですよね? 私が食堂の場所をお伝えするのを忘れていたせいで……本当に、ごめんなさい!」


 エミが目の前で勢い良くお辞儀をするのが想像できるくらい、申し訳無さそうな声音で話す。

 そう言えば、昨日は部屋を一通り見て風呂に入りシャワーを浴びた後、このダサい服装……もとい戦闘服に着替えてそのまま寝てしまっていた。お腹の調子を気にし始めた途端に、空腹を感じてくる。


「あぁ、別に気にしていなかったからいいよ。今ちょうどお腹が空いてきたくらいだし」


「でしたらお詫びも含めて私にご案内させて下さい! ここの食堂のメニューはとても美味しいのできっと気に入ると思います!」


「わかった。じゃあ部屋の前で待っていればいいか?」


「はい! すぐそちらに向かいますね!」


 よほど責任を感じていたのか、こちらの返事を聞くことなく通話が切れる。約束通り部屋の扉の前で待っていると程無くして走ってくる彼女の姿が見えてきた。


 その後、エミに連れられて一階にある男子寮と女子寮を結ぶ廊下にでると、この廊下を挟むようにして北側には食堂が、南側には中庭があった。


 食堂に足を向けながら横目で中庭の方を見る。円形状に木製のベンチが間隔を置いて並べられており、そのベンチに沿って色取り取りの草花が植えられていた。中央部分には噴水があり、天使をモチーフにした石像が持つ水瓶すいびょうから、水が注ぎ込まれていた。


 機会があれば、あのベンチに座ってお気に入りの文庫本を読むのもいいかもしれない。そんなことを考えながら、中庭を後にして食堂の入り口へと向かった。

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