第4話

 周囲のものの動きがいつもより遅く感じられる。人や車、群れをなして飛んでいる鳥の動きさえも。いや、そうではない。自分がだんだん速くなっているようだった。


 久しぶりの感覚と力加減に迷いながら大通りに入り、行き交う人々を避けながら走り抜ける。

 周囲の人は一瞬何かが側を通り過ぎたことに驚き、目で後を追っていたがそれが人だと認識する頃にはもう遠く離れていた。


「アルトさん、その先にある二つ目の信号を左折して、向かいにある建物の一つ目の角を右折して下さい」


 無線からエミの指示が聞こえてくる。ちょうど信号の色が変わり、言われた通りの道を進んだ。どうやら、こちらの進行速度に合わせて最適な道を選んでいるようだった。


「エミ、ちなみに今犯人の居場所は分かっているのか?」


 肝心の相手の居場所が把握できていなければ、付近に近づいても探すのは困難だろう。


「大丈夫です! すでに特定を終えて、マークしています! 現在はSABUYA区を抜けてTASEGAYA区に入ろうとしている模様です!」


 まさか、本当に居場所を突き止めるとは思っていなかった。どうやって成し遂げたのかは不明だが、今は追求せずにやるべきことに集中しよう。


「……TASEGAYA区か。なら好都合だ」


 一年とはいえ、住み慣れた街に逃げてくれたのなら大体の地図は把握できる。そう考えた俺は、再度エミに呼びかけた。


「悪いが、ここからは俺のやり方で追わせてくれないか?」

「それは構いませんが、何をするおつもりですか?」


 その問に応えるために、一度停止すると付近にある高層ビルの一つを見上げて言った。


「飛んでいく」


 短くそう伝えると少し助走をつけて高層ビルの壁に目掛けて走り出し、片足を引っ掛けると同時に力を込めて一気に屋上まで駆け上がった。この行為がきっかけとなり突風が起こると、ビル内から多少驚きの声が上がったが気にしないことにした。


 屋上にたどり着きTASEGAYA区方面にある建物の配置を見て回る。高さはほぼ均一で飛び移れない距離ではなかった。


「エミ、今から全速力で犯人を追いかける。エミには、犯人との最短距離を把握しながら方角だけ俺に教えて欲しい」

「了解です! ですが大丈夫ですか?」


 確かに、高いとこから飛び降りるくらいだ。通常なら即死ものだろう。この能力があるとはいえ少なからず勇気がいた。だが俺は被害者の女性の姿を思い出しエミに答えた。


「大切なものを守るために能力を使え、そして人に誇れる行動をしろ」

「えっ、何ですか?」


 数年前のあの人の言葉を呟いたが、聞き返されたことで何となく気恥ずかしくなった。それを訂正しようと話し続ける。


「あっいや、あの人にとっての大切なものを失わせるわけにはいかないからな。これくらい大したことじゃない」


 そう答えると、屋上の端まで出来る限り後退する。そこから全力を注ぐように地面を踏み締め走り出し、近場の建物に向かって飛び込んだ。


 体が宙に浮きスローモーションのようにゆっくりと落ちてく感覚を抱く。恐らく飛距離は問題ないはずだ。そう思ったが、自分の想像とは裏腹に急速に体が落下している。


(やばい!)


 頭の中でそう思うと、必死に前に手を伸ばす。かろうじて狙ったビルの屋上のふちに捕まった。それと同時に壁にぶつかり衝撃で体を痛めたが、何とか這い上がる。


「あの……アルトさん? ものすごい音が聞こえましたが、生きていますか?」


 無線から心配する声が聞こえてくる。まだ体に痛みはあったが、平気なふりをした。


「あぁ、大丈夫だ。問題ない」


 立ち止まってはいられないので、そのまま屋根伝いに移動していく。道路を走るよりも人目を気にせずに能力を使え、余計な障害物が少ない分移動も速かった。

 それからエミと連絡を取りながら走って飛ぶという行為を複数回繰り返していると、急にエミが緊張した声で話しかけてきた。


「アルトさん! もうすぐ犯人と接触します! 目標到達まであと三十秒!」


 気を引き締めて前方を注視しながら道路沿いの建物の上を渡る。そしてエミのカウントダウンが終わりを迎えるとともに建物から飛び降りた。

 すると、先程の女性のものと思われるバックを持った犯人がバイクを吹かしながらスピードを上げて路地を走行しているのが目に入る。


「あいつか!」

「はい! 反応から見ても間違いありません!」


 エミの言葉を聞き地面に着地すると、足への痛みも忘れすぐさまバイクを追いかける。それから数秒と経たない内に犯人に迫った。


「おい!」

「あぁ? なっ、何でお前バイクに追いついて!?」


 俺はバイクと並走しながら犯人に話しかけていた。相手は動揺していたが無視して続けた。


「おとなしくそいつを返せ。そうすれば、悪いようにはしない」


 男が持っているバックを指さす。だが男はそれを聞くと罵声を浴びせてきた。


「馬鹿かお前は! そう言われて素直に従う奴がいると思うのか?」

「その中には持ち主にとって大切なものが入っている。お前が簡単に奪っていいものじゃない」

「だから何だ? 例えそうでも簡単に奪われるようなマヌケな奴が悪いだろ? 分かったならさっさと消えろ!」


 男はそう言い放つと振り払うかのように拳を突き出してきた。とっさにそれを躱すが、その隙に男はバイクのスピードを上げて逃走した。


 こちらも態勢を立て直して追跡する。だが、バックミラーで未だに追跡されていることを確認したのか、更に加速させ大通りに入ると信号を無視して走りだした。

 横断歩道を渡っていた歩行者の悲鳴や急ブレーキをかけた車のクラクションが鳴り響く。


「くそっ! このままじゃ二次災害が起こるぞ!」


 焦りのあまり周囲への配慮を忘れていた。浅はかな行動はできない。そうかと言って犯人を見過ごす訳にもいかない。どうするべきか考えているとエミから通信が入った。


「アルトさん! 今から指定した座標に移動して下さい! 犯人を追い詰めます!」

「追い詰めるって、どうやって?」

「説明は後です! 時間がありません! すぐに実行して下さい!」


 切迫したような声で訴えかけてきた。考えている暇は無さそうなので犯人の追走をやめ、指定された場所へと急ぎ方向転換する。目的地の道路に着くとそのまま待機するように言われた。その数秒後、前方からバイクに乗った犯人がこちらに向かってくるのが見えてきた。


「なに!?」


 向こうもこちらに気づいた瞬間驚きの声を上げたようだったが、すぐにハンドルを切り別の道へと曲がった。すぐに、エミからの通信が入る。


「次の座標まで移動をお願いします!」


 言われた通りに次の位置まで移動するとまたもや前方から犯人のバイクが迫って来るのが見えた。


「ちっ!」


 犯人の男もまた舌打ちをしてハンドルを切り返し別の道へと急ぐ。当然のごとくすぐにエミから次の場所へ行くように言われた。それを何度も繰り返す内に、さすがに俺も予想が付いた。どうやら人気の少ない道へ犯人を誘導し、さらに狭い路地へと追い込んでいるようだ。


 予想通りというべきか、だんだんと道幅が狭くなりついには行き止まりまで犯人を追い込んだ。


「クソがっ!」


 犯人はブレーキを掛けるとハンドル部分を拳で叩いた。逃げ道を塞ぐように後方の建物の間に立って話しかける。


「ここまでだな。諦めてその鞄を返せ」


 そう言われ束の間こちらに振り向いたが、すぐに鞄の方に視線を落として考え事をしているようだった。葛藤しているのかと思い、仕方なくこちらから促すように手を差し伸べながら一歩近づく。その途端に男は言葉を投げかけてきた。


「おい、これを返して欲しいか?」


 男はそう聞くと鞄を軽く持ち上げて見せつけるようにした。


「……? あぁ、そいつを早く返せ」

「わかったよ。なら、さっさと拾いやがれ!」


 その瞬間男は鞄から財布だけを取り出し残りをすべて前方に投げつけた。


「なっ」


 一瞬気を取られすぐに拾おうとするが間に合わず、地面に落ちて鞄の中身が散乱する。その中には、被害者の女性が語っていた髪飾りがあった。


「ほらよ。そのは確かに返したぜ? じゃあな、ヒーロー気取りの糞ガキ」


 吐き捨てるように言うと男は小回りを利かせ逃走した。

 俺は俯いたままゆっくりと散乱した中身を拾い集める。髪飾りを手に取ると被害者の女性の言葉を思い返した。


「私の誕生日にその髪飾りをプレゼントしてくれて凄く嬉しかった……。思い出の品を整理したんですけどそれだけは捨てられなくて……」


 自然と腕に力が入り握り拳が震える。その後、髪飾りを鞄へと戻しエミに通信した。


「エミ、ひとつ頼んでもいいか?」

「はい、何でしょう?」


 先程までとは違う重苦しい口調に空気を感じ取ったのか、こちらを気遣うような声をかけてくる。だがその心遣いに応えられる程、今は冷静でいられる余裕などなかった。


「バックは取り返したが、犯人は財布を抜き取って逃げた。これからもう一度あいつを追いかける」

「あっはい! もう一度犯人を追い込むのですね?」

「いや、その必要はない。やり方を変えるからエミは救急車を呼んでおいてくれ」

「えっ、あの、アルトさん?」


 エミは何か言いかけていたが、それだけ伝えると俺は無線を切りバックを持ったまま全力で犯人を追いかけた。


 それほど時間が立っていなかったからか、幸運にも一本道の先にバイクを運転している犯人を見つけた。俺はさらに能力を使い速度を上げて迂回すると、先回りして数百メートル離れた位置に着く。


「あぁ?」


 相手もこちらに気づいたのか、バイクのホーンを鳴らした。しかし、スピードを落とす気配はない。

 俺の方も退くつもりなどなかった。鞄を持った左手に力が入る。


「ちっ、上等だぜ!」


 男はこちらが動かないのを確認すると、バイクを加速させ突っ込むように迫ってきた。

 距離が徐々に近くなりあと少しで接触するというタイミングで、俺は一息つくと意識を集中させ右手を勢い良く前に突き出した。


 空気を裂くような轟音が鳴り響く。バイクがぶつかった衝撃で破損し部品が砕け散った。犯人の男の体が宙を舞い背中から地面に叩きつけられる。男は苦痛に打ちひしがれると、そのまま横たわった。


 バイクの本体が直立し鈍い低音を立てて地面に倒れ伏すのを確認した後、俺は犯人に近づき男の上着のポケットから財布を取り上げ中身も無事なのを確認して鞄に戻すと、エミに連絡するため無線を起動する。

 その瞬間慌ただしいエミの声が聞こえてきた。


「アルトさん! もう! いきなり通信を切らないで下さいよ!」

「わっ、悪かった。ただ、財布は取り戻したし、もうだいじょ……ぐっ」


 話している途中で急激な脱力感と痛みに苛まれる。立つことも儘ならなくなり、膝を付いた。


(くっ、体が……動かない!)


 手足が震え感覚もなくなってくる。子供の頃にこの能力を使った時は、確かに少し疲れ気味になったがここまでの疲労感はなかったはずだ。


「アルトさん? どうしました? 大丈夫ですか?」


 エミの心配する声が聞こえるが、返事をする気力もない。何とか体を動かそうと身悶えていると、後ろから足音が聞こえた。

 首だけを動かし後方を見ると、犯人の男が立ち上げり、ヘルメットを脱いで睨みつけながら近づいてきていた。金髪で黒の革ジャン姿の男は目つきも悪くいかにもガラの悪い性格と見た目をしている。


「てめぇ、よくも邪魔しやがったな。不気味な能力を使いやがるし、お前だけは生かしておけねぇ」


男は怒りを露にすると、ポケットから刃物を取り出した。


(まずい!)


 懸命に抗おうとするが、一向に体が動く気配がない。男はゆっくりと近づき真後ろに立った。


「おら、さっきまでの威勢はどうした!?」


 そう言いながら背中を蹴り飛ばされ地面に転がる。鞄は辛うじて抱き抱えていたが、耳から無線機が外れると、それに気づいた犯人が粉々に踏みつぶした。こちらも抵抗したかったが、睨み返すのがやっとで手に負えない。


「クズが! 仕事をクビにされて生きていくのもやっとだったのに、獲物を見つけた途端にこれだ! 何で俺ばっかりがこんな目に合わなくちゃならない! それもこれも全部お前のせいだ!」


 男は糸がキレたかのように怒りを込み上げ何度も俺を足蹴にした。腹部に足が食い込み、激しく咳き込む。


「……例え自分が不幸になったからって、他人を巻き込んだり傷つけたりしていい理由にはならない! しかもあんたは人の大事なものを扱いした! それだけは絶対に許す訳にはいかない!」


 苦しみながらも漸く声だけは出せるようになった。しかし、男は反論されたのが気に食わなかったのか、もう一度腹部を蹴ると癇癪を起こした。


「うるせぇ! ガキが大人ぶって説教するな! てめぇみたいな偽善者は世間の何の役にも立たねぇんだよ! 会社の奴らだってそうだ! いつもは連帯責任だとか何とかいって人のミスはフォローさせるくせに、いざ俺が取引先でミスしたら誰も助けてはくれなかった! それどころか、あいつら笑いながら残念だったなとだけ言い残しやがって! 慰めのつもりか! こっちにしたら余計なお世話だ! 反吐が出る!」


 男は一遍にそう叫ぶと大きく息を吸い、深呼吸をした。その後、小さく笑うと独り言のように呟く。


「だが、もうどうでもいい。俺は変わった。いや、生まれ変わるんだ。お前を殺して。そしていずれ会社の連中に後悔させてやる。俺を裏切ったことを」


 手に持った刃物を振り上げてこちらに狙いを定める。俺は刺される前に思いを叫んだ。


「こんなことをしても何も変わらない。あんた自身が目の前のことから逃げているからだ。そして自分を顧みず、すべてを他人のせいにしている。そんなことじゃ先が思いやられるぜ。それと、確かに俺は偽善者かもしれない。だが、例えそうだとしてもあんたみたいな碌でもない男にだけは将来、絶対になるつもりはない!」


 そう言い放つと男は怒髪天を衝いたような顔になり、刃物を一気に振り下ろした。


「死ねぇ! 糞ガキ!」


 鋭く尖った刃が勢い良く迫ってくる。死を覚悟したその瞬間鈍い音が響いた。その後男は時が止まったかのように硬直したまま横に倒れ込む。側に倒れた男に視線を向け、唖然としていると男が立っていた場所から声が聞こえた。


「遅れてしまってごめんなさい。でももう大丈夫よ」


 そこには今朝見た時と同じ、明るく優しい笑顔を向けた彼女が立っていた。

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