第10話
寒い。まるで極寒の海に裸で浸かっているみたいだ。
すごく怖いよ。心細くて寂しい気持ちになる。誰かに傍にいて欲しい。
もしかしてこれが死ぬってことなのかな。そんなのは嫌だ。まだ僕は死にたくない。
でも、この奈落の底に引きずり込まれていく感覚。抗おうにも力が全然入らない。それどころか徐々に抜けていっている。
もう駄目だと、これ以上進んだら死が確定してしまうそんな気がする。
死神の鎌が僕の命を刈り取ろうとしたとき、暖かな光が全身を包み込んだんだ。
幼い頃に転んで怪我したとき母親に抱きしめられたときのような、不思議と安心できるそんな気持ちになった。
誰かが手を差し伸ばしてくれている。僕はその手をつかみ取る。上へ上へと光り輝く方へ運ばれていく。
僕を呼ぶ声がする。誰だろう? お父さん? お母さん? いいや、違う気がする。
昔からの知り合いじゃなくて、最近出会ったばかりの声だ。
「……お……い……」
う、ううぅ、うるさい。耳元で大きい声で叫ばないでくれって。
「…お…い……おき……ろ」
起きたくても身体が動かしづらいんだよ。あと五分待ってくれ。
「おい! いい加減目を覚ましやがれっ! トン!!」
自分の名前を呼ぶ声に目をバチッと開け、僕は上半身を勢いよく起こした。
「あれ? 生きてる? 僕は確かあの処刑人との戦闘で殴られて死んだはずじゃ……」
ハッとして左腕にあるエクスを見る。宝石部分が点滅していた。どうやらこいつも無事だったらしい。
「――ったく、さっさと起きろ馬鹿が」
くっ、目覚めて早々にこの罵倒。あーイライラする。
あの処刑人もこいつだけでも壊してくれれば良かったのに。
今からでも……と思ったけど、僕も巻き添えで潰される未来しか見えない。
「誰が馬鹿だこの野郎。で、エクス。僕はどうなったんだ?」
そう僕がエクスに訊ねたとき、右の方から小さな子供の声が聞こえてきた。
「あっ、良かった。もう起きて大丈夫なんだね、お兄ちゃん!」
振り向くと、緋色の髪をした女の子が両手いっぱいに草や茸を抱えて、こちらに歩み寄ってきている。
こんなところに何で女の子がと首を傾げて、その背後に親の仇とばかりに睨みつける絶世の美女がいた。
どうしてと思ったけどそういえば僕はオークだったんだよね。当たり前か。
「ミリアッ! 迂闊に近づいては駄目だ! 何をされるか分からないぞ!!」
うぅ、辛い。何もしないってば。いちいち言葉が心にグサッとくる。
「大丈夫だよ、フローラ。お兄ちゃんはそんな人じゃないもん」
「悪いが信じられん。いいか、絶対に私の前に出るんじゃない」
ミリアと呼ばれた女の子はちょっと不満げな様子だ。そんな彼女を左手で制止し、鞘から見るからにヤバそうな気配(聖なる光)を漂わせた長剣を抜き、アリスは剣先を僕に向けて構える。
これ触れただけで死ぬんじゃないのと思いながら、僕はぼーっと美女の顔を眺めていた。
街中ですれ違ったら十人中十人全員が振り向くであろう圧倒的な美貌。超一流の人形師が作った西洋人形のように絶妙なバランスで整えられた目と鼻と口の部品。そして、何より特徴的なのはピンっと細く尖った長耳だった。
「……綺麗だ」
思わず漏れてしまった本音に、フローラは不快だとばかりに蔑みの目を僕に向けてくる。
目が合って正気に戻った僕はその気まずさに耐えきれず視線を下へと移す。
すると当然彼女の身体があるわけで、今度は違った意味で目を奪われることになった。
露出などは一切なく、白いシャツに緑のジャケットを羽織り、丈の短いズボンと黒のストッキングにブーツといった格好をしている。
しかし、服の上からでも分かるぐらい豊満な胸、細いくびれた腰、大きく形の良いお尻から分かる抜群のスタイルが、言いようのないエロさを醸し出していた。
自然と喉をゴクリと鳴らしてしまい、フローラは左手で自身の胸を隠すように抱きしめながら身体を捻る。
「くっ、この欲情しきった目つき……やはり危険だこいつは。今からでも殺すべきだ、ミリア!」
僕の目と鼻のすぐ先にまで剣を近づけるフローラ。声色と顔つきで本気で言っていることが分かったため、慌てて両手を上げて降参のポーズを取る。
「わーーーーー! ち、ちょ、ちょっと待ってっ! いきなりすぎて何が何だか分からないよ。エクス、これってどういうこと!?」
この危機的状況を打開するべく僕はエクスに訊ねた。
「ハッ、どうもこうもお前はそこのガキに助けられたってことだ。瀕死の重傷だったお前を回復魔法で治癒した。そこの女はガキのお守。何でそんなブチ切れているのかと言うと、お前がオークってこともあるが別に理由があってな。その理由がクソ笑えるぞ、ブハハハハ!」
「黙れ貴様っ!!」
フローラは羞恥に顔を赤く染めながら殺意のこもった眼差しでエクスを凝視する。
正直、めちゃくちゃ気になる。けど、それよりも今の僕は言葉が通じない。どうやってコミュニケーションを取ったらいいかと悩み、エクスに通訳してもらおうと口を開こうとしたときだった。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。ミリアもフローラもお兄ちゃんの言葉が分かってるから」
驚きで「えっ?」と言葉が漏れてしまった。僕はいつの間にかすぐ隣に座っていたミリアを凝視する。
フローラにばかり気を取られていたけどこの子もとっても可愛い。将来有望で絶対に美人になると分かるぐらい整った容姿をしている。
緋色の髪に透き通った青空のような瞳、この場所には不釣り合いな白と花柄のワンピースを着て、小さな竜を模した鞄を背負ったどこか神秘的な雰囲気をした子供。
「それってどういう……」
いろんなことが一気に入ってきてもう既に頭がパンク状態なんだけど。
つまり僕と目の前にいるミリアとフローラと会話が可能ってことでOKでいいのかな?
でも、エクスの話によれば僕は魔物の身体に人間の魂が入ったことによるエラーで言語が翻訳されず、このふたりにはブヒブヒとしか聞こえないはずなんだ。
現にアリスたちには僕の言葉は通じなかった。だとしたら何で? 死にかけたことでエラーが直った? さすがにそれはないか。うーん、思い当たる節はないんだけどな。
「フェッフェッフェッ! ようやく目覚めたかい、トン」
すぐ真後ろから聞こえる性格の悪そうな老婆のしゃがれた声に、僕は本能からかその太った身体からは想像がつかないほど俊敏な動きで、その場から飛びのく。
「その声はっ、クソババ――ヒィッ!!」
気づいたときには、頭上から見るからにヤバそうな呪いの槍が僕の身体を避けて無数に降り注ぎ地面に刺さっていた。
掠っただけでも死にそうな感じがビンビンしており、この狼藉を働いた人物はニヤリと笑みを浮かべ佇んでいる。
真っ白な髪、皺だらけの顔、くの字に曲がった腰、全身をボロボロな灰色のローブで隠しており、見た目は完全に森の奥に住んでいそうな山姥。
その正体は、僕が一番最初に出会った異世界人であり生命の女神の代理人だ。
「ん~? 何だいよく聞こえなかったね。もう一度言ってくれるかい? 豚(トン)」
次はないと凄みを全身から発しているロザリー婆さんに、僕は満面の笑みで返事をする。
「ははは、会えて嬉しいって言おうとしたんだよロザリー婆さん」
やれやれと首を左右に振って魔法を消すと、ロザリー婆さんは僕の左腕にある腕輪(エクス)に話しかけた。
「おや元気そうじゃないかい、エクス。トンと仲良くやってるようで何よりだよ」
「ハッ、ついに頭までボケたかババア。誰がこんなクソ雑魚と仲良くするってんだ。寝言は寝てから言え」
腕輪の宝石が一瞬だけピカっと光る。ロザリー婆さんは「口の減らない奴だねお前さんは」とため息をつく。
「それについてはエクスと同意するけど。それより何でここにロザリー婆さんがいるの? おそらく二度と出会うことはないだろうって言ってたじゃん」
そう僕が問いかけるとロザリー婆さんは、
「私もそのつもりだったんだがね。あのうっかり女神の尻拭いでお前さんに会いに来たんだよ、トン。ま、そのおかげで処刑人に連れ去られようとしているのを阻止できたんだ感謝しな」
そうだったんだ。確かにロザリー婆さんならあの処刑人を前にしても大丈夫そうな気がする。どっちが怖いかって言ったらいい勝負だしね。
「でも、それならこっちのふたりはどうしてここに?」
終始不機嫌な様子のフローラが吐き捨てるように言い放つ。
「チッ、私とミリアは薬草を採取中に無理やり連れてこられたのだ。老婆よ、そこのオークが目覚めたのなら私たちを元居た場所へ戻してほしいのだが」
「えーっ! ミリアはもっとお兄ちゃんと一緒にいたい!」
「駄目だ。これ以上オークと一緒にいるのはミリアの教育に悪い。見ろあのオークの私たちを見る目を、舐めまわすようにジロジロと凝視しているぞ」
「フローラ、お兄ちゃんはそんな人じゃないよ!」
うっ、純真な子供の声が僕の心にグサッと刺さる。
ごめんなさい。フローラの顔や胸をバレないようにチラチラ見てました。
「ちょっと待ってな。こっちの話が済んでからだよ。トン、さっきお前さんはどうして言葉が通じてるんだろうって思ってただろう?」
「う、うん。そうだけど?」
「私がお前さんに会いに来たのはそれが理由だよ。言語や翻訳の分野にエラーを起きていたお前さんは他の人間と会話が出来なかった。私はお前さんとの約束を履行するため処刑人からお前さんの身柄を取り戻したのはエラーを直す前に死なれちゃ困るからさ。だが、瀕死のお前さんを私が治療するわけにはいかない。さすがにそれは干渉しすぎだ。だから、そこのふたりを転移魔法で呼び寄せたんだよ」
「へぇ~、そうなんだ。それは、その……感謝というか。ロザリー婆さんもふたりも僕を助けてくれてありがとう」
僕はお辞儀をしてお礼を言う。
今こうして生きていられるのもロザリー婆さん、ミリア、フローラのおかげだ。
いつか絶対に恩を返す。そう心に誓って僕は頭を上げる。
「……事情はそこの老婆と魔法道具(マジックアイテム)に聞いた。先ほどはオークと呼んですまなかった。どうか許してほしい」
さっきまでとは違い真剣な表情を浮かべ謝罪をするフローラに、僕は慌てて手を振る。
「そんなっ、謝らなくていいよ! 元をいえば僕がオークの身体をしているのがいけないんだし、それに……」
「ん?」
胸やお尻を見ていたのは事実だから、と言おうとして僕は口をつぐむ。
せっかく関係が緩和しそうなのに余計なことは言わない方がいいよね。
だけど、背中の辺りまで伸びた綺麗な金髪とピコピコと動いている長耳がすごく綺麗で可愛くて、思わず変なことを呟いてしまいそうだ。
「いや、そういえば自己紹介がまだだったなと思って。僕はトン。そこのロザリー婆さんに名付けてもらったんだ」
言葉の最後に“不本意だけど”と声に出さず僕は心の中で呟く。
チラッとロザリー婆さんの方を見れば、得意げな顔で頷いていた。
どうしてそんな顔をしてられるのか全く理解できなかったが、ここで何か言えば今度こそ死が待っているため、内なる僕は血涙を流してぐっと我慢をする。
「私はミリア! よろしくねお兄ちゃんっ!!」
「フローラだ。悪いが私とミリアには極力近づかないでもらおうか。あのような醜態は二度と晒したくない」
僕に近づこうとするミリアを制止し、フローラはどこか警戒して一定の距離を保っている。
何かしたつもりはないから首を傾げて疑問に思っていると、エクスが爆笑しつつ説明をしてくれた。
「ブハハハハッ! その女はお前の血を飲んだんだよ! どうなったかは想像がつくだろ、トン」
えっ? と困惑顔でフローラの方を振り向いたら、殺意に満ち満ちた表情で睨み返された。厳密に言うと僕ではなくエクスになんだろうけどめちゃくちゃ怖い。
「それってつまり……そういうことだよね?」
魅了と発情状態になったフローラ。
脳裏に思い浮かぶのは同じく僕の血を飲んだアリスの艶姿。
熱にうなされているときのようにぽーっとして頬を赤く染め、身体を完全にこっちに預け無防備な状態。目にハートマークが浮かび、漏れる吐息には甲高い喘ぎ声も混じっていた。
「口に出せば殺す。それ以上考えるのもやめろ死にたくなければな」
フローラのギロリとこちらを見る眼差しには凍てつくような冷たさがあった。
どうやらよっぽどの黒歴史になったらしい。
分かってる。分かってるけどかなり傷つく。
「うん、なんかごめん。僕のオークボディのせいで。気を付けるよ」
「あ、ああ、そうしてくれ」
静かな気まずい時間が流れる。
僕は肩を落として元気がなく、フローラは戸惑いと居心地の悪さに腕を組んで立ち尽くしている。
少ししてロザリー婆さんがフンと鼻で笑って口を開いた。
「さて、私はもう行くよ。転移魔法の繋げ先は元居た場所でいいかい?」
ロザリー婆さんが問いかけフローラもそれでいいと頷く。
「ああ、構わない」
「えー、ミリアはまだここに居たいよ。お兄ちゃんと遊ぶ!」
口を尖らせて不満を言うミリアに困った顔をするフローラ。
たぶん何故こんなにも僕と一緒に居たいのか理解できないんだと思う。
それについては完全に同意で、僕も何でミリアにこんなにも好かれているのか分からないんだよね。地球に居た頃も不思議と子供には好かれていた記憶はあるから、もしかしたら妙なフェロモンでも出てるのかも。
「ババアはどうでもいいが、女とガキはちょっと待て。少し用がある」
怪訝そうな顔を浮かべる僕とフローラ。ロザリー婆さんはどこか楽しそうな顔つきでエクスを見ている。
「何だ?」
「少しの間だけでいい。トンに戦いの手ほどきをしてやってくれ」
えっ!? 突然の提案に僕は驚愕の顔で左腕を見下ろす。
お前そんないきなりどうした? 何か変なものでも食べたのかと疑うもののこいつに口は無かった。
さすがに無理やりここに連れて来られて、見た目オークの奴を鍛えろと言われ“はい”と答える人はいないだろ。
「断る。なぜ私がそんなことをしなければならない」
「ま、そうだろうな。だが、今ここでお前の手ほどきを受けなければトンはいずれ死ぬ。ガキもそれは嫌だろう?」
「うん! ミリアもお兄ちゃんが死ぬところを見たくない。だからフローラお願いお兄ちゃんを助けて、ね?」
エクスはともかくミリアにも頼まれたフローラは、苦虫を嚙み潰したかのような顔でチッと短く舌打ちをする。
何とかして断る理由を探しロザリー婆さんの方を見るも、
「ババアならこの場にいなくても呼びかければ転移魔法を発動させ女とガキを元居たところに戻すことは可能なはずだ」
「そうなのか、老婆よ」
「ああ、可能さ。本来なら断るところだが、うっかり女神のこともあるしサービスの延長ってことでやってやろうじゃないか」
逃げ道を塞がれたフローラは、腕を組み眉間に皺を寄せて僕を見つめる。
「その……僕からもお願いしたいです。ついさっき自分の力不足を実感したばかりで。死にたくないし元の姿にも戻りたい」
観念したのかフローラは深いため息を吐いた後、鞘から剣を抜いて僕に向ける。
「いいだろう。だが、加減はせんぞ。そんな義理もないしな。手ほどきをしている最中に死んでも文句は言うな」
ブ、ブヒィ。ちょっといやかなり後悔してきたかも。
優しく手取り足取り教えてくれる家庭教師のような展開を少し想像していただけに、すごく残念だ。
「ハッ、決まりだな」
話が纏まったところでロザリー婆さんが手を一振りして魔法を発動させると、何もない空中に白い渦のようなものを現れた。
「フェッフェッフェッ、元居た場所に帰りたいときはコレに魔力を込めて空に向かって呼びかけな。そうしたら転移魔法を発動させてやろう」
懐から取り出した石のようなものをフローラに投げ、ロザリー婆さんは白い渦をくぐって消えてしまった。
「あの老婆がおそらくあの――」
小声すぎてフローラが最後に何を言ったのか聞こえなかった。
ジロジロ見過ぎていたせいで気づかれてしまいギロリと睨まれてしまう。
そんなに怒らなくてもいいじゃないかと思ったが、寝てる間の出来事のせいでフローラの僕に対する評価が最悪なことに気づき、思わず天を仰いだ。
僕、大丈夫かな? いくら何でも死なないように手加減ぐらいはしてくれるよね? さっきの言葉は冗談だよね? と祈りを込めてフローラをチラリと見る。
「お、お手柔らかにお願いします」
「フン、何を甘えたことを言っている! この私が教えるからには徹底的に基礎を叩きこんでやるから覚悟しろ!!」
あ、駄目だこれ。フローラは教えることに関して言えばたぶん鬼軍曹タイプだと思う。
だって、全身から魔力なのか気なのかオーラのようなものが迸ってるもん。
絶対に魅了と発情状態にさせられたことを根に持っているし、たぶん僕死んだな。
「ブハハハハハ! 良かったじゃねぇか、トン」
「お兄ちゃん、頑張って!」
エクスの笑い声とミリアの応援を皮切りに、フローラによる戦闘の手ほどきという名の調教が始まった。
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