忘却001
私の記憶がなくなった原因は事故らしい。確かに、一番納得いく記憶の始まりは病院の景色だった。「ひま」以外の記憶は残っているみたいだから、家で生活するにも学校で生活するにもまったく不便がないのだ。
私が小さいころは友達よりも親と遊ぶことの方が多かった。親との思い出の方を友達とのより多く覚えている。小学校や中学校の同級生の名前は顔写真と合わせて全部言えるし、卒業アルバムに載っている出来事くらいは覚えていた。どうせ公立落ちのせいで人間関係は高校入学と同時にガラッと変わったし、小学校中学校どちらの時代で「ひま」の他に記憶の欠けがあっても困らないだろう。むしろ事故の後から暗記科目の成績が上がったし、何も悪いことはなかった。
「いいこともないけど、ちょっとだけ不幸な方が楽しい気がする」
それでも、逆立ちで冷水半身浴をしているような奇妙な息苦しさがあるのはなぜだろうか。やはり「ひま」の記憶がないからだろうか。
「うぇ、お腹きもい……」
顔より高いパフェにポテト一皿は多かった。次からはもう少し節制しなければならないかもしれない。どうせしないけれど。あと寒い。ポテトでは温まらなかった。冬にアイスを食べるときはもっと暖かいところで食べよう。どうせしないけど。
役に立たない反省は時間の無駄だろう。
反省するくせに意図的に生かさないのも人間なのだろうか。
「ひま。ねぇ、ひま。何して遊ぼうか」
「そうだね、今日は川をずーっと下って行ってみる? 論理的には海に出られるよね」
「そうだね、じゃあ、そうしよっか」
「今日は何かいいことあった?」
「いいことはなかったよ。悪いことはあったの」
「なぁに?」
「授業中に当てられて頑張って答えたのに、それが変な答えだったから笑われちゃった」
「それは辛かったね。大丈夫、次笑われることがないように一緒に勉強しようね」
ひまはいつだって私の側にいてくれる。ひまはいつだって私の味方でいてくれる。パフェとポテトで得た脂肪を燃やしに行こうか。
川辺を歩くこと数十分、大きな病院を過ぎた。目の前に、私を待っていたように、病院でよく見る男がいた。
「ちょっとだけ不幸な方がいいってのは、ひまがいてくれるからかな?」
「…………」
「『ひま』が実在していないことはもう君だってとっくにわかっているだろ? 事故を原因に忘れようとしたのに、思い出したら意味がないじゃないか」
「…………」
「ところで、経過観察で君はかなりの頻度で
「――それほんと?」
「……今は無理だよ。あと、千年か、二千年か、人類が生き続けてさえいれば技術がそれを可能にする。百年やそこらではちと厳しいね。けど、」
科学は夢を叶えるんだ。
ぼさぼさの頭で、眼鏡をかけた、白衣の男はそう言った。夢を語るには熱意も希望も力強さもなにもない、腑抜けた声だったけれど。
「運命かもしれない。事故で運ばれてきた少女が僕の夢を叶えてくれるかもしれない存在なんて。僕は残念ながらあと五十年くらいが生きる限界だろうけど、君は何年でも何十年でも何百年でも――それこそ何千年だって生きられるんだ。さあ、僕と願いを叶えよう」
私はうなずいた。
「ありがとう、すず」
私を呼び捨てにする、私の主治医であり医者である男。なぜかわからないけれど、科学者と医者って見た目同じだな、なんてことを思ったりした。
「私とはお別れしちゃうの?」
「おい、ひま。お前が出てくること自体が予想外のことなんだよ。お別れじゃなくて、生まれ直しをするんだ」
「ふふふ。私だけの体がもらえるの? そうだといいなぁ」
「あんまり僕の前以外でその顔をするなよ。精神科送りになるからな」
はぁい、と返事をするひま。よかった、男とひまが仲良くしてくれそうで。
「にしても、なんで急にひまが出てきたんだろうな」
もしこの「ひまの記憶」がクリスマスプレゼントだとしたら、運命を感じざるをえないのだけれど。
今日は、十二月二十四日だから。
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