第7話魔物と戦う魔法使い
茂みから現れたクマ型の魔物に驚いたせいなのか、馬車に繋がれたままの馬は無理に立ち上がろうとした。しかし、すぐにバランスを崩してしまう。音をたてて、馬は地面に倒れこんでしまった。
荷台に乗っていたファニは、その衝撃で空中に放り出されそうになる。荷台にしがみついたことで事なきを得たが、クマ型の魔物はすぐそこまで迫っていた。
地上にいるネジリヤは腰を抜かしてしまったらしく、その場で座りこんでしまっている。このままでは、クマの魔物に食べられるのを待つだけだ。
「風の精霊。その力を見せろ」
ファニは風の魔法を発生させて、かまいたちを発生させる。それをクマ型の魔物に向けた。かまいたち程度の切れ味では、クマ型の魔物の剛毛と分厚い皮膚で風の刃が防がれてしまう。
だが、それでもよかった。
クマ型の魔物の意識が自分が向かうようにすれば、それでファニは良かったのだ。
案の定、魔物の意識はファニの方を向いた。
獲物として襲いやすいネジリヤには、興味を失ったようである。
クマの魔物と対峙したファニは、息を飲む。魔物は、恐ろしい姿をしていた。目はルビーのように赤く、茶色の体毛のなかで歯だけが白く不気味に浮き上がっている。
それでも、恐怖することはできない。恐怖で立ちすくんだり焦って判断を誤れば、自分だけではなくネジリヤまで危険にさらしてしまう。
そしてなにより、この状況は絶好の無演唱の練習になる。
ファニは、魔物に向かって掌を向ける。
呪文は唱えず、頭のなかで魔法を思い浮かべる。いつもの通りに、掌に魔力が集まっていることが分かる。しかし、それだけだ。
魔法は、発動しなかった。
ファニは、舌打ちをした。こんな時でさえ、魔法は発動してくれない。自分の無才さに嫌気がさすが、落ち込んではいられなかった。
森の中で長く暮らすファニでも、クマ型の魔物には出会ったことがない。大型の魔物は強力だが、同時に食物連鎖の頂点に君臨するため母数が少ないのだ。クマ型の魔物の戦闘能力は未知数だ。油断はできない。
ファニは、馬車から飛び降りる。そして、クマ型の魔物に背を向ける。熊と対面したときには、絶対に背を向けてはならないと言われる。熊が追いかけてきてしまうからだ。クマ型の魔物も同じ習性をもっているのではないか、とファニは考えた。
ファニの予想は当たった。
クマの魔物は、ファニを追いかける。魔物の注意はファニに向けられており、馬車を襲う様子はない。それを確信して、ファニはクマ型の魔物に向き合った。もはや無演唱には、こだわっていられない。呪文を演唱して、魔法を使うつもりであった。
だが、クマの魔物はファニの予想よりもずっと素早かった。
ファニが振り返ったとき、すでにクマ型の魔物は彼の側にいた。クマの魔物の生臭い息を嗅ぎ、ファニはぞっとした。クマの魔物を侮っていたのだ。もっと、警戒すべきだった。最初に呪文を演唱して、魔法を使うべきだったのだ。
クマ型の魔物は、ファニの右手に噛みつく。
そして、その腕を噛切ろうとした。ファニの体を持ち上げて、ぶんぶんと振り回す。噛みつかれた腕の痛みは、ラミスの水の縄が絡みつかれたときの比ではない。だが、奴隷の首輪ほどではない。
ファニは、あの時の苦しみと屈辱を思い出す。あの時の痛みに比べれば、クマの魔物に噛まれたことなど大したことがないように思われた。
クマの魔物は、ファニを振り回すのに飽きたらしい。突如として口を離し、ファニは遠心力がなすがままに地面に叩きつけられた。腕のずきずきと痛みや地面に叩きつけられた痛みに襲われながらも、ファニは無理をして立ち上がる。
こんなところで負けるものか、と思った。
ここで負ければ、ファニを追放した仲間たちに復讐することなど出来ない。だから、痛みに耐えて立ち上がらなければならなかった。
ファニは、魔物に向かって掌を伸ばす。
脳裏には、魔法を使うための理論が自然に広がっていた。魔力が、体中を循環するのを感じる。だが、それが掌にはいかない。これでは、魔法が発動しない。
何故、とはファニは思わなかった。それを気にするほどの余裕が、なかったのだ。無理にでも魔法を発動させなければならない、と考えていたのだ。
「炎の精霊……」
ファニの言葉は、途中で消えた。
ネジリヤの姿が、見えたのだ。
おびえていたはずの彼は、魔物に向かって石を投げた。石は、クマの魔物の頭に命中する。魔物の怒りは、ネジリヤに向いた。大きな口を開き、牙を見せつけながら咆哮を上げる。ネジリヤの体は、恐怖で固まった。
ネジリヤは、クマの魔物を恐れていた。本当ならば、逃げ出したくてたまらなかったであろう。それでも、彼は立ち向かうことを選択した。
ファニを助けようとしたのだ。
幼い頃から知っている弟のようなファニを守ろうとして、ネジリヤは恐怖と戦っていたのである。ファニがネジリヤを守るために行動したように、ネジリヤもそのように行動していたのである。
「にげ……逃げてください!」
ネジリヤは、渾身の力で叫んだ。
すべては、ファニを逃がすための行動だった。クマの魔物は、ネジリヤに向かって走り出していた。ファニは、クマの魔物を止めようとする。だが、間に合うはずもない。魔法の呪文を演唱したとしても、発動までは遅すぎる。
このままでは、ネジリヤを失ってしまう。
クマの魔物に食われて、彼が死んでしまう。
ファニの頭のなかで、魔法の理論が浮かび上がる。魔力が肉体を循環するが、先ほどと同じように掌には伝わらない。
ファニは、はっとした。
今までは、掌から魔法を出そうとしていた。なぜならば、最初にそう教わるからだ。魔法使いは、掌から魔法を生み出す。それが、常識でもあった。
だが、もしも魔法を虚空に出現させることができるのならば……掌は魔法の照準合わせにしか使わないことになる。ならば、体内の魔法はどうやって放出するというのか。
ファニは、全身に回っている魔力を強く意識した。それと同時に、魔力を抑制できないほどたぎらせる。奴隷の首輪を壊したときのような感覚だ。
体を循環する魔力が、体外へと溢れ出ていく。体から溢れた魔法が、頭で考えていた魔法を形作った。そして、掌を突き出し魔法の進路方向を決める。
――力を見せろ!!
ファニは、祈りながら魔法を放った。
呪文の演唱はしなかった。普段よりも素早く発動した魔法は、雷の魔法であった。魔法で作られた魔法は、クマ型の魔物の胸を命中する。クマの魔物の堅い毛皮や皮膚までも雷は貫通し、ついには心臓までを届いた。
クマの魔物は、苦しむ間もなく倒れる。その巨体が倒れたことによって、地響きがした。クマの魔物が倒れた場所は、ネジリヤまであと一歩と言うところだった。ネジリヤは、呆然としていた。
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