第8話碧玉の魔法使い
「た……倒したんですか」
眼前にあるクマの魔物の死体を見ながら、ネジリヤは呟く。
自分の目の前で起きたことが、彼は信じられなかった。幼い頃から知っているファニが、クマの魔物を倒してしまったなんて。
ファニは普通の魔法使いより強いのだとラミスから聞かされていたが、まさか凶暴なクマの魔物を倒してしまう程とは思わなかったのだ。
ネジリヤはクマの魔物の死体をつついてみるが、当然ながら動く様子はない。それでも、彼の心臓はまだ早鐘を打っている。なんとか落ち着こうとするが、しばらくは無理そうだ。死にかけたのだから当然である。
「たぶん……」
ファニは、自分の両手を見つめた。魔法は発言したが、掌からは生まれなかった。魔法は、虚空から生まれたのだ。初めてのことだった。
未だに信じられない気持ちで、ファニはふらふらしながらも歩いた。クマの魔物に近づき、その腹を思いっきり蹴った。その大胆な行動に、ネジリヤは驚く。まさか蹴り上げるとは思わなかったのだろう。
「俺が……やったんだ。無演唱で倒したんだ」
もっと嬉しさがこみあげてくると思ったのに、ファニが感じたのは安心だった。これで、ネジリヤも自分もクマの魔物に殺されることはなくなった。
「……ファニ、腕!」
ネジリヤは、ファニの腕から血が流れているのを見つけた。クマの魔物に噛み付かれたのであろう。ファニの袖をまくって、ネジリヤは急いで傷を確認した。ずたずたに切り裂かれた傷口は、獣の牙で噛み付かれた特徴だった。布で多少は防げたが、獣の唾液が傷口にも付着していた。
「これは酷いですね。傷口の周りを洗わないと……。唾液で感染を起こすかもしれません」
ネジリヤの心配を余所に、ファニはようやく喜びを覚えていた。難しく考えていた無演唱が、こんな単純な手段であるとは思わなかったのだ。
無演唱は魔力を体外に溢れさせて、それを制御して使う。
この方法が正しければ、魔力量によっては無演唱ができない人間もいるであろう。魔法使いであっても保有する魔力量については、個人差がかなり激しい。
ファニとラミスは生まれながらにして膨大な魔力を有しており、体外に魔力を放出しても肉体的な負担が少ない。だが、魔力量が少ない魔法使いが無演唱をしようとすれば、体内に魔力が枯渇して倒れてしまうだろう。
「……」
ファニは、実験的に体内の魔力を溢れさせる。魔力が全身をめぐり、体外へと溢れ出す。そして、体外に出た魔力の方向を掌で示してやった。
掌を向けるのは、ファニ自身の傷である。酷かった傷はm時間を逆再生しているかのように瞬く間に治っていった。
「白魔法も無演唱でできるのか……」
綺麗に治った傷を見ながら、ファニは感心する。本来ならば、魔法使いは治癒の魔法を使うことができない。治癒の魔法は教会が技術を独占しており、そこに所属する白魔法使いしか教わることができないからだ。
だが、ファニは仲間だった白魔法使いから治癒魔法を習ったことがある。ファニの治癒の魔法の教師は、ニーニャという女性だった。幼いことから教会で育てられた魔法使いで、才能を開花させてからは魔王を倒すために修行を続けていたと言っていた。
本来ならば、白魔法使い以外の人間が治癒の魔法を習うのは御法度である。これが明らかになれば、ニーニャもファニもただではすまないだろう。もちろん、ファニは他言する気はなかった。
「傷の回復……できたんですね」
綺麗にふさがったファニの傷を見て、ネジリヤはほっとしていた。ファニは腕の具合を確認するために、腕の投げ伸ばし運動をしていた。特に問題はないようであった。
「旅の時に、ちょっとな。本職には、敵わないから過信はできないけど」
白魔法使いは治療に特化しており、その代わりにファニのような普通の魔法は習うことがない。しかし、長年研鑽を積んだ治癒の魔法は目を見張るものがあり、
彼らは、時に千切れた部位の治療まで行う。治癒の対象は、外傷だけではない。生まれつきの障害や病の治療ができる白魔法使いもおり、教会の信者獲得の役割を担っている存在でもあるのだ。
「ネジリヤ。馬は、大丈夫か?」
ファニに言われて、ネジリヤはようやく馬のことを思い出した。
二人で馬車がある方向まで戻り、馬車に繋がれたままの馬を確認する。地面に座り込んでしまった馬は、ファニに警戒するような様子を見せた。それを飼い主のネジリヤが必死になだめる。
「足を骨折してる……」
大人しくなった馬を立ち上がらせたが、前足を地面につけようとはしなかった。馬に詳しくないファニですら、足に不調があると分かる光景だ。
ネジリヤは、大きなため息をついた。
足を骨折した馬は処分するしかないが、それは荷を捨てることにもなる。足を怪我した馬では荷を引かせることはできないし、骨折を治療するのも難しいのだ。
馬は臆病な生き物で、ストレスを感じやすい。そのため治療を施そうとしても、それがストレスになって死ぬ可能性がある。さそもそも骨折した馬を見てくれるような獣医はおらず、足を怪我した馬はその場で殺すしかないのだ。
「馬の骨折は見たことないけど……治療をやってみるか?」
ファニは、恐る恐る提案した。
骨折を治した経験は、ファニにはない。人体の専門知識がないファニでは骨がどのように折れたのか分からず、治癒をさせてもおかしな方向に治す可能性があったからだ。だから、今までは治すのが難しい患者はニーニャが担当し、ファニは簡単な外傷患者だけを相手にしてきた。
だが、もうニーニャはいないのだ。
ファニは、彼女たちにいらないと言われてしまったのだ。
「骨折は治したことはないから、練習をしたいんだ」
放っておいたら、馬は処分されるだけである。治療の練習台としては、うってつけだった。それに相手が動物だったら、失敗したときの罪悪感も少なくてすむ。
ファニは、ニーニャが患者相手に行っていた手順を思い出す。患部を触って確かめようとするとしたが、馬があばれそうになった。咄嗟にファニは手を引いて、ネジリヤが馬をなだめる。馬が落ち着いたのを見計らってから、ファニは足に触れた。
知識がないせいもあって、触れただけでは骨がどのように折れてしまったのかは分からない。ファニは、少々手荒な方法を思い出す。
「ネジリヤ、骨折した足を出来るだけ伸ばしていてくれ」
その言葉に、ネジリヤは目を点にしていた。骨折した足を引っ張れば、痛むに決まっている。説明して理解してくれる人間相手ならばともかく、相手は馬である。大暴れするに違いない。馬車を引くことを生業としている馬の力は強く、無事な足で蹴飛ばされれば人間が怪我をしてしまう。
「ここで、荷を失うわけにはいけませんね」
ネジリヤは、意を決した。
彼は、馬を再び立たせる。そして、いつでも骨折した足を伸ばせるように腰を落とした。
「……行きますよ」
ネジリヤは息を飲んで、馬の足に手を当てる。そして、力の限り足を伸ばした。馬のいななきと共に、ファニは治療を開始する。
予想通り、馬は暴れだした。自分に害が及ぶ前に、ネジリヤは馬から離れようとした。しかし、馬の怒りはネジリヤに向いてしまった。馬の足が、ネジリヤを襲おうとする。
ファニは、水の魔法を発動させる。
呪文を演唱しない魔法は、素早くネジリヤと馬の間に障壁を築いた。ネジリヤを蹴ろうとした馬の足は、水の壁によって阻まれたのだ。
「……たっ……たすかりました」
ネジリヤの体から、力が抜けた。
ファニのことは信頼していたが、今回は失敗してもおかしくはなかった。それでも馬の怪我を治すことをネジリヤが決断したのは、大量の荷を運ぶためである。大きな取引をしたこともあって、荷台にはたくさんの貴重な商品が詰め込まれていた。失うのは惜しかったのだ。
「馬の怪我は、どうなんだ。治せたか?」
ファニとネジリヤは、そろって馬の様子を見守った。今は不機嫌そうではあったが、足はしっかりと地面についている。治っている。
「治ってる……。やった!」
ファニは飛び上がり、ネジリヤに抱き着いた。大柄なネジリヤは、ファニをしっかりと抱きとめる。仮面をかぶっている故に、ファニの表情は分からない。けれども、その声から喜びが知れた。
「無演唱もできたし、骨折も治せた。ザマーミロ、リリースども。俺は、こんなことも出来るようになったぞ!」
ファニが、その場で感情のままに飛び跳ねた。
まるで子供のように喜ぶ様子が、ネジリヤには微笑ましい。今のファニのはしゃぎようは、初めて魔法が使えるようになった頃を思い出させる。幼い頃のファニも「魔法が使えるようになったんだ!」と喜びながら、久々に対面したネジリヤに報告してきたものである。
「でも……今回の方法は、さすがに人間には使えないかもな」
ひとしきり喜んだファニは、難しい顔をして考える。乱暴な治療法は動物だからこそ気軽にできたが、人間相手に使うのは気が進まない。安全で確実な治癒の魔法を使えるようになるには、人体について勉強をするしかないようだ。
「ファニ、ありがとうございます。熊の魔物を倒してくれたことも馬の治療してくれたことも」
ネジリヤは、丁寧に頭を下げた。
それは子供に対してのものではなく、大人同士の関係のための礼であった。長い付き合いのネジリヤに丁寧な礼をとられて、ファニはそわそわしていた。大人のための丁寧な礼は、なれないために落ち着かないのだ。
「こっちも無演唱を会得できたし、そんな礼はいらないよ。白魔法についても改善点が分かったし」
クマ型の魔物との遭遇は、事故のようなものだ。倒したからといって、礼を言われるようなことではないとファニは思った。
それに、ファニだってネジリヤに守られたのだ。
ネジリヤは、クマ型の魔物に向かって石を投げてくれた。自分では戦う術を持っていないのに、ファニを助けようとしてくれたのだ。
「でも、ファニがいなければ僕は死んでいました……。本当に、ありがとうございます」
ネジリヤは、改めて頭を下げた。
礼を言われることが恥ずかしいファニは、ネジリヤから顔をそむける。そうやると仮面からはみ出た耳が見えて、そこが赤く染まっている様子がよく分かった。
「なにか御礼がしたいんですけど、今は何も持っていなくて……。あっ、そうだ」
ネジリヤは、ポケットから箱を取り出す。箱から出てきたのは、碧玉で出来た髪飾りだった。深みのある緑色は、物の値段に疎いファニでも高級品だと分かるものだった。
「よかったら、もらってください。売ってもいいし、身につけてもいい。ファニの赤い髪に良く似合いますよ」
ネジリヤは、ファニの掌に髪飾りを落とす。
今度は、ファニのほうが慌てた。
「こんな高い物は、もらえないって!」
装身具をもらうなんて、初めてのことだった。使い方もよく分からないし、売るには忍びない。髪飾りを持て余すファニの様子に、ネジリヤは微笑む。
「ちょっと貸してください」
ネジリヤは、ファニから髪飾りを受け取る。ネジリヤの掌で、碧玉の髪飾りは上品に輝いていた。
やはり、これは自分にふさわしくない。
ファニは、そう思った。
こんなものを身に着ける半人前の魔法使いなどいないだろう。自分には身分不相応の品だ、ファニはそう考えたのだ。
それなのに、ネジリヤはファニの頭に手を伸ばす。その手は、優しく髪を手櫛で梳かしてくれる。それが、心地が良い。それと同時に、昔のことを思い出して悲しくなった。
旅をしている間は、リリースたちは優しかった。それこそネジリヤの手のように、慈しみをかけてくれた。リリースたちのパーティの中で、ファニが一番年下だったせいかもしれない。
仲間たちは、惜しみなくファニに知識や技術を教えてくれた。だというのに、どうして自分を追放なんてしたのだろうか。
泣きたくなった。
けれども、泣けない。
そんなファニの感情を慰めるように、ネジリヤはファニの髪を結いあげて整える。使った道具は、碧玉の髪飾りだ。
「ほら、似合いますよ」
ネジリヤはそう言うが、ファニは半信半疑だ。仮面をかぶっている人間に似あうも似合わないもないだろう、と思う。
「仕方ない……。これはもらうけど、親父さんに怒られても知らないからな」
いつもは伸ばしっぱなしの髪が、一つにまとめられるというのは初めて体験だった。動いても髪が邪魔にはならない。これは、少し良いかもしれない。ファニは、髪飾りの機能性が気に入ってしまった。
「では、また。近いうちに会える事を楽しみにしていますよ」
ネジリヤは、馬車に乗り込む。そして、彼は帰路についたのだ。ファニは、ネジリヤの後姿をいつまでも見つめていた。馬の調子が心配だったのだ。ファニが見ている間は、馬の足は問題なく動き続いていた。
これで、ネジリヤは無事に帰ることができるだろう。
良かった。これで、一安心である。
ファニは「あっ」と声を上げた。無演唱を会得したファニは、師匠であるラミスを倒せば旅に出る予定であった。筆頭魔法使いを目指すには、王都へと行かなければならないからだ。
ネジリヤとは、もう合えないかもしれない。
もっと別れを惜しめばよかった。
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