タイトル未定
もなこ
1
まぶたの向こうから一筋、眩しい光が見えた。その光は、わたしの意識を強制的に浮上させた。蝉の鳴き声が、それを助長する。
「ん……」
扇風機の風の音が耳をかすめ、太陽に染まった白いカーテンが朝が来たと告げる。また朝が来てしまった。眩しい光は、スマホに太陽の光が反射したもののようだ。今にも閉じてしまいそうな重いまぶたを上げて時計を見ると、7時半を指している。急げばまだ1限に間に合う時間だ。
「…………」
考えることは、毎朝同じだ。わたしははだけた布団を頭のてっぺんまで被り、光が目に入らないように窓とは反対の壁を向き、今起きなかったことにして再び目を瞑った。
次に目を覚ますと、もう日光はスマホに反射していなかった。10時20分。今度こそ遅刻だ。のそのそと起き上がって、機内モードにしていたスマホを見る。機内モードをオフにして電話アプリを開くと、学校からの着信が数件。家族や友達からの通知は一切なし。学校に休みの連絡だけ入れて、後の通知はすべて無視。いつも通りだ。
今年度に入って月間カレンダーは6枚目。夏休みが明けたばかりの部屋はまだ暑い。とはいえ、学校が始まってからは2週間ほどが経っている。それでもすっかり終わらせた夏休みの宿題はまだ勉強机の上に置いてあるし、通学鞄はしばらく使った形跡がない。
「はぁ」
誰もいない部屋で大げさにため息をつき、ぼさぼさの長い髪を適当にひとつにまとめた。薄いカーペットの上に寝転んでクッションに顔をうずめると、それだけで起きた気になる。顔も洗っていない、朝食も取っていない、何もしていないのに起きている。惰性で生きるってこういうことかと思う。今日もまたほとんど何もせず、1日が終わっていくのか。
スマホを構っているうちに昼になり、夕方になり、襲ってきた眠気に抗いもせず落ちた。
わたしの地元である島根を離れてから約1年半。両親が離婚し、高校入学のタイミングに合わせて広島の母の実家で2人で暮らすことになった。祖父母はすでに亡くなっており、この家はしばらく引き取り手はいなかったそうだ。母は久しぶりの地元で暮らせることに喜んでいた。わたしは友達と離れたくなかったが、そんな理由で母の笑顔の邪魔をすることはとてもできなかった。こんなに開放感に溢れて幸せそうな母の笑顔は、わたしが幼い頃に見た以来だったから。
「島根も素敵じゃったけど、やっぱり広島がええなぁ」
駅を出てすぐ、何年島根に住んでも抜けなかった広島弁で、母は言った。
「わたしは生まれてからずっと島根に住んじょったけん、広島のどこがいいかそんなに分からん」
負けじと出雲弁で話すが、周りから無数に聞こえる広島弁のせいでわたしの出雲弁がやけに浮いて聞こえた。
「そんなこと言いんさんな。ここに住んどったらそのうち好きになってくるけえ」
母は本当に幸せそうだった。だから、これで良かったのだと思う。だからわたしは笑って、そうだね、とだけ返した。その時、わたしは母の目を見ることができなかった。
小学校で仲が良かった友達はそのまま持ち上がりで同じ中学校に入った。高校に入ってバラバラになっても時折集まって、中学までのように遊ぶものだと思っていた。それぞれに新しい友達ができても、この輪の中にはわたしもいるものだと思っていた。だが、高校に入るとその輪にわたしはいなかった。広島に引っ越したから。中学までのメンバーで集まっているみんなの写真を見るたび、そこに自分がいないことが何より寂しかった。
離れた途端、みんなからの連絡は減った。島根にいた頃は用もなく連絡をしてその流れで会ったり、悩みの相談をしたりしていた。みんなとの関わりが徐々に薄れていっているようで、夜になると耐えようのない焦燥感と漠然とした不安に駆られるようになった。
広島の生活は、島根とまるで違った。慣れ親しんだスーパーは無いし、島根では見たことのない店が並んでいる。島根の家みたいにすぐそこに山も無い。川も無い。広島は都会だった。それがなんだか、心に穴が開いたみたいだった。
高校の入学式の日、アイスブレイクタイムでミニゲームをした時に話しかけてくれた咲ちゃんと仲良くなった。それから中学校でも咲ちゃんと仲の良かった
「里椛、
「あ、待ってよ。咲!」
目の前で2人が笑い合っている。2人は立ち止まっているわたしに気づかず、並んで歩いて行く。小さくなっていくふたつの背中を眺めながら、わたしの足はセメントで固められていくように徐々に動かなくなっていった。視界が暗くなる。
「あれ? 新菜ちゃん、どうしたの?」
「はやくおいでよ」
途中で振り返り、わたしを呼ぶ2人。その声が耳の中で何度も反響する。本当の距離は分かっているでしょう、ここに近づいてなんて来ないで。そんなふうに悟らせながら、何度も、何度も……。
「……っ」
視界が完全に真っ暗になり、わたしはぎゅっと目を瞑った。
目を開けると、真夜中だった。食卓には書き置きがあった。今日も帰っていないのか。母は仕事人間で、わたしと顔を合わせることはあまりない。今日の朝早起きすれば会えたのに、もったいないことをしたと思った。それにしても、嫌な夢だった。忘れたい夢ほど鮮明に覚えているのはなんでなんだろう。考えても仕方のないことを考えながら、走り書きされた文字を見る。
“一週間くらい帰れんけえ、このお金で足りん食材買って作ってな。きちんと自炊するんよ。お金もったいないけえ”
「ていうか、これ今日の朝見るはずだったやつだがん」
寂しくてぽつっと呟いてみると、自分の小さい声がやけに浮いて聞こえた。寂しさが3割増しになったような気がする。置き手紙の下に置かれた3000円を手に取ると、あまりの軽さに涙がにじんだ。
ああ、ここから逃げたい。どこかに行きたい。
寂しい。苦しい。
1人になりたくない。
誰かに会いたい。誰か……!
誰もいない。わたしを孤独にしないでくれる人が。このまま死ぬんじゃないか。本気でそう思った。いや、死んだ方がマシか。
ぽたぽたと雫が食卓を濡らす。お金も、母の字も濡らす。字が滲んでも雫は止まない。蚊の鳴くように細くか弱い泣き声が、寂しく響いた。母の綺麗な字が、ビリッという音と共に粉々に千切れていく。どれだけ細かく千切ってもわたしの手は止まらない。心がはち切れそうだ。いっそ体ごとはち切れて、そのまま死んでしまいたいとすら思った。
そうだ。どこかへ消えてしまおう。母にも、友達にも、誰にも言わずに。きっと誰も気づかない。ここに1人でいるよりはずっといい。
母の字は、もうそれを文字と認識できないくらいには細かく千切れていた。
わたしは、気づいた時には財布を持ち出していた。毎年のお年玉をしまっている引き出しを、9ヶ月ぶりに開けた。中学生の時、「もしもの時のためにお年玉を一切使わずに取っておいている」というクラスメイトがいた。わたしはなるほどと思い、次年のお年玉から使わずにしまっておくようにしていた。たまに親戚がくれるお小遣いも、高校に入って始めたバイトの収入も、ほとんど使わずにとっていた。直感で思った。その「もしもの時」は、今だ。数年分のお年玉をすべて抜き取り、昔から使っている子供っぽい財布にしまった。こんなにたくさんのお札が入った財布は初めてで、こんな財布でも少し大人になった気分だ。
夏なので服がかさばらなくて良い。Tシャツと短パンをリュックに入るだけ、下着、靴下、帽子、スマホ。そして童顔を大人に見せるためにメイクポーチも。補導なんてされたらたまったもんじゃない。最低限の荷物だけ持って家を出る頃には、東の空がほんのりと明るくなっていた。始発の電車はとっくに出発している。お気に入りの歩きやすいスニーカーを履き、アパートの階段を駆け下りて最寄りである戸坂駅へと向かった。
捜索願を出されてしまうだろうか。いや、あの親なら出さないだろう。顔を合わせることすらほとんどない親だ。本当に気づかないかもしれない。視線を落としながら歩くと、街路樹に並んで
「じゃあね」
なんとなく、心の中でそう声をかけた。秋桜の視線を背中に受けながら、歩くだけ足は止めなかった。
目的地は無い。とりあえず東へ向かった。陸が続いている東へ。戸坂から広島まで芸備線で二駅。流れる景色を他人事のように眺めた。その後、いつも学校に行くときに使っていた電車ではなく新幹線に乗り換えた。のぞみ88号東京行き。ホームに行くとちょうど停まっていた新幹線に乗り込み、自由席の窓際の座席に座った。新幹線に乗るのは、人生初だった。
夢中だった。だから、今気づいた。わたしはとんでもないことをしでかしている。サーッと血の気が引いた。動悸がした。さっきまでの勢いが嘘みたいだ。手が震えて、冷や汗が背中を伝った。どうしようと心の中で繰り返した。でも、あそこにいるのはもう限界だったのだ。仕方ないだろう。今なら引き返せる、帰ろうよ、そう叫ぶわたしと、行ってしまえばもうあの場所から逃れられるよ、と囁くわたしが、同時に手を差し出している。
――間もなく発車します。危険ですので、駆け込み乗車はおやめください。
ホームにアナウンスが響く。どちらの手を取れば……。葛藤しているうちに、シュー、と音を立ててドアが閉まった。問答無用で、後者のわたしが手を掴んできた瞬間だった。
「…………」
きっとよかったんだ。これで。新幹線が発車し、ぼーっと眺めている空が徐々に明るくなってきた。あっという間に岡山を過ぎ、姫路も過ぎた。席がだんだんと埋まり、隣に見知らぬ女性が座ってきた。スーツで髪の毛もきっちり整えられている。いかにも仕事のできるキャリアウーマンという感じだ。Tシャツに短パンというわたしの身なりがものすごく子供に見えて、誰に何を言われたわけでもないのに萎縮してしまう。
新神戸を過ぎた時、わたしが見ていた動画サイトにあるひとつの動画が出てきた。ある大阪の人の動画だった。タイトルに「だんじり
生で見てみたい。わたしはその動画に強く惹かれ、そう思った。車窓からは、すでに大阪湾が見えている。見てみたい。そのたった五文字を勢いに、わたしは次の停車駅である新大阪で新幹線を降りた。
†
初めて来る新大阪は想像以上に大きくて、在来線のホームの場所すら分からなかった。とりあえず梅田に行きたかったが、どの方向に進んでも間違いのような気がして1歩も歩けない。横目に見える旅行者用のパンフレットが目に入ってくるだけでも不安を煽られた。わたしはとりあえず誰かに聞いてみようと思い、目の前を通り過ぎようとした真面目そうな青年に声をかけることにした。
「あのーすみません……」
「ん? どした?」
「梅田までの行き方を教えてもらえませんか?」
「おお、ええで」
遠慮がちに話しかけたわたしに快く応じてくれた青年。優しそうな人だ、と安心したのも束の間。
「ついでに駅の近くのカフェでも行かへん?」
「っ!?」
青年はわたしの腰に腕を回し、強引に引き寄せた。わたしはあまりに一瞬の出来事に頭が真っ白になった。青年の手が下へと伝っていき、やばい、の3文字が頭をよぎった。本能的に青年の腕を振りほどき、全力で走り出した。先ほどまでは人の目が気になっていたが、今は注目を集めてもおそんなことどうでもよかった。走った先に偶然在来線の改札があり、わたしはそこでやっと立ち止まった。青年が追いかけてきているんじゃないかと振り返ると、もう青年はいなかった。異常なほど早い心臓と呼吸のせいで、肺が痛い。
券売機で切符を買おうと落ち着いたとき、先ほどの青年の顔が浮かんでぞっとした。あんな体験は初めてで、夢中で感じていなかった恐怖が今になって襲ってきたのだ。暑いのに、わたしの体は震えていた。
ガタガタと震える手でなんとか切符を買い、同じように震える膝を奮い立たせて歩いた。
そうしてなんとか梅田にたどり着き、複雑な路線図を見て環状線に乗り換えた。その頃にやっと、心臓や手足の震えが治まっていた。窓からは見たことのない景色がずっと広がっていたが、それを見る余裕もなくわたしは初めての大阪に緊張していた。ところが……。
……あれ、どこで降りるんだろう。そういえば「環状線」って、降りなかったらずっと進み続けるんだっけ。この景色、さっきも見た気がする。環状線に乗ることのないわたしは今さらながらそんなことを思い、アナウンスも聞かず次の駅で慌てて電車を飛び出した。
そして改札を出て、立ち止まった。ここ、どこだ?
徐々に歩みが遅くなるわたしを、無数の早い足音が追い抜いていく。人の多かった広島とも比べものにならない人の数。大きな声で笑う声。遊びの約束。誰かの悪口。すべてから切り離されたような感覚に、居心地の悪い焦りを覚えた。肩に誰かがぶつかって、なに止まってんねん、と文句を言いながら去って行った。皆、わたしに見向きもしない。誰に助けを求めるのも怖くて、つま先から凍りついてしまったような気がした。
――黄色い点字ブロックの内側までお下がりくださーい
聞き馴染みのないイントネーションのアナウンスが漏れてきて、それが一層わたしの焦りを増幅させた。周りの声に押しつぶされ、存在ごと消えかかった時。
「なあ、なんかあったん?」
あまりに突然のことで、それがわたしに向けられた声だと気づくまでに時間がかかった。
「へっ」
後ろから人が流れていく中、同じくらいの歳と思われる男の子がわたしに向かい合って立っている。シンプルなロゴTシャツにキャップを被り、綺麗な落ち着いた声の彼は、先ほどの痴漢男や文句を言って去って行った人とはまるで違い救世主のようにも見えた。
「こんな変なとこで止まってるから迷惑になってんで。とりあえず移動しよ」
彼の言葉で、わたしは改札からの人の流れのど真ん中にいたことにやっと気付いた。わたしは申し訳なさと恥ずかしさで下を向きながら、歩き出した名前も知らない彼の後をついて歩いた。
大阪の人の歩きは早い。田舎育ちのわたしは、ただでさえ人が多くて彼を見失ってしまいそうな駅で、早い歩きについて行くのに必死だった。
「ちょ、待って……」
わたしの口から情けないほど小さな声が出たのは、改札から離れてようやく人が減ってきた頃だった。「ん?」と空気と一緒に出たような声と共に振り返った彼はまったく余裕そうで、息が上がっているわたしとはまるで反対だ。
「わたし大阪じゃないけん歩くのが遅くて、もう少しゆっくり歩いてくれん?」
「あっごめん。大阪じゃみんなこれくらいやからなんも考えてなかったわ。ごめんな。大丈夫?」
「うん。ありがとう」
わたしの肩あたりに手をやりながらも触れてはこない彼に好感を抱き、また優しい人だとも思った。
「どっから来たん?」
先ほどまでとは違い、彼はゆっくりと歩き出した。
「あ、広島から……」
わたしも、半歩遅れて彼の隣を歩き出した。
「広島ぁ!? なんでわざわざ大阪まで来たん?」
「えっと、大阪旅行みたいな」
「そうなんや、仲間とはぐれたんか?」
「ううん、一人だよ」
「え? 大阪に友達でもおるん?」
「いや、おらんよ」
「一人で大阪旅行!? すっげえな、行動力」
「そう、かな」
「普通できひんで、そんなこと」
彼はわたしがひとつ質問に答えるたびに前のめりになっていき、わたしは大阪の勢いに広島との違いを感じていた。その違いは決して居心地の悪いものではなく、人見知りのわたしにとってはありがたいものだった。会ってすぐの時の彼の声は落ち着いていたから静かな人なのかと思っていたが、どうやらそれは先入観によるものだったようだ。
「何か目的でもあるん?」
「だんじり祭を見に来たの」
「え? じゃああんたが行こうとしてるん岸和田よな。なんで森ノ宮におるん?」
「あの、どこで乗り換えたらいいかわからんくて……とりあえず、降りたのがここで……」
事情を説明するのがあまりに恥ずかしくて、語尾がどんどん小さくなる。その横で、今わたしがいたのは森ノ宮だったのかと考えた。ところで、森ノ宮ってどのあたりだろう。
「そうなんや、まあこの辺の路線だいぶ複雑やもんな。俺も今から岸和田行くから一緒に行こか」
「いいの?」
「だって放っといたら1人で環状線何周も回ってそうやもん」
「……」
「え? もしかしてもう一周くらいしてる?」
「……うん。たぶん」
やっぱりな、とゲラゲラ笑う彼の隣で、わたしはいきなり図星をつかれた恥ずかしさで顔を真っ赤にした。笑っている彼に怒りながら、引き返してまた改札に向かっている彼は自分の用事があったのに見知らぬわたしを優先してくれたことに気づき、悟られないよう静かに感謝した。
歩きながら、崩れ落ちそうだった。ずっと1人だった不安から解放され、大阪に来て初めて優しい言葉をかけられた、この安堵は並のものではない。
金曜日の昼間の電車はまだ混んでいない。再度乗った電車の中に立っている人はいるが、さほど窮屈と感じはしなかった。森ノ宮から新今宮まで6駅。電車の連結部の近くで手すりにつかまって立った。彼は背が高い。向かい合うと、わたしの目線は彼の肩にも届かない。怒られでもしたらすぐに圧倒されてしまいそうだ。彼の視線はわたしの横を通り越して窓の外に向かっている。流れる景色をひたすら見つめる彼は、何を考えているのかまるで分からなかった。
「そういえば、だんじり祭って明日からじゃないの?」
「祭りは明日からやねんけど、今日は試験引きいうて最終リハーサルみたいな感じやね。当日ほどやないけど観客も結構多いで」
「そうなんだ」
「マッジで興奮するから覚悟しとき」
異世界に旅立ってしまったようにも見えた彼は、わたしが話しかけるとすぐに現実世界に戻ってきた。不思議な雰囲気だと思った。つかみどころがない人とは、こういう人のことを言うのだろうか。
わたしは初対面の人がとても苦手だ。それにもかかわらず、彼と一緒にいるのはまったく苦ではなかった。むしろそれを楽しんでいたわたしに、わたし自身が驚いていた。
途中で人が電車を降りていき、空いた席に座ろうとする彼にならって移動した。座りながら、やっと座れたー! と心の中でほっとすると、顔にめっちゃ出てんで、と笑われた。むっと膨れながら、それでもなんだか楽しいから不思議だ。
「なあ。お前、名前は?」
「新菜だよ」
「新菜か。……多分覚えた」
「ふっ。多分って何」
「多分は多分や。変な名前で呼んだらごめん」
彼は、今まであまり関わったことがないようなタイプの人だった。気づくと彼の発言がすべてツボにはまり、何笑っとんねん、と言われてもなお、わたしは笑いが止まらくなってしまった。
「人の名前覚えんの苦手やねん!」
彼がそう言った時には、もう笑いすぎて涙目になっていた。
「あ、あなたの名前は? なんていうの?」
彼のように相手を"お前"とは呼びにくく、変にたどたどしく改まった聞き方になってしまった。わたしは笑顔でいながらも、おかしかったかな、と一人で気にしていたが彼は特に何も思っていないように、俺? とわたしと目を合わせた。
「……ハッチ」
「え? ハッチ?」
「苗字が
なぜか自分の名前を教えてくれない彼。わたしが名前を言ったのにあだ名を教えるとは、よほど本名を知られたくないのだろうか。異性のことをあだ名で呼んだことはなかったが、そう言われた以上“蜂谷くん”とは呼びづらく“ハッチ”と呼ぶことにした。誰かに自然に名前を呼び捨てにされる経験も今までになく、そう呼ばれることに違和感を覚えないハッチにまたも不思議な感覚を覚えた。初対面の、しかも異性と、こんなに話をするなんて不思議だ。わたしはハッチと名乗った彼の本名が気になったが、それを聞く代わりにゆっくりと動き出す景色を眺めた。ハッチがそうするように。
数分の沈黙の後、そういえば、とハッチが口を開いた。
「新菜って何歳なん?」
「わたし17歳。ハッチは?」
「俺18やで」
「えっ、年上!?」
「なんや、年上に見えへん言うんか。失礼やな」
「ご、ごめんなさい」
「もう敬語なんか邪魔やし今さら使わんでええわ!」
とても話しやすくて気を使わなかったので同い年かと勝手に思っていたが、どうやらハッチの方がひとつ上だったようだ。申し訳ないと思いながらもわたしは笑い出し、隣に座るハッチも同様に笑い出した。
新今宮へ向かう途中、線路の両サイドにはたくさんの学校が見えた。ハッチにはいつもの景色のようで気にも留めていないようだが、わたしにとってそれは新世界のようにも見えて、自分が大都会・大阪にいることを実感させられた。あまりにキラキラしているわたしに顔を見たハッチは思わず吹き出し、わたしはまたむっとしながらも最後にはつられて笑っていた。
ハルカスの前を通過する時に至っては、窓に張り付き、わたしはまるで子供のようにはしゃいでしまった。そんなわたしを見て、ハッチはさすがに制止した。我に返った時、わたしは自らのはしゃぎようを思い出して顔を真っ赤にした。するとやはりハッチは笑い、わたしもむっとしてから笑った。
――次は、新今宮。新今宮です。
ハッチとわたしは息をつく間もなく話を続け、あっという間に新今宮に到着した。
「乗り換えんで」
すっと立ったハッチに続いてわたしも立ち、二人で人の波に乗って電車を降りた。ハッチは慣れた足取りで人混みの中をすいすいと進んでいき、わたしはハッチが通った道をそのまま通ってなんとか人混みをかいくぐった。大阪の電車を使ったことがない、ハッチの連絡先も持っていないわたしにとって、ハッチを見失ってしまえばもう終わりなのだ。
わたしたちは南海本線に乗り換え、優先席の正面に立った。またしても壁にすがるハッチが、今度は窓を眺めずにおもむろに携帯を取り出した。
「なあ、連絡先交換しとくか」
「えっ」
「さっきから新菜が付いてきてるかめっちゃ心配やもん。こんな調子やったら祭りん時絶対迷子になるで」
それはわたしも、同じことを考えていた。すでにメッセージアプリのQRコードが表示されているハッチのスマホを見て、わたしは急いで同じアプリの読み取り画面を開いた。
「……」
「これ乗ってたら岸和田やで」
メッセージアプリを開き“よろしく”のスタンプだけ送りあったハッチとのトークルームを眺めていたわたしに、ハッチがそう話しかけてきた。わたしはなんとなくそれをハッチに気づかれないようにスマホの画面を隠し、ハッチの顔を見た。ついに目的地の名前が出てきて、胸が高鳴った。
「あと何駅くらい?」
「今住之江出たところやから、あと15駅。まだまだやで」
まだ見ぬ大阪の伝統行事を見る時が確実に近づいているのを感じ、楽しみな気持ちと不安な気持ちが半分半分だった。
「新菜ってなんでだんじり見に来たん?」
「えっ、と……なんとなく、興味があって?」
ぎくり。今のわたしの動きには、そんな効果音がぴったりだろう。まさか本当の理由を言えるわけもなくおどついてしまった。
「それでここまで来るん!? えぐいな、めっちゃフッ軽やん」
そんなわたしに、たぶんハッチは気づいていた。でも、気づかないふりをした。分かるか分からないかくらいの短い
タイトル未定 もなこ @ms903love
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