第3話

 オールディスホットハウス社製造一般家庭用オートマトン:AM-F0417YH-LA、公式愛称はリリアーナ。

 これが資料から推察される、オリヴォー博士が地下室で見つけた彼女の正体であった。身長は百七十センチジャスト。設定年齢は二十歳。

 資料には本社ビルと製造プラントの所在地も記載されていたが、両方が大戦によって荒野と化した土地であるので、関係者を探しだして連絡をとるのは難しい。

 時代の隔たりもある。納品書の類は発見していないが、製造開始年はおよそ二百年前だ。ちなみにそれは、統一人工言語が国際的に浸透した年代である。スペック詳細を読んでみるに、インストールされている言語プログラムは統一人工言語一種のみ。かく言う私もそれしか話すことができない。

 

 博士が言ったとおり、見つかっているオペレーションマニュアルは一部分だけだった。数枚のマットポスト紙に図案を交えてびっしりと印字されている。

 マニュアルが不完全であるのを私たちは消失や紛失でないと結論付けた。部分的にでも紙媒体として保存されているのが妙なのだ。リリアーナを含めて、多くのアンドロイドたちがこの星を人と同じように闊歩していた時代に、紙媒体での取扱説明書など通常は送付しない、その必要がないはずだ。高度な情報端末機器さえあれば、電子情報として保有し、自由に閲覧ができるのだから。

 そうなると紆余曲折を経てこの資料を自分たちでプリントアウトした? そしてまたリリアーナも相応の理由があってこの地下室に残されたと考えるのが妥当……こうした帰着は私たちの間ですぐに得られた。

 しかしそこからどこにもいけないというのが実状だった。

 彼女を遺したのはオリヴォー家の誰かだと予想できるが、どの時代に生きたどういった人物なのかは不明なままだ。

 

 とどのつまり、経緯を知るためには眠り姫である彼女を起こすのが最短で最適なルートだ。彼女が人間を排するような危険因子を組みこまれていない限りは。そのときはそのときだ、私たちは腹を括った。

 マニュアルを参照するに、彼女には電灯や掃除機のようなあからさまな電源スイッチはなく、起動済み(スリープ状態)で家庭に納品されるらしい。そして強制シャットダウンはコード入力を専用のリモコンによる遠隔操作でとのことだが、そのリモコンは見当たらない。

 

 私はリリアーナの「素肌」を調べることを提案した。

 オリヴォー博士はそれに賛成すると、私が何も言っていないのに「では、外で待つことにしよう」と階段を上がっていく。いくら博士が紳士的な人間とはいえ、機械相手に無用の気遣いではないだろうか。それに彼は私より先に、子細な身体構造図に目を通していて、リリアーナの「裸」に性的魅力がないのを知っているはずだ。ううん、それは人によるか。彼女が美しいあまり触れもしなかったと話した博士のことだ。その態度を貫き通す気なのだろう。


「まぁ、綺麗なのは認めるけれど……」


 博士がいなくなり、一人と一体になった地下室で私は呟いた。

 断じて嫉妬ではないが、リリアーナの顔の造形美には舌を巻く。その洗練の度合いは、眠っている人間と錯覚することから確かだ。起きたらどうなんだろう。スペック上は彼女の顔に関して、人工筋肉で表出されるパターンが十二通りあるそうだ。専門外なので多いのか少ないのかわからない。私、そんなにたくさんの表情を持っているかな。


「えいっ」


 衝動的にリリアーナの頬を指で今度はつついてみたが、やはり温かさはなかった。そのことにかえって安堵する。

 

 ドレスの脱がせ方そして着せ方は文字通り手探りになった。

 リリアーナはドレスの下に、上下ともに簡素なインナーを身につけていた。粉塵との接触を回避するための代物だろうか。真っ先にそうした実用的な思考をした後で、彼女と共に生きた人間の思いやり、ひょっとしたら彼女自身が望んだ結果の可能性も考えた。


「マニュアルは、肝心な思考回路の頁が抜けていたのが痛いわ」


 どのようにして彼女が学習し、必要なだけのパーソナリティを獲得するのかが判明していない。性格や思考傾向の手がかりはある。マニュアルの表紙に記された「気品と知性に富み、時に少女の活発さと恥じらいを見せる、可憐なる女性型オートマトン」という謳い文句だ。どことなく胡散臭い。


 インナーの下を確認する。胸部は硬くて乳頭がなく、下腹部には生殖器を模した構造もなかった。他の箇所と同じく細かな傷すらない。大事にされていたということか。

 背中にも特に異常は見受けられず、後ろ髪をかき分けると頸椎の中ほどにコンセントがあった。規格が特殊で、対応するプラグも一般的ではないと判断できる。構造図解を読むと、その穴は人工頭脳――――電子計算機ではなく、知能を宿らせ高度な思考を可能にする人工神経細胞組織の意だ――――に不具合が発生した際、解析と修理を行うために設けられた部位だとわかった。だとすれば、再起動には専用の接続機器がいる……? 

 

 リリアーナにインナーとドレスを再び着せる。風に晒されないこの地下室でそれらはほとんど劣化していなかった。保護する布も被せられていたからね。

 上で待っていた博士と合流し、リリアーナに外傷はないこと、彼女の身体を多少揺らしたところで覚醒に至らなかったのを伝えた。そして博士と話し合った結果、二階の書斎を調査することになった。オリヴォー家の歴史が詰まっている場所だという。

 実際に行ってみると、小さな図書館のような空間で、くまなく調べるのは骨が折れた。それでも二人で手分けしたので二時間半で蔵書のチェックは済ませられた。

 けれど、リリアーナに繋がる本はまるでなかった。厳密には、私が読んだことのあるアンドロイドか登場するSF小説はあったが、人工生命体の学術研究書の類は一切なかったのだ。

 

 その後、リリアーナを二人で地下室から一階の客間へと移すことにした。地下室に閉じ込めておくのが忍びなくなった、というのは建前。いちいちあの急で狭い階段を下りるのはストレスであるし、あの地下室に籠って作業なんてしたくないというのが本音だった。今のところ、手詰まりだけれど。

 彼女を分解……それは思いついても軽率にはできない。資料を丹念に読みこんでから、注意深く検討しないといけない。


 なお、リリアーナの体重は、八十一キログラム。私がユービック大学の修学プログラム参加時の健康診断で計測したときの値が四十七キログラムなので、私二人分に満たない。


「その情報は気休めにもならんな」


 息を切らし、額に汗をにじませる博士。

 老体にはきつい、肉体の酷使だった。非力な私にしても重労働。二人がかりでなんとか運んだ。

 リリアーナ、もしも起こすことができたのならあんたの体重に文句の一つは言ってやりたい。疑義的なものは別として、反重力装置によって浮遊歩行なんてのはかつての文明でもフィクションの域を出なかったみたいね。




 進展がないまま帰宅し、翌日を迎えた。私は叔父に断りを入れてから、朝のうちに屋敷に出向く。すると、博士が例の西方の地へと出発する準備を完了したところだった。屋敷の正面ではなく裏口のあたりで私たちは話す。

 

 オフロード走行が可能な車体の低い四輪車がそこに停まっていた。

 それに乗ってまずは近くの町へと一日で向かうらしい。その車両は屋敷の車庫で埃を被っていたもので、昨夜のうちに三時間かけて整備したのだと博士は得意気だった。

 燃料不足だけがネックとのことだが、いざとなれば荒野に乗り捨ててしまえばいいと彼は笑った。「大地にくれてやるのだよ」とも言ってのける。なかなかワイルドだ。積荷が少ないから、深刻には問題視していないのだろう。


「もう出発なさるんですね」

「話していなかったかね」


 整備の疲れは顔色からはうかがえない。博士はその立派な髭を手で揉みながら、屋敷をしげしげと眺めた。ここ数日間が彼にとって最初で最後の帰郷になるかもしれない、私はそう思った。


「せめてもう数日はあれこれ教授していただいたり、協力してくださったりするのかと。雑談であっても、もっとしてくださればよかったのに」

「そう言うわりには別れを惜しんでいないようだが?」

「私はまだ、あなたの期待に応えられる自信がありません」


 話題を逸らした形になったが、本心だった。

 博士は声を立てて笑う。それはハインラインの同じ年代のおじいさん、おばあさんと変わらぬ、のんびりとした笑いだった。


「その瞳には不安よりも探究心が見える」

「お世辞ではなく?」

「当然だ。私が世辞を上手に言える人間であれば、マキネでも上のポジションにいけたかもな。だが、そうであれば彼女と君に会えないまま一生を終えたのは想像がつく。そう思うと、今は悪くない心地だよ」

「今日を入れたとして、会ってからたった三日でもですか?」

「うむ。君と四十年前に会っていれば、私はプロポーズしていただろうな」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 数秒しても、よくわからなかった。


「ソフィー、君もどうやらお世辞や心にない表情を作るのが下手なようだな。真に受ける素直さは美点でもあるが」

「えっと……」

「ここではそれでいい。私はそう思う。彼女を頼んだぞ」


 スッと博士が右手を差し出す。私もそれに倣って、握手を交わした。

 そうして晴天の下、彼が乗った車はピーキーな動きをして、ハインラインから離れていった。博士が無事に目的地に到着して新たな場所で大志を遂げるのを、真剣に祈願った。

 あ、掃除機の修理代もらっていない。




 裏口から屋敷内に入ると、リリアーナのいる客間にたどり着くまでに、少し時間がかかった。迷路と形容するほどではないが、どうも無駄に部屋数が多い屋敷だ。ハインラインの配電事情を鑑みるに、すべての部屋に電気が通っているとは思えない。それはそうと、例の地下室以外にも、何か隠された金庫や書庫、武器庫までもがないと言い切れないので、彼女を起こす方法を調べるついでに軽く掃除していこうか。


 客間の革張りの大きなソファの一つにリリアーナは鎮座していた。存在感がある。シンプルなシャンデリアが天井から吊るされており、室内を明るくしていた。私は壁際のスイッチを操作してその明かりを消す。そして掃き出し窓を覆っている遮光性の高いカーテンを開いて、陽光で部屋をいっぱいにした。晴れている日中はこれでいいだろう。


「えっ!?」


 私は目を丸くしてリリアーナを見た。

 彼女の暗い金髪全体が淡い光を放ち、そこからジリジリジリとまるでフライパンで小さなものを焦がすような音がし始めているではないか。

 バッと窓に向き直る。カーテンを開き、眩い光を私たちのいる空間へ注ぎ込み続けているそこに。


「仕様図解には太陽光発電システムなんて……」


 駆け足で窓辺から彼女のもとへと移動した私は、発光して音を出している髪を観察する。音のほうはやがて耳をすませないと聞こえない大きさになった。彼女に動きはない。その瞼も唇もぴたりと閉じられたまま。

 私は彼女の隣、光を浴びるのを邪魔しない側に腰をおろすと、起こっている事象の解明を試みる。というよりこれからの予測、と言うべきか。

 最も望ましい展開は、リリアーナの髪に太陽電池が組み込まれていて、それで得た電力がそのまま彼女の動力源に利用されて覚醒するというものだ。ただ、ヘアパーツが日差しを受けて蓄電するように改造されたのを示す資料がない以上、他の展開も予想できる。最も無意味な展開は、彼女の髪は日差しを受けて色を徐々に変化させるといった機能を搭載しており、それは独立した機構であるゆえに彼女の「意識」の回復には何一つ役に立たないというものだろう。


「事の成り行きを見守るしかない、か」


 ソーラーパワーチャージ完了後にボンっと爆発、そんなとんでもない結末はないと祈るばかりだ。

 私はきっかり五分間、そのまま隣で彼女の状態を観察していたが何も変化がないのを確認すると、ソファから立ち上がり、急いでノートとペンを用意した。観察記録をつけなければ。ほんの些細な変化も見逃さず、聞き逃さずの気概を持ち合わせよう。適した計測機器があればそれに任せられるが、今は生身の私が彼女の傍に張りつくしかないのだった。


 そのまま二時間が経過した。三十分を過ぎた時点で一度、彼女のドレスを脱がせて他の見えていない部位に反応がないかをうかがった。なかった。何も。

 彼女の隣に座ってただひたすらに何かが起こるのを待つのは、率直に言うなら退屈の極みだった。

 そのうち私は尿意を催し始めた。人間だから。とはいえ、仕様図解上はリリアーナも消化器官や排泄器官に相当する構造を有している。何でもかんでも飲み食いできるわけではなさそうだけれど。

 しまった。この屋敷のトイレは何の支障もなく使えるか把握していない。博士は何も言っていなかったから大丈夫のはず……と前向きな考えに至ってから、自分がそもそもトイレの位置をきちんと記憶していないことに気づいた。

 そして私は観察継続を諦め、客間を出た。


 無事にすっきりした私は、客間に戻ると言葉を失った。

 ソファにリリアーナがいない。

 そして窓辺に立っている女性。そのドレスを着ている後ろ姿は、見間違えるわけがない、彼女だった。理想が現実となった。


 私が声をかける前に、彼女が振り返る。

 今度は驚愕とは別の感情がわぁっと溢れて、やはり言葉が出てこなかった。目を開き、こちらを見つめる彼女は神々しいと思えるほどに美しかった。ようやく私の口から出てきたのはひどく弱々しい溜息で、それをして私は自分が息を止めていたのを知ったのだった。

 髪色は元どおりになっていて、もう光っていない。その瞳は宝石に喩えるのが陳腐に感じる程度に、自然な青だ。映像資料でしか目にしたことのない、透明な海を私はそこに見た。澄んだそこにある深みが私を惑わす。

 私はその機械仕掛けの女性に瞬く間に心を奪われてしまった。永遠に思える眠りから目覚めた彼女の魅力は、眠りについていた彼女のそれとは別次元だったから。


 彼女の唇が動く。それを私はしかと目にする。

 警戒。それが彼女の表情としてそこに在った。しかし声が聞こえない。私は人を相手にしたときと同じように、よく聞こえなかったというのをジェスチャーで伝えた。彼女はまた唇を動かす。その後、彼女自身がその手を唇に持っていき、表情が困惑に変わる。


「声が出ないの?」


 私がそう言うと、彼女は小さく首を横に振る。そして部屋の出入り口で緊張したままの私を手招く。彼女がそうやって私を呼んでいる。

 ゆっくりと。私は一歩目を慎重に踏み出した。そんな振る舞いに、リリアーナの目つきと顔には私に対する警戒がまた表れる。しかし後退はせず、彼女のほうからも私へと足を踏み出した。カシャンともガシャンとも音はなく、人間と同じように彼女は動く。そうして私たちはソファの前で向かい合う。

 彼女が唇を動かす。――――音が聞こえた。微かだが、空気を震わせている。私はその音を声とするために、もっと彼女の近くに寄った。彼女の表情は硬い。機械であるからという意味ではなく。


「あなたは誰?」


 距離が三十センチ足らずとなり、彼女は低身長な私にそんな声を落としてきた。

 囁き声だ。全然、機械っぽくない。私の心をかき乱すのに十分な魅力がそこにある。家族として迎えられるアンドロイドなのだから、快い声を持っているのは何もおかしくないか。声帯部位に異常があって出力レベルが低いのだと考えられる。


「私はソフィー。ええと、その、メカニックで……人間よ」


 機械技師という肩書きを好まない私はそう返したが、口をついて出た整備工メカニックというのが適切なのかは再考の余地があった。


「そう。じゃあ、わたしは誰かしら?」

「え?」

「どうも記憶を失っているみたいなの。かなり。それとも――――」


 リリアーナは彼女自身の右の手のひらをじっと見つめた。つられて私もそうする。数秒間そうしてから、握り拳をつくって、それを振り上げることなく彼女は私に微笑みかけてきた。


を、と言ったほうがいいのかしら。わたしの場合は」


 ゾッとした。

 生理的な恐怖を感じるのを抑えられなかった。ロジックで説明し難い恐れが私を襲うが、しかしそれは長くは続かない。彼女の微笑みを私は受け入れ、ぎこちない笑みを返した。


「どう思う? 人間さん」

「えっと……とりあえず座って話しましょうか。リリアーナ、さん」

「リリアーナ。それがわたしの名前なのね」

「ええ、きっとそうです」


 彼女と共に暮らしていた誰か、または彼女を地下室に遺した誰か、その人たちが何と呼んでいたかはわからないけれど。


「ねぇ、人間さん。笑わないでね」


 リリアーナは私より先にソファに優雅に座ると、私を見上げてそう言った。


「わたし、なんだか怖いわ。今、そう感じているの」

「……なぜ?」


 私も座る。ほとんど反射的に。彼女の声をクリアに聞こうと。


「さあ。記録の消去のされ方に問題があったのかしら。まっさらではないの。それがかえって、わたしの意識を混濁させているわ。ねぇ、人間さん。貴女からすると、わたしが『意識』だなんて言うのは不愉快?」

「そんなことない、です。あの、私はソフィーと呼んでください。私はあなたを名前で呼びます」


 リリアーナが黙って私の瞳を覗き込んだ。

 その深奥に自分に欠けた何かを探し求めるかのように。

 十三秒間の神秘的な沈黙を破ったのは彼女だった。

 

「わたしに、あなたの知っていることを教えてくださる?」

「ええ、そのつもりです」


 私の返事はひどく静かな首肯を挟んでからなされた。そして「あなたのことも教えてください」とすぐには言えなかった。


 私たちは情報交換をしていく。

 リリアーナは彼女自身の機械仕様について、つぶさに話すことができなかった。家族として暮らすアンドロイドなのだから、そういった情報がもとよりインプットされていない線はある。つまり、あくまで人間らしく振る舞わせるために、彼女自身に必要以上に機械であることを自覚させないという意図。

 私が読んだことのあるSF小説でも、自分をアンドロイドだと気づいていなかった個体が登場していたのを思い出す。


「わたしとソフィーの関係性はまったくの他人なのね」

「そう、ですね。私は博士からあなたを再起動させ、観察記録をつけるのを依頼された身ですから。まさかこんなにも早く覚醒が実現するとは思いませんでしたが」

「ソフィー、敬語はいらないわ。わたしが二百歳を超える老婆に見える?」

「それは……。けれど、貴族の令嬢には見えますよ。口調もふまえて」

「賛辞と受け取っていいのかしら」

「印象です」

「もしも嫌悪感があるのなら、この話し方から変えることもできるわ。わたしの仕様上という意味ではなくてね」

「そのままでかまいません。ううん、かまわない。それでね、覚えていることを話してくれる?」

「より直接的にわたしの記録にアクセスしないの?」


 そう言うとリリアーナは室内を見回した。迷い込んだ蝶々の羽ばたきを追いかけるように、それでいて品位を保ったまま。


「貴女がそうしないのは、わたしがこの空間にサイバーネットワークシステムの気配を一切感じないことに関係しているのかしら」


 彼女の黒いヘアバンドの端でオレンジの光が点滅するのがわかった。マニュアルにあったとおり、交信デバイスなようだ。つまり現代のハインラインにおいては無用の長物。


「二百年前と今では世界はもはや別物なんだ」

「原始と古代より後の歴史であれば、どの二百年をとってもそう言えるはずよ」

「世界レベルでの、文明の甚だしい衰退はその歴史の中にある?」


 リリアーナはすっくと立ち上がり、もう一度窓辺まで歩いていくとそこから望める景色を観察した。私はその後ろ姿をしばらく眺めていたが、彼女の声を拾うには近づくしかないんだと思い当たって、彼女のもとへ寄った。


「ポストアポカリプスのイメージには合わない、のんびりとした空気だわ」

「あと百年したらわからない。文明をどうにか存続させている都市部がこうした田舎町をそのまま放っておくのかどうなのか。噂じゃ、北の大地は殺伐とした日常が根付いて久しいみたい」

「目覚めたのがそんな環境でなくてよかったわ。……ねぇ、ソフィー」

「なに?」

「中枢神経系へのダイブなしに、記録の整理なり復元なりを効率的に行なうためには、じっとしているよりもこの屋敷内を歩き回ったほうがいいわね。そうした外部刺激が思い出す助けになるわ」

「記憶喪失になった人間を扱うようにすればいいってこと?」

「そうね。貴女の手も借りることになる。ほら、あれを見て」


 彼女が窓の外を指差す。正面玄関の向こう側、荒れた庭地を示している。


「たとえば、あの庭を綺麗にしたいわ」


 そう言って彼女は微笑んだ。

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