第2話

 私の優雅な昼寝を邪魔した老紳士は、壊れた掃除機を置いて帰った。明日の午後にでも修理済みのそれを持って家に来てほしいと言い残して。修理物品の宅配はしていないと言うと「場所は町はずれの屋敷だ。そう言えばわかるだろう?」と返して去ったのだ。


「オリヴォー博士まで、帰ってきていたのか」


 その日の夜、ネイキッド・サンの店長である叔父に今日あったことを報告すると驚かれた。既に日がすっかり落ちて窓の外は暗い。私たち二人は店の二階の居住スペースでテーブルに向かい合って座っている。


「オリヴォー博士?」

「そうだ。アイザック・オリヴォーの名に聞き覚えないか」


 私は叔父が淹れてくれたハーブティーに口をつけながら自分の記憶からその名前を掘り当てようとする。甘さが控え目で独特の渋味があるこれはハインラインではごく一般的なもので、疲労回復や記憶力の活性化といった作用があるとされている。マキネではやたら甘いお茶か、苦味と酸味の強いコーヒーが老若男女問わず愛飲されていたが、私は最後まで好きになれなかった。


「さっぱり出てこない。どんな人か教えて」

「専門分野は、えーっと……形状処理工学だったはずだ」

「それもピンとこない。その分野での権威オーソリティなの?」

「どうだかな。ソフィーが知らないなら、分野そのものが大して有名ではないんだろう。俺がマキネにいた時もほとんど知られていなかった」


 叔父の話を聞くに、叔父が少年だった時にオリヴォー博士はハインラインを出てマキネに赴き、ウェルズ大学の臨時職員として就職したらしい。四十年近く前だ。

 そもそもの話、第五次大戦前後で片田舎のハインラインにおける(それなりに)文明的な暮らしを保護し、その維持を主導してきたのがオリヴォー家であったという。叔父が彼の祖父から聞いた話では、オリヴォー家の人たちがいなければ、この町は大戦後に近世の生活まで逆戻りしていた恐れもあったのだとか。

 とはいえ、整備が一定の水準まで完了した後、他の小さな村々同様に緩やかな後退の一途を辿りつつあるハインラインである。都市部との生活環境の乖離は大きくなる一方だ。オリヴォーの家名を称える声もとくにない。


「帰ってきたってことは今は別の研究機関に所属しているか、さもなくば隠居のつもりで戻ってきたのかもな」

「ふうん」

「ある意味で俺がマキネに旅立つきっかけを作った人だ。向こうじゃ専攻が全然違ったこともあって、一度会って話す機会があったかどうかぐらいだったが」

「まぁ、叔父さんがいかにしてマキネで修行を積んで、このハインラインの地に戻り一番の機械技師になったかは、散々聞いたからいいとして……」

「一番もなにも、俺以外いないだろ。あいつはまだまだ半人前だしな」


 ハインラインにはネイキッド・サン以外にも、機械修理を商いにしている店が一つあるのだが、従業員は一人だけ。その店は実質、ネイキッド・サンの出張所であり、その従業員の男性はマキネに行かず、何年か前から叔父の指導を受けてそこを切り盛りしている。今年で二十五だったかな。どうにも人間嫌いなところがある人で、私はあまり彼と話したことがない。


「いや……お前がいたか」

「叔父の贔屓目ってやつ?」

「そんなんじゃねぇよ、このちんちくりんのティンカーが」


 叔父はそう悪態をつくと、ハーブティーをぐいっと飲んだ。彼は数年前に酒場で酔って暴れたせいで、片思いをしていた幼馴染にひどく嫌われて以来、禁酒を続けている。私がマキネにいた期間も継続していたんだろうか。空になったカップを眺める表情は物足りなさそうだった。


「とりあえず店のことは俺に任せて、明日はさっさと博士のところに行きな」


 叔父はオリヴォー博士を信用しているようだ。

 掃除機については修理に必要だったパーツが、オリヴォー博士が帰った後ですぐに見つかり、既に動作確認も済んでいる。それを持ってオリヴォー家の屋敷に足を運べば、彼がほのめかした真の依頼の話を聞けるだろう。


「あのさ……」

「なんだ迷っているのか。大丈夫だろ、とって食われたりしないって。心配なら護身用のスタンガンでも持っていくか?」

「それはやめておく。誤作動を起こしでもして、ショック死させたくない」

「おいおい、出力レベルはあくまで護身の範疇だっての」


 叔父が笑って私の頭を撫でる。


「子供扱いしないで」

「あー、ダメだなこりゃ」

「は?」

「マキネからこっちにくるまでの、三週間だっけか、髪が傷んでいるじゃねぇかよ。あいつ譲りの綺麗なライトブラウンなのによぉ。機械なんかよりこっちを手入れしておけ」

「うるさい、シスコン」


 叔父の手を払いのけはしなかった。できなかった。声にも力がこもらない。思えば、こうして誰かに頭を撫でられることはマキネではただの一度もなかった。そうした付き合いを私が積極的に求めなかったのも事実である。私を可愛がる大人はいなかったのはもちろん、深い仲になる同級生も現れなかったのだ。

 

 夜が深まり、物置を改装した寝室で私は低い天井を仰ぎながら、何か一つ思い出しては何か一つ忘れたがっていた。そして眠りへと入る直前、時間があったらヘアブラシとヘアオイルをどこかで見繕おうかなと思った。


 


 オリヴォー家の屋敷を幼い頃の私は幽霊屋敷と呼んでいた。町の友達何人かで探索しようとした覚えもあるが、その中まで入った記憶はないので何かを理由に諦めたのだろう。誰にも荒らされないままであったのはハインラインの民が善良な証拠だな、と玄関で出迎えてくれたオリヴォー博士が言った。


「けれど、庭の植物たちは行儀がよくありませんね」


 門から玄関扉まで石畳の道が十数メートル続いており、その両脇に庭が広がっていた。そこでは草花や蔓がこれでもかと生い茂って、人の手が一切入っていない自由気ままに伸びきった様はどこか不気味さを感じさえした。すっかり枯れているよりはましかもしれないが、これでは以前に増して幽霊屋敷といった雰囲気だ。


 博士に促されて屋敷内に足を踏み入れると、反射的に鼻を片手で覆った。カビの匂いかな。


「屋敷内の掃除も済んでいないようですね」

「そうだな。しかしそんな鼻を抑えなくてもいいだろう。刺激臭がするわけではなかろうよ」

「失礼しました。ええ、すぐに慣れるでしょう。あの、もしかして直したこれを使って私にここの掃除をしてほしいだなんて言いませんよね?」


 歩いていく彼の背中に声をかける。私の右肩には例のキャディバッグが担がれており、そこには掃除機が入っている。


「安心しなさい、それが目的であれば君には頼まない。だが、場合によっては掃除を含めて、この屋敷の……なんて言ったらいいかな、ハウスキーピングをすることになるやもしれん」

「なんですって? 話の流れからして、それはシステム運用の一貫ではなく家事全般のことですよね。どうして私が……」


 まさかと思うがこの私を娶り、軟禁状態にする心づもりじゃないよね。そんな突拍子もないことを思い浮かべた私だが、ぶんぶんと首を横に振って妄想を払いのけた。


「今から二十二年前、この家は死んだのだ」

「え?」

「私は母一人を置いてハインラインを発ったのだが、その二十二年前にマキネで彼女が亡くなった知らせを受け取ったのだ。相手は母と親しくしてくれていた近所の人だった。病を患い、病院のベッドで亡くなったらしかった。その頃の私は苦難の末にマキネで博士号を取得した後、さらなる苦労を経て一角の人物になろうとしていた。ゆえに、母の死には悲しんだが、戻るわけにはいかなかった」

 

 そうして博士は手紙をくれた人物にお礼の手紙を返した以外は何もせずに過ごしてきた。博士には配偶者も子供もいないので、オリヴォー家の血筋はおそらく当代で途絶えるであろうとのことだった。

 足取りは重く、独り言みたいにぽつぽつと話す彼の背に、私は何も声をかけられずにいた。


「バッグごと、このあたりに置いてくれ」


 やがて、板張りの廊下でオリヴォー博士が振り向き、私にそう言った。とくに前々から考えていた様子ではなく、掃除機のことはどうでもよさげだった。私は少し廊下を戻って、二階へと続く階段脇、目につくところにバッグを置いた。そしてまた彼が歩き始め、私はそれについていく。広い屋敷だ。博士の母親がここで独りで朽ち果てることがなかったのは幸いだと感じた。しかしもしかすると思い出の詰まった屋敷で息絶えるほうが本望だったのかもしれない……。

 

「ところで、あなたは工学博士なのですね。オリヴォーさん」

「ふむ。思い出したのか、それとも誰かから聞いたのかね」

「後者です。けれど、詳しくは知りません」

「それはそうだ。結局、マキネで見向きされない研究を続けていただけの男だよ。言い訳がましく聞こえるかもしれんが、もっと多くの優秀な人材と予算があれば……いや、聞き苦しいか。忘れてくれ」


 今はどこかの機関に属しているのか、なぜここに帰ってきたのか、そしてなにより今から私に何をさせるつもりなのか、あれこれ問いただしたかったが、彼の背中から漂う哀愁に気圧されて私はまた黙った。

 そのまま、ある一室に到着すると、オリヴォー博士は「ここだ」と言った。調度品からすると、客間ではなさそうだ。しかし彼の私室でもない気がする。どうにも倉庫めいた部屋だ。薄暗い。え? 本当に軟禁や監禁なんてしないよね?


「どこから話せばいいか。なに、そう長くは語らない。聞いてくれるかね」

「ええ、もちろん」


 ろくに事情説明がなされぬままというのは、落ち着かない。


「私はマキネと四年前に縁を切っていてね。それほど多くない退職金を元手に、世界旅行をしていたのだよ。旅行と言っても、旅行らしい旅行になる場所は限られていたがね。それでつい先週に故郷へと戻ってきたのだ」


 クロスの面格子がつけられた小窓から差し込む頼りない光。それがオリヴォー博士の顔に刻まれた皺を仄かに照らしている。


「そして偶然これを見つけた。子供の頃、そしてここを出ていくときになっても知り得なかった、秘密だ」


 博士はそう言うと、低く屈んで部屋の隅、床の一部に手をつけた。私もそこへと近づき、彼の手が示す場所に目をこらす。


「扉? 単なる床下収納ってことはないですよね」

「ああ。開ければわかる。きっと君が予想しているとおりだ」


 博士がその床と同化しているおよそ一メートル四方四角い扉をゆっくりと開くと、その先にあったのは金属製の階段だった。急勾配で幅も狭く、手すりはないし、先は真っ暗だ。


「秘密の地下室ですか」

「一段ずつ慎重に降りてくれ。下にいけば電灯のスイッチがある」


 そう言って博士は小型のハンディライトをどこからか取り出して、渡そうとしてくる。そんな彼に私は「あの、先に降りてくださいませんか」とおずおず頼む。


「なんだ、閉じ込められるとでも思っているのかね」

「いいえ。正直、踏み外して怪我をするのが怖いんです。私、手先の器用さには自信がありますが、足元はそれほど……。話しぶりからして、博士は既に何度か降りているのでしょう?」

「そういうことなら、よかろう」


 そうして博士が地下室へと降り、明かりをつけてくれたのを確認してから私も怖々と階段を進んでいった。照明をつけっぱなしにしておけばよかったのに。そんな私の疑問というより難癖について、問わずとも博士が説明する。


「見なかったことにして封印することを考えたのだよ。そっとしておくことに一度は決めた。しかし、マキネから若くてソマリ猫のように聡明で優美な女性が帰ってきたと聞いてな。会って話してみたくなった」

「ソマリ猫?」


 そんな喩えを用いる人物の心当たりは一人しかいなかった。私が聡明で優美か否かはひとまず考えないでおく。


「それを聞いたのはソールド・ザ・ムーンですね」

「あの酒場はそんな洒落た店名だったかな」

「私の幼馴染が家族で経営しているんです」

「ふむ。あの猫好きのお嬢さんがそうだったわけか」

「ええ、そういうことです。まぁ、今はいいでしょう。それより……」


 私は地下室を見渡す。壁際に空に近いスチールラックが一つと、中央にくすんだナイロン布に覆われた物体がある以外は、がらんとした部屋だ。布のシルエットが円錐状になっていて、小さなテントのようだった。高さは二メートルに及ばず。幅はさらに短く、目測で一メートル余り。


「ソフィー。君が彼女を気に入ってくれるのを願うよ」

「彼女?」

「心を奪われない程度にだがね」


 ばさりと、博士が布をはずした。あたかもお披露目と言わんばかりに。その手の光景はマキネでも何度か出くわした。ユービックの学生たちは時折、企業のPRイベントやマーケティング記者会見の場に出席したり部分的に協力したりするのだ。

 しかし今、記憶にあるうちのいずれのシーンとも重ならず、私は露わになった「彼女」に目を釘付けにされてしまった。


「――――まさかアンドロイド?」


 長い背もたれと肘掛けのついた椅子に腰かけるドレス姿の少女。

 顔と手足の一部から見て取れる肌の色は私や博士と比べると色素が薄く、アイボリーホワイトに近しい。髪はダークブロンドで両肩にかかるまでの長さがあり、前髪は額にかかっている。細長く光沢のある黒いヘアバンドで後ろ髪を固定し、綺麗な形をした両耳がともに晒されていた。髪色と同じ眉毛、その下にある瞼は閉ざされている。整った鼻筋で高すぎず低すぎず、そして長すぎず短すぎず。ぴたりと閉じられた切れ長の唇には生気がなかった。

 総合的に、大人とみるにはあどけなさを帯びている顔の造りなので少女と表現したが、年齢を見積もるなら私とそう変わらない。

 

 着込んでいるドレスは紫色を基調としており、合わせられているのは白。大きめのウエストリボンに、スカート部分には数層のフリル、それに対して装飾に乏しくシュッとしている長袖、そして胴体部分に刺繍。膝下まですっぽり隠れて、座っているので足首はうかがえない。全体としてはごてごてしすぎてはいない。機動性は低いと思えるけれど。


「ドレスを穴が開くほど見ているが、服飾にも詳しいのかね」


 私の先の問いに応じることなく、博士は笑ってそんなことを言う。


「憧れていてもおかしくないな。このようなドレスを着る機会がある人間はそういないだろう、まるで絵本のお姫様といった具合だ」


 自然と肯く私がいた。そうだ、彼女の姿は姫君というに相応しい。個人的に憧れがあったかと言えば、ない。はたと自分の恰好を見やれば、上下カーキの作業着。マキネにいた頃は学生らしい服装をしていなくはなかったが、荷物を減らすためにハインラインに帰ってくる際に持ってきた服はわずかだ。その中にドレスなんてない。今着ているこれは、町で購入したものだが作業着の中では一番小さいサイズだった。

 ふと彼女の胸のあたりに視線をやればドレスの上からでもその隆起がはっきりとわかる。感触までどうかは知らない。知る必要があるかはこれからの話しだいだ。


「さて。君が言うように彼女はアンドロイドだ。彼女のカタログスペック詳細と、オペレーティングマニュアルの一部がこの部屋で見つかった。それによれば、彼女はタイプ・ファミリア、つまり人間と共に暮らすのを目的として製造されたようだ」

「それはこのアンドロイドが従属的な奉仕活動を強いられず、愛玩物としても扱われずに自律していた……そう解釈してもいいのでしょうか」


 私が彼女におそるおそる近づきつつ、博士にそう訊ねると彼は微妙な表情を浮かべた。


「君の言葉選びに不満はないがね、どうにも……。安心したまえ。彼女は奴隷ではなかったようだ。いかなる意味でもね」


 いかなるだって? そんなことはないはずだ。なぜなら彼女がどんなに人に似せられて造られていたとしても、突き詰めていけば機械なのだから。人と同等の権利や価値を与えれていたとはにわかに信じられない。


「とはいえ、実際に機能の検証には至っていない」


 博士は腕に抱えていたナイロン布を床に無造作に置いた。そしてコツコツと靴音を立てて、部屋の中を歩き始める。


「起動できていないのだ。だからこそ、君は彼女を見てもあまり動揺していないのだろう?」

「そうですね。文明の遺産として、損壊したアンドロイドがユービックに飾ってありました。それに映像資料を通して、彼らが動くのを目にもしました」

「文明の遺産、か。機械都市と謳われるマキネにおいても、アンドロイドを修理し再起動させられない理由はいくつかあるが、そうした講義は不要だろう。今はそれよりも、彼女が起きる可能性を考えよう」


 自分たちが今生きている世界において、かつて人類が作りだしたアンドロイドが一体も残っていないわけではない。完全な状態の数体が大陸最大の都市の研究機関にあると話には聞く。そこまで知ったうえでマキネの学生たちがまず不思議に思うのは、なぜアンドロイドたちは「絶滅危惧種」となっているかだ。

 原因を大戦だけに絞るのは難しい。記録においては、その大戦というのは何もアンドロイド対人間のものではなかったのだから。講師たちでも答えを持ち合わせていない。確かなのは結果であり、今ある事実だ。

 すなわち、人類は新たにアンドロイドを作るテクノロジーを失い、取り戻せないまま百年以上が経過しているのだと。


「起動できる見込みがあるんです?」

「ああ、つまりだね―――――彼女の件を君に一任したい」


 急に話が二、三段階も飛躍した感覚に襲われた。

 任せる? 私にこの子を?


「当惑しているようだね」

「はい、とても」

「手短に伝えよう」


 博士が足を止める。

 彼はさっきもそんな趣旨の発言をした気がする。冗長なのは嫌だが、かといって情報不足はもっと困る。


「私には向かわねばならない地があるのだ」

「そこは……」

「無論、マキネではない。ここからさらに西の地だ。そこで都市の新設プロジェクトが半年前から開始されている。それに協力しようと思う」

「ええと、それらしい噂ならマキネでも聞きました」


 ハインラインにずっといる叔父たちは知らないだろうが。


「実は、旅行しているときに出会った若い夫婦の技術者から頼まれてな。彼らに私は命を救われた。その恩を返さずに放浪するのもどうかと思い、故郷であるここを経由してそこへと向かうのだ。彼らは先に着いてもう仕事を始めている」

「その義理を捨ててまで彼女をどうにかしたいとは思わないと?」


 そう口にして私は物言わぬアンドロイドの頬を指先でほんの軽くなぞる。質感はかなり人間のそれに似ている。だが、冷たい。いわゆる鋼鉄の身体。


「そのとおりだ。君がいなかったら、彼らには悪いがこちらを優先しただろうな。この極めて美しい造形物との邂逅を運命として、残りの人生を捧げていたはずだ。私の専門は大雑把に言うと機械設計だ。人工生命体にもかなり興味があったのでな」


 オリヴォー博士は本当に口惜しく思っている面持ちだったが、咳払いを一つすると微笑んで私のすぐ傍まで近寄った。それは彼女の傍でもある。


「しかしな、ソフィー。君との出逢いも運命だと思いたいのだよ。彼女のことだけではなく、この屋敷を君に譲ろう。どの部屋も好きに使ってくれ。そしてどうか彼女を起こしてやってくれないかね」

「えっと……」

「私は結局、彼女を見つけたが触れることさえ躊躇い、何もなかったことにしようとしたのだ。見れば見るほどに彼女は美しすぎる。それこそ何もかも放棄して彼女と共に在りたいと思えるほどにな」

「大袈裟ではありません?」


 聞いているこちらが恥ずかしくなってしまう。オリヴォー博士は私から視線を逸らし、彼女を見やって目を細めた。そうしてからもう一度私を見据える。


「頼む、若い機械技師よ。昨日のやりとりで私は君なら大丈夫だと判断したのだ。君に賭けたい。見つけた資料はすべて渡そう。調査記録をつけてくれ。なに、もし仮に十年後にでも私が帰ってきたとしても、その成果を奪いはしない。彼女のことも」


 途中から博士は私の肩に手を置き、そしてぐっと掴んで話した。そこには紳士ではなく一人の熱心な研究者の姿があった。


「わ、わかりました」


 私はその熱量に負けて、そう応じた。それを受けて博士は皺を歪めて笑った。そうして彼は事前に準備していたのだろう、いくつかの取り決めを私と交わす。

 

 眠り姫はそっとしておくべきなのでは……。

 ふとそんな考えが浮かび、そして消えた。

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