辻にこだます

尾手メシ

第1話

 久しぶりに訪れた故郷は、宗一郎にはいささか他人行儀に見えた。

 駅前に伸びる通りは、一見、以前からの面影を色濃く残しているが、ところどころに見慣れぬ店が増えており、また、見慣れた店が減っている。駅前にランドマークのごとくに威容を誇っていたデパートが撤退したことも大きいだろう。建屋はそのまま残しつつ、現在は複合テナントビルとして活用されているのか、入口には複数の企業名が並んでいる。それでも往時の人出を思えばいかにも寂しさがあり、通りに薄く差す影は、ビル影ばかりではないのだろうと思われた。

 こうした故郷の変化は、中に暮らしている分には緩やかに過ぎていくのだろうが、宗一郎にはその変化がはっきりと立ち現れて感じられて、お前はもうこの街の者ではないのだと一線を引かれているようで、なんとも言えない気まずさがあった。かつて暮らした実家を手放してしまい、この街に、もうすでに宗一郎の寄る辺がないことも、宗一郎の疎外感を刺激する。


 駅前のホテルにチェックインを済ませ、一旦荷物を部屋に置いてから、宗一郎は再び外に出た。案内のあった同窓会の開始時刻まではまだずいぶんと時間がある。こんな機会でもなければ、そうそうこの街に来ることはないだろう。そう思えばこそ、この街を歩いてみようという気になった。

 宗一郎はこの街で多くの時間を過ごした。良いことも悪いこともあった。思い出したくないこともあった。それから逃げるように故郷から距離を取り、故郷を離れ、ついには実家すらも手放して、自身に絡まる一切のくびきを取り払った。そうしてようやく向き合えるような気がした。

 駅前の通りを真っ直ぐ進むと、ほどなく大きな幹線道路と交差する。その幹線道路と交わる十字路の向こうは短いながらも商店街となっていて、そこを抜けて山手の方に行けば宗一郎が通っていた小学校があり、反対には、平野に広がるように昔からの町並みが広がっている。その町並みの中には、よく通った駄菓子屋があり、いつも遊んでいた公園があり、手放してしまった実家があるはずである。そして、忘れたくても忘れられない彼の家も、かつては確かにそこにあった。

 宗一郎は駅前通りをゆっくりと歩く。懐かしさから歩みが遅くなっているわけではない。あの日の罪悪感が宗一郎の両足に纏わりついて、まるで刑場まで歩かされる罪人のように、ひどく重いものを引きずって歩いているからだ。そのくせ、その宗一郎に纏わりつく罪悪感は、けっして宗一郎を逃すまいと、宗一郎が足を止めることを許さなかった。

 辿り着いた十字路は、ここも往時の人出から比べると、通行人は減ったように思う。ただ、それでもそこそこの人数が行き交っており、ガヤガヤと騒がしい。

 宗一郎は十字路の端に立ち、道を渡るでもなく、ただぼうっと佇んだ。そうしていると、あの日のことが鮮明に思い出される。あの日もこうして彼と二人、十字路に立った。ただし、立っていたのは、今宗一郎がいる駅側ではなく、道路を渡った向こう側、商店街のほうである。

 宗一郎が道路の向こうに視線を向けると、対面にいた少年と目が合った。思わず宗一郎の肩がびくりと震える。少年はさっと身を翻して、商店街へと駆けていった。

 その少年の後ろ姿が、在りし日の彼の後ろ姿に重なって見えた。




「辻占って知ってるか?」

 そう宗一郎に訊いてきたのは雅紀である。小学校からの帰り道でのことだった。

 雅紀の家は食堂を営んでいて、日が暮れてからは酒も出し、居酒屋も兼ねたような店だった。必然、雅紀は家で一人で過ごす時間が多く、その寂しさを埋めるためなのかどうかは分からないが、テレビや本に親しむことが多かった。その雅紀がとくに傾倒していたのがオカルトである。テレビのオカルト番組はもちろんのこと、オカルト雑誌も読み耽るような熱の入れようで、その知識量は相当なものがあり、友だち連中の中でも一目置かれる存在だった。

 その雅紀に出し抜けに訊かれて、宗一郎は首を横に振った。

 それに雅紀は満足気に頷く。ややもったいぶるようにしてから、雅紀は説明を始めた。


 辻占とは、古来から伝わる占いの一種である。やり方はいたって簡単で、夕方、逢魔が時に辻、つまり交差点に立つだけである。逢魔が時というのは人の世と魔の世が混じり合う時間であり、交差点とは、二つの世界の接合部である。そこに立って、ただじっと耳を澄ませる。そうすると、人に混じった人でないもの、それは神であったり魔であったりするのかもしれないが、ともかくもそういった人に紛れた超常のものが、気まぐれにポツリポツリと言葉を零すのだという。その言葉を聴き取って、先のしるべとするのが辻占である。

 辻占の特徴的なことは、事前の準備や道具が一切不要なことである。ただ辻に立てばそれでよく、あとは言葉を待つだけで占いは成る。


 説明を受けて、宗一郎はなるほどと頷く。いかにも胡散臭い怪しさが、子ども心を浮き立たせる。だから、二人の間で話がそう進んでいくのは、これは必然だったのかもしれない。

「今からやってみようぜ」

 そう言い出したのは、はたして宗一郎だったのか、雅紀だったのか。どちらが先だったのかは、さして重要ではない。重要なのは二人がそれに同意し、通学路を離れたことだ。折しも冬の陽は深く頭を垂れて、逢魔が時は迫っていた。


 二人連れ立って通学路を戻り、しばし進んだところで角を曲がる。そうして少し歩けば、商店街へと行き当たる。商店街の中を、道草を見咎められないかとビクビクしながら通り抜け、その先が目的地の十字路だった。

 十字路なんて珍しくもない。普通に歩いていれば、通学路上にもいくつも十字路がある。そんな十字路の一つを適当に選んで、そこで辻占を行ってもよかったのかもしれないが、人に紛れたものの声を聴こうとすれば、この十字路以上に相応しい場所は思いつかなかった。

 商店街から駅へと抜けていく道と、大きい車通りが交差するこの場所は、ひっきりなしに車と人が行き来する。そこに人でないものが紛れていても、誰も気にするものはいないだろう。

 十字路の隅に、二人並んで立った。

「それで、どうすればいいの?」

「このまま立って、声を聴けばいいのさ。でも、聴こうとしちゃダメだぞ。聴こうとするんじゃなくて、聴こえてくることが大事らしいから」

「何それ。つまりどうするのさ?」

「とりあえず、立ってればいいんじゃない」

 子どもが二人で騒いでいても、気にするものは誰もいない。ただ、前を通り過ぎていくだけである。

 黙って前を向いて宗一郎は立った。隣で雅紀が同じようにしているのを気配で感じる。

 宗一郎の耳に届くのは、雑多な音である。アスファルトを踏む靴音、友だちと連れ立って歩くものの話し声、自転車の鳴らすベル、行き交う車のエンジン音。

 わずかな息遣いが聴こえる。これは宗一郎のものか、雅紀のものか。浅く、短く、ゆっくりと。繰り返し聴こえる。

 風で街路樹の葉の一枚が揺れて、隣の葉と擦れている。囁くような秘めやかさの中に、鳥の羽ばたきが割り込んでくる。

 暮れる寸前の夕陽に照らされて、全ての影が長く伸びている。伸びた先で互いに溶け合い、別の面相を見せて、世界に闇を塗りつけている。

 前を行き過ぎようとした男の顔が、闇の中でぐにゃりと溶けた。晒された伽藍堂の中にこだまして、かすかな言葉が聴こえた。


 火事だ。


 男のような声でもあり、女のような声でもある。年若い少年の希望があるようでもあり、年老いた老婆の諦念があるようでもある。人のような言葉であり、人でないような言葉である。

「聴こえた?」

「聴こえた」

 宗一郎が思わず雅紀に囁くと、即座に雅紀が囁き返した。

 背筋が震える。

 冬の寒さのせいではない寒気が、足元から一気に駆け上がってくる。

 もしかしたら、自分たちはとんでもないことをしているのではないか。そんなことに今更思い至って、宗一郎は怖気おぞけおののいた。

 伽藍堂の男は、そのまま何事もなかったように歩き去っていった。

 男が目の前をすっかり通り過ぎてしまってから、宗一郎はいつの間にか詰めていた息を吐いた。肩から力が抜ける。いささか気が緩んだところで、ふいに気がついた。

 隣の雅紀からは、変わらず強張った気配が伝わってくる。いや、ともすれば、さっきの言葉が聴こえたときよりも、その強張りはなお酷いように思える。

 理由はすぐに分かった。道行く人の誰も彼もが闇の中でぐにゃりと顔を溶かし、その伽藍堂を晒している。伽藍堂の中でこだました言葉は、隣の伽藍堂の言葉と響き合って、別の伽藍堂へと飛び込んだ。

 伽藍堂を伽藍堂がこだませて、伽藍堂が響き渡る。


 火事だ。

 火事だ。

 火事だ。


 人の声のようであり、獣の叫びのようでもあった。それが宗一郎の耳から飛び込んで、宗一郎の伽藍堂の中でこだまする。

 宗一郎の口を出たものが、今度はどの伽藍堂に飛び込んでいったのかは分からない。

「火事だ」

 今度ははっきりと聴こえた。男が街の一点を指さしている。その手に導かれるように街を振り仰ぐと、夕暮れの街をなお染め上げるように、どす黒い煙が濛々もうもうと空に立ち昇っている。闇を拒絶するがごとく、炎が舌先を踊らさせいた。

「俺の家が燃えている」

 隣で雅紀が青くなって震えていた。宗一郎と目が合うと、弾かれたように駆け出して、その背中はすぐに見えなくなった。

 雅紀の後を追うように、何台もの消防車がけたたましいサイレン音をこだませながら走っていく。宗一郎は一歩も動けず固まったまま、その全てを見送った。


 宗一郎が火事の顛末を知ったのは、大人の噂話の中でである。

 やはり燃えたのは雅紀の家の食堂で、焼け跡からは黒焦げの人間が一人出てきたのだという。どうやらそれは雅紀の父親であるらしく、火事の原因は失火で片付いたということだった。

 ただ、大人たちは、雅紀の父親の自殺なのではないかと囁き合っていた。

 大人たちが無責任な噂話に興じる横で、宗一郎は恐怖にすくみあがっていた。

 あの火事は自分のせいではあるまいか。

 自分たちが不用意に行った辻占が、あの火事を呼び込んだのではあるまいか。

 そんな荒唐無稽な考えが宗一郎の頭にこびりついて離れない。

 当の雅紀は、あれから一度も学校に姿を見せることはなかった。そうしてそのまま担任教師から転校したことを告げられて、以降の行方はようとして知れない。


 宗一郎は、あの日、雅紀と二人で辻占を行ったことを、両親はおろか誰にも話さなかった。もし話してしまえば、宗一郎の罪はたちどころに詳らかになり、今度は宗一郎の家が燃え上がるのではないかと思えて恐ろしかった。

 ひたひたと背後に寄り添う罪悪感から逃れるように、高校は県内でも遠方の学校へと進学し、寮に入ることを口実に街から距離をとった。大学はさらに遠く県外を選んで、これでいよいよ街から離れてしまった。就職先も故郷とは縁も所縁もない会社で、それでようやく息ができた。

 そうして落ち着いて考えてみれば、やはり辻占が火事を呼び込んだなどというのは、これは宗一郎の不気味な妄想だったのだろう。初めて火事を身近に感じ、その恐ろしさに慄く心が、いもしない怪物を生み出したのだ。それが宗一郎の身の内で散々に暴れて、記憶の中の雅紀を焼いたのだ。




 ずいぶんと長い間、交差点に立っていたようである。

 宗一郎の意識が現実へと追いついたときには、陽は暮れかけていた。時計を見なければはっきりとは言えないが、同窓会の開始時刻が迫っていることは明白だった。ことによれば、もうすでに始まってしまっているかもしれない。

 空は茜色を失いだして、高いところから黒く染まりだしている。あわいは互いの色が混じり合っているのか、青とも赤とも紫とも言えないものへと変じて、空に横たわっている。

 地上の影は長く引き伸ばされて、伸びた先で混じり合い、一個の異形のごとくなっていた。

 同窓会の会場へ向かおうときびすを返しかけたところで、宗一郎の視線はある男を捉えた。なんの変哲もない男である。少しよれたスーツを着て、片手にカバンを提げている。革靴のかかとがアスファルトを叩く硬い音が、雑踏に紛れて微かに聞こえる。髪は後ろに撫でつけてあって、顔は逆光でよく分からない。

 だしぬけに、男の顔が闇の中でぐにゃりと溶けた。晒された伽藍堂の中で言葉がこだまする。

 宗一郎の意識の隙間を縫うように、幽かな声がこだまする。

 男とも女とも別のつかない声。

 少年とも老婆とも別のつかない声。

 人とも人でないとも別のつかない声。

 それが宗一郎の伽藍堂の中でこだまして、身の内の怪物が細く幽かな叫びを上げた。

 街に不穏の影が立ち昇る。

 街に喧騒がこだまする。

 こだました言葉が、やおらに雅紀の形をとった。雅紀をかたどった何かは、さっと身を翻して商店街の向こうへ駆けていく。

 雅紀はあの時躊躇せず、一心不乱に駆けていった。自分が帰るべき寄る辺へ向けて、青い顔で駆けていった。

 宗一郎に寄る辺はない。宗一郎をこの街に留めるくびきは、その一切が失われている。

 行き場をなくした宗一郎は、どうすることもできずに、ただその場に立ち尽くしている。呆然と佇むその様は、くしくも、あの日の宗一郎そのものだった。




 新聞に小さく記事が載っている。駅前のボヤ騒ぎを伝えるもので、夕暮れ時に一時騒然となったものの、火は小火にもならずに消し止められたのだという。ただ、死亡者一名と書き添えられていた。

 大人たちが無責任な噂話に興じている。あれは事故だったのだ、いや自殺に違いない、何か事件に巻き込まれていたのでは。かしましいことこの上ないが、必ず共通して語られることがある。

 燃えた男のその顔は、焼け崩れて伽藍堂になっていたのだという。その伽藍堂に音がこだまして、いわく、死者の声が響いていたのだという。

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