2
雑踏の中を歩く。朝の通勤時の新宿は、いつも過剰に人間が多い。雨が降っているとなおさら、傘の分まで人の数が増えたように感じてしまう。雨の日は全員仕事を休めばいいのにと考えるが、自分もそんなことでは仕事を休めない人間のひとりなので、他人のことはとやかく言えない。
こういう場所にも、変わらず首は落ちている。
傘を差して歩く人々の、その足元のわずかな隙間に。あるいは、信号待ちの横断歩道の向こうの歩道に。または散らかったごみ捨て場に。階段の一番下に。向かいの道路に。どこにでも。近頃の俺の視界にはいつも、長い黒髪を散らした首が落ちている。
それが実体をともなっていないことはわかっている。あれは俺にしか見えないし、落ちているだけで何かをしてくるわけでもない。最近はもう見慣れてきた。それでも、予想もしないような場所に落ちていると、どきりとすることはある。
「あっ、すみません」
傘にとん、と何かが当たった。衝撃のした方を振り返ると、俺のすぐ横をスーツ姿の若い女性が謝りながら駆けていった。今の衝撃は、彼女の傘が俺の傘に当たったものだったのだろう。すみません、すみません、と周囲に繰り返しながら濡れたアスファルトを駆けていく二十歳くらいのその女性は、スーツを着慣れていないように見受けられた。新入社員なのかもしれない。慌てぶりからして、遅刻でもしそうなのだろうか。そういえば乗っていた電車が五分ほど遅延していた。俺自身は時間に余裕を持って動くタイプだが、この世にはギリギリで動くせいで、ちょっとしたトラブルに対応できないというタイプの人間もいる。妻の美咲がそうなのだ。俺は美咲と付き合ってから、遅刻というものにかなり寛大になった。
俺の会社の始業時刻はまだ三十分以上先だ。ゆっくり歩いても余裕がある。だから点滅した信号は、走って渡らず待つことにした。すると、あの着慣れないスーツの女性が横断歩道を走って渡る姿が見え、道の先で何かを蹴ったのも見えた。いや、何かではない、首だ。そしておそらく、蹴ったのでもないだろう。他人にはあれは見えないはずだ。
信号が完全に赤になった。目の前を横切っていく車と車の間に目を凝らし、俺は首の様子を伺った。首は蹴られた衝撃で、ころころと転がっていった。
二、三度回転した首は、やがてぴたりと動きを止めた。
こちらを向いている。
真っ黒い瞳と目が合った。心臓が跳ね上がるが、俺は声を上げない。
ああやっぱり、と思った。その顔が誰のものか、俺には最初からわかっていた。
首は何も言わない。無表情のまま、目だけを大きく見開いて俺を見ている。俺も視線を逸らさない。じっと見つめ合う。そのまま数十秒が経過する。
信号が青に変わった。周囲の人々が一斉に歩き出し、俺も押されるようにして歩き出した。その瞬間、こちらを向いていた首はぱっと姿を消し、また十数メートル先の、俺の視界の隅に現れていた。いつものように後ろを向いていて、長い黒髪と後頭部しか見えない。
俺は静かに息を吸い、歩きながら決心した。
いい加減にもう、決着をつけよう。だって俺にはもう、美咲がいるのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます