第4話 『アイスコーヒー』

 朝も早くから忙しなく響く蝉の声。その音に煽られるかのように感じる気怠さで、思わず欠伸が出てしまう。

 窓を開放し涼を求めるためにぶら下げた風鈴は、海から吹く潮風に揺れて透き通る硝子の中で揺れる度、涼やかな音色を響かせた。

「ふわぁぁぁ……」

 時計を見ると短針が指し示す時間は十一を過ぎたところで、お昼ご飯はもう少し先だと言う事に溜息が出る。

 畳の上に放り出されたままの漫画雑誌を手繰り寄せ、寝転がってページを開くが、既に一度読んでしまったページからは、新しい発見は得られなかった。

『退屈』

 その二言だけが頭を回る。

「あーあ」

 扇風機から聞こえる振動が気になって仕方が無い。それでも、スイッチを切って音を止めようと思えないのは、単純に暑くて仕方が無いと思っているからだった。

「つまんないの」

 今頃、友人達は何処で何をしているのだろうか。

 夏休みという期間に入り、仲の良い友人はそれぞれの休日を楽しんでいる。始めの頃こそ早朝のラジオ体操に共に通っていたというのに、やれ家族と出かけるだの、旅行の予定があるのだのと言って、ラジオ体操に参加する人数は一人ずつ欠けていった。

「お土産……あるのかなぁ?」

 今年は何処にも出かけられない。始めからそう宣言されてしまっているため、何も期待出来ない夏休み。それがとてもつまらないと感じてしまう。

「今日、どうしようかなぁ」

 自転車を漕ぎ少し遠出をすれば海水浴はお手軽に出来るのだが、生まれてからずっとこの島に暮らす人間にとって、それは物珍しくも何ともないもので。泳ぎ始めた時は楽しくても、海から上がると身体は潮でべたつくし、日焼けをして真っ黒になるしで悪い印象もついて回る。なによりも、一人でそれを楽しむということが、どう考えても面白くはなかった。

「……喉、渇いたな」

 開いていた漫画雑誌を閉じると、怠い身体を無理矢理起こし台所へと移動する。調理台の前で忙しく動き回る母親の後ろ姿を眺めながら真っ直ぐに向かうのは冷蔵庫だ。

「今日のお昼は何?」

 緑色の大きな年期の入った冷蔵庫。冷蔵室の扉についたハンドルを握りながらそう尋ねる。

「素麺よ」

「……素麺」

 この夏、何度それを口に運んだだろうか。食べ飽き始めているメニューに対し浮かべてしまう表情を悟られないように、冷蔵庫の中へと視線を向ける。

「…………」

 冷蔵室に大雑把に整理されている食材。食べ物に用事はないので飲み物へと視線を向ける。

「げぇ。ゴーヤージュースあるじゃん」

 当たり前の様に冷蔵庫に鎮座する緑色の液体に思わず舌を出して文句を垂れる。

「お祖母ちゃんが作ってくれたんだから、文句言わないの」

 栄養満点で夏バテにも効くということから、毎年この季節になると冷蔵庫で存在を主張するその飲み物。苦くないようにと蜂蜜を多めに入れレモン汁でさっぱり感じる様に工夫されていると言われても、なかなか消えない青臭さと独特の苦みが苦手で仕方が無い。

 その他に有る物は作り置いてある麦茶と飲料メーカーが出しているパックのアイスコーヒー。仕方なしに麦茶を取り出すと、戸棚からグラスを取り出し中身を注ぐ。

「あ。そうだ」

 キュウリを切り終わった母親がフライパンを準備しながらこう続けた。

「麦茶飲むなら、ついでにお祖母ちゃんにコーヒーを持って行って頂戴」

 割られた卵が二つ。お椀の中で揺れている。それを箸でかき混ぜてから、フライパンに油を伸ばし焼いていく。

「えーっ」

 反射的に文句を口にしたら、こちらを見ることもなく「お母さん、今、手が離せないの」と返されてしまった。

「……もう。しょうがないなぁ……」

 言われた通りもう一つ。少し大きめのグラスを取り出し冷蔵室を開ける。取り出した氷を四つ入れ、今度は冷蔵室からコーヒーのパックを取り出し注ぎ入れる。真っ黒だと思っていた液体は、ほんの少しだけ向こう側が透けて見えるから不思議だ。

「牛乳は?」

「お祖母ちゃん、牛乳要らないっていつも言ってるから、そのままでいいよ」

「分かった」

 もう一杯だけ。自分用に麦茶を注ぎ足してから用意した飲み物を二つ盆に乗せ、適当に掴んだお菓子を付けて台所を離れる。

「そうだ! お母さん!」

 廊下に出て一度足を止めてから、料理を続ける母親に向かって尋ねた。

「お祖母ちゃん、何処にいるんだっけ?」

「何で? 二番座に居ないの?」

「ううん。今日は見てないよ」

 そこで一度、母親は料理の手を止め振り返る。

「そう? だったらまだ畑にいるのかねぇ?」

 折角用意したのに。

 お盆の上で汗をかき始めているグラスを見ながらどうするべきか悩んでいる時だった。

「なま、けーやびたん」

「あ! お祖母ちゃん」

 仏間の方から聞こえてきた声に顔を上げ急いで向かうと、被っていた帽子を脱ぎ乍ら祖母がゆっくりと縁側に腰を下ろすのが目に入る。

「お祖母ちゃん、お帰り」

「あい、伶子ねぇ。ただいまよぉ」

 持っていた鎌を脇に置き、首に掛けていたタオルで汗を拭いながら祖母は笑う。

「畑、もう良いの?」

 そんな祖母の隣に盆を静かに置くと、並ぶようにして腰掛け尋ねた。

「今日はもう終わりさぁ」

 グラスの中で転がる氷。それが硝子の淵に当たり風鈴とは違った涼しげな音を奏でる。

「お祖母ちゃん、はい」

「ん?」

「コーヒー」

 溶けた氷の分だけ嵩が増し、味の薄くなりつつあるそれを祖母に手渡すと、嬉しそうに頷きながら祖母はグラスを受け取ってくれた。

「ありがとうねぇ。嬉しいさぁ」

 冷たく冷えたアイスコーヒー。グラスが傾き祖母の口元へと中身が流れ込んでいく。

「やっぱり美味しいねぇ」

 一口飲んで小さく零す息。

「沢山働いた後のご褒美は、何よりも最高だねぇ」

 歳の数だけ刻まれた皺だらけの手で、大事そうに抱えられたグラス。小さく揺らしながら日の光を眩しそうに眺める祖母は、何処かしら寂しそうに見えて思わず口を開いた。

「お祖母ちゃんさぁ、何で、いつも、アイスコーヒーなの?」

「え?」

 言葉にして、そう言えばと思う。冷蔵庫にある飲み物は季節や行事で変わるのに、何故か昔からパックのコーヒーだけは姿が消えることは無かった。そしてそれは必ず、一日のどこかで祖母が美味しそうに飲んでいるのだ。

「コーヒーなんて苦いだけで、そんなに美味しくないじゃん」

 お盆の上に乗せて持って来たお菓子の中から、煎餅を手に取りビニールを破く。

「そんなことないさぁ」

 祖母は一度グラスをお盆に戻すと、最中を手に取り丁寧に包みを解いた。

「確かに伶子には苦いって感じるかもねぇ。でも、おばぁには、コーヒーはとっても美味しく感じるんだよ」

「何で?」

「何でかねぇ?」

 ふと湧いた小さな興味。その好奇心をどう満たそうかと考えを巡らせていると、不意に祖母が口を開きこう呟いた。

「おじぃと始めて飲んだコーヒーが、とっても美味しかったからかねぇ……」

 祖母から聞く昔話。いつもは興味を持って耳を傾けたことがないため気が付く事はなかった。だが、生きた時代、掛かった苦労、その一つ一つが重く言葉を失ってしまう。

「始めて喫茶店に行ったとき、おばぁはもう五十も過ぎていたよ」

 普段はなかなか行く事がないその店は、祖父が祖母を連れてドライブを楽しんでいたときに訪れたのだという。定食屋しか知らないと思っていた祖父が選んだ店に、祖母はとても驚き恥ずかしかったのだと言葉を続けた。

「おじぃもおばぁも、始めて入る店だったからねぇ。何をどう頼んで良いのか分からなかったさぁ」

 それでも勇気を出して頼んだのが一杯のアイスコーヒー。

「グラスがね、とっても透き通っていてねぇ。ストローでかき混ぜると、氷がカラカラって綺麗な音を立てるんだよ」

 飲んだときに感じた苦みに驚きつつも祖父の方へと視線を向ければ、向かい側で恥ずかしそうに視線を逸らすその態度が面白くて笑ってしまったのだと、懐かしそうに思い出を振り返る。

「おじぃなりの感謝の気持ちだったのかねぇ。でも、おばぁはとっても嬉しかったよぉ。おじぃが一生懸命、おばぁのために考えてくれたんだなぁって直ぐに分かったからねぇ」

 そこで漸く気が付いた。

「……おじぃとの思い出があるから、美味しいって感じるの?」

 その言葉に祖母は驚きを見せた後、恥ずかしそうに笑いながらこう言葉を返す。

「どうだろうねぇ。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし」

 そこからは暫く二人とも、言葉を交わすことなく外を眺めた。

 相変わらず煩く鳴く蝉の声は三種類。ミンミンゼミとクマゼミとアブラゼミの声が折り重なり、耳からも暑さを感じてしまう。

 時々吹く海風が風鈴を鳴らす事で一瞬だけその効果は消えるが、直ぐにまた熱気が戻り元通り。

 空に浮かぶ入道雲は真っ白く、後ろに広がる青をより強く見せる。

「……今日は、もう、出かけないの?」

 煎餅を食べ終わり、チョコレートに手を付けながら問いかける。

「どうしようかねぇ」

 祖母は食べかけた最中の最後の欠片を口に放り込むと、味が更に薄くなったコーヒーで流し込みながら答えた。

「天気を見てから決めようかねぇ」


 あれから十数年。普段、冷房の効いた部屋で生活をしている人間にとって、茹だるような暑さは正直キツイと感じてしまう。それでも、親族が集まったこの家は、相変わらず空調機器というものを設置する予定は無いようだ。

「善達叔父さんきたよー! 伶子ぉー! こっち手伝って!」

「はぁい!」

 今はもう、この家に無い祖母の姿。仏壇に置かれた位牌に並ぶ二つの名前の前には、細く昇る線香の煙が風にゆれている。

「あっ! 伶子」

「何? 母さん」

 お盆の上に乗せられた麦茶と小さな茶菓子。それを持って座敷に移動しようとしたところで母親に呼び止められた。

「後でコレ、仏壇にうさげといて」

 向けた視線の先にはお膳の上に乗せられたお菓子が並べられた平皿。

「分かった。取りあえずこれ、善達叔父さんとこ持って行くね」

「よろしくね」

 座敷には既に何人かの姿がある。正直この場に居ることは余り好きではないが、それでも毎年の事なのだから我慢して時間をやり過ごす。

「久し振りだな、伶子」

「お久しぶりです」

 聞かれる話題は毎年決まって結婚のこと。いい加減この話題を振るのをやめて欲しいと遠回しにアピールしてみても、彼等がそれを聞き入れることは無い事も理解はしていた。

「どうね? 叔父さんが、良い男紹介しようか?」

「大丈夫です。まだ、考えてないので」

 そそくさとその場を去り廊下で小さく溜息を一つ。もう少し……あと少しでこの行事も終わるだろう。

「母さん。これ、仏壇にあげれば良いんだよね?」

「そうだよ」

 残された作業は用意されたお菓子を仏壇に供えること。

「……あ! そうだ」

 お膳に手を掛けたところで、一度手を止め母親に尋ねた。

「アイスコーヒー。あれ、まだ残ってたよね?」

「あるけど。どうするの?」

「あ、うん。ちょっとね」

 冷蔵庫を開けて取り出したパックのアイスコーヒー。祖母が亡くなってからは冷蔵庫から姿を消すことも増えたが、今日は買い置きが有ったようだ。

 用意するグラスは二つ。どちらも同じだけの氷を入れて、黒い液体を注ぎ入れる。

「ねぇ。残ったの貰って良い?」

「いいけど」

 パックの中に中途半端に残ったコーヒーを三つめのグラスに入れ仏間に向かう。料理の片付けられた仏壇に持って来たお菓子とグラスを二つ。炊かれた線香から香る月桃の匂いに表情を和らげながら、位牌に向かってこう呟く。

「はい、おばぁ。アイスコーヒーだよ」

 風を送る扇風機の振動音と賑やかな親族の笑い声。

「おじぃの分と二つ。冷たくて美味しいと思うからさ」

 嵩の少ない最後のコップは自分で手に取りグラスを上げる。

「今年は自分も、一緒に飲むからね」

 一人だけで行う乾杯。その行動に意味なんて無い。それでも、ほんの少しだけ。今は居ない二人の時間を感じられるような気がして嬉しかった。

「……やっぱり、苦いや」

 未だ慣れることのないこの味に寂しそうに肩を落とすと、不意に背後で風鈴が小さく鳴った。

「え?」

 聞こえない。それでも何となく、分かる事。

「ううん。そんなことない。良かった」

 グラスを置いて、小さく両手を合わせて。心の中で声に出さずに言葉を紡ぐ。


『このコーヒーやー、とっても美味しいねぇ。んじ、おじぃもそう思うでしょ?』

『ふんとーやー。でーじまーさん』


 何となく。

 仏壇の向こうで、二人が嬉しそうに笑って、そう言っているような気がした。

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