第3話 『浜辺の漂流物』

 日が昇るのが早くなってきたこの時期は、早朝から散歩をするのが楽しいと感じてしまう。

 海から吹く風に乗って漂う潮の香り。

 履いていた靴を脱ぎ、素足になって白い砂の上を歩くと、背後にできる小さな窪みが追い掛けるようにして残されていく。それを確かめた後で両手を大きく広げ、それを真っ直ぐ空へ伸ばしてから、思いきり吸った息をゆっくりと吐き出す。それを数回繰り返す。たったそれだけの事なのに、前日にあった嫌なことがリセットされて自然と笑顔になるから不思議だ。この瞬間が本当に堪らない。それが何よりも嬉しくて仕方無い。

 だからこそ、いつもよりも早起きをして、朝日を浴びながらぶらりと歩くことを続けている。この時期の散歩は、欠かせない日課となっていた。

 誰も居ない浜辺に一人。

 寄せては返す波と戯れるように、乾いた砂から湿り気を帯びた砂へと歩を進める。体重により出来る窪みの中に染み出す塩の混じる水は、打ち寄せる波にさらわれ、残された痕と共に視界から消えて無くなってしまう。その呆気なさがつまらないから、何度も何度も波と追いかけっこを続けてしまう。

 波にズボンの裾を濡らされないように、ギリギリのところで避けて近付いて。そんなことを繰り返している時だった。

「……あれ……は?」

 朝日を浴びて煌めく水面に漂う光。それに気が付き動きを止める。音と共に足下を濡らす波が、小さな飛沫を上げて衣服に跳ねた。

「何だろう?」

 波の間でゆらゆらと揺れる小さな光。目を凝らしそれが何かを確かめると、こちらの視線に気付いたかのように、それは波に乗り少しずつ近付いてきた。

「……瓶?」

 音に合わせて行ったり来たり。そうしてゆっくりと流れ着いたそれは綺麗な硝子の瓶だ。

「何だろう? これ」

 拾い上げて中を見ると、綺麗な貝殻が一つ。閉じ込められるようにして乾いた音を立てている。

「へぇ」

 瓶を光に翳すと、中に閉じ込められた巻き貝が光を通し不思議な色に輝いた。

「何の貝殻だろう?」

 見たことはない。初めて見るその形。不思議な貝殻は、一体何処から流されてきたものだろう。

「変な事もあるんだな」

 それでも、綺麗だから、何となく。そんな気持ちでそれを眺める。

「……持って、帰るかな」

 多分、この瓶の持ち主は現れないだろう。それは何となく分かった。


 瓶の中に閉じ込められた貝殻は、図鑑を見てもどう言った生物のものなのか分からなかった。

 見た目としては蚕貝にとても良く似ていたが、蚕貝のように真っ白なものではなく、全体的に薄い虹色をしている。

 否。正確には滑りの良い表面をなぞるようにして、無数の線が横縞に並んでいるのだ。それが赤から青へと、美しいグラデーションを描くようにして連なっているのが分かる。

 僅かに見える内側にあるのは螺鈿だろうか。この形状だと夜光貝でしか見れないはずのそれは、光が当たる部分が美しく煌めき、真珠層の上で淡い色がくるくると踊っていた。

 持ち上げて光で透かすと、表面の虹色と内側の螺鈿が絡み合い複雑な色を放つ。とても不思議な貝だ。そう思った。


 その瓶を見つけたからだろうか。何故か、朝の散歩の時に、同様の瓶を見つけることが多くなった。

 その瓶を見つけるのは決まって、朝の散歩の時だけである。

 朝の散歩でも、他の散歩者が居るときは何故かその瓶が流れ着くことは無い。野良犬が、何かを探すように砂浜を歩いている時ですら、その瓶が波間を漂う事は無いのだ。

 まるで狙ったようなタイミングで現れる小さな瓶。

 その中には決まって、不思議な貝殻が一つ。入っていた。


 ある日、溜まった瓶を試しに一つ、沖に向かって放り投げてみた。中身は空っぽ。しっかりと蓋をして、力一杯大きく振って。

 出来るだけ遠くに落ちるように勢いをつけて空に放つ。

 小さな瓶は限られた重さしか無いため、強い風が吹けば簡単に軌道がずれる。それでも、思ったより遠くに着水したそれは、ゆらゆらと小さなうねりを描く波に吸い込まれるようにして沖へと流されていった。


 その瓶が戻ってくる可能性は考えていなかった。

 単純にどうなるのかという興味が強い。ただそれだけだ。


 瓶を流してから数日は、海岸に貝殻の入った瓶が流れ着くことは無かった。

「……そう、だよな」

 そう言葉にして始めて、何かを期待している自分に気付き驚いて目を見開く。

 回収した貝殻は当に十を超えており、捨てられずに増えてしまった瓶が行き場をなくして籠の中で放置されていると言うのに、これ以上何を望むのだろうと。

 それなのに、心のどこかでは果てしなく広がる海原へ向かって放り投げた空の瓶に、新たな貝殻が詰められ流れ着くことを、今か、今かと待ち望んでしまうのだ。

 貝殻が初めて見る不思議な色をしているからなのか、その瓶にいつかメッセージが入るかも知れないという願いからくるものなのかは分からない。

 それでもこうやって、毎日朝焼けに包まれていく世界を眺めながら、波間に漂う小さな硝子瓶を探してしまう。

 新たな瓶が海岸に流れ着いたのは、それから数日後のことだった。


 新しく流れ着いた瓶の中には、今までとは異なり平たい物が入っていた。

 蓋を開いて取り出し感触を確かめててみると、柔らかいようで固いような不思議な手触りをしている。

 大きさは意外と大きく、広げた手の平よりも少し小さい程度。随分薄いそれは、硝子のようであり鱗のようでもあった。

「これは?」

 試しに指で摘まんで光に翳してみる。すると、それは貝殻と同様、透き通った虹色に煌めく。

「…………鱗?」

 言葉にしてみて改めて首を傾げるが、それを音として外に出してしまったことで、この不思議なものは魚の鱗にしか見えなくなってしまった。

 ただ、この鱗のようなものの大きさがおかしいことは一目見て分かりはする。

 これは一体、どんな魚の鱗だというのだろう。

 一つだけ分かることがあるとするならば、図鑑にもネットの海にも、この鱗のような物に関する情報は存在しないのだと言う事。多分、この疑問に対して答えを見つけることはほぼ不可能に近いだろう。何となく。そんな気がした。


 鱗のようなものを見つけて以降、新しい瓶が打ち上げられる事は無くなった。

 単純に相手が瓶を流さなくなったからなのか、潮の流れが変わったために此処とは別の海岸に流れ着いているからなのかは分からない。

 それを寂しいと感じながらも、相変わらず早朝の散歩という日課は続いてはいる。頭の何処かでは、また珍しい虹色の何かが詰められた小さな小瓶を見つけられるのかも知れないという期待を抱きながら。


 いつの頃からだろう。

 相変わらず小瓶が海岸に流れ着くことはないのだが、その代わり、風に乗って不思議な音が聞こえてくることに気が付いた。

 波の音に合わせるようにして耳に届く小さな音は、まるで透き通るような声の女性が奏でる優しい歌のようで。気が付けば歩みを止め、無意識に耳を傾け聞き入ってしまう。

 音の出所が気になり海岸を隈無く歩き回ってはみたものの、近付いたと思えば遠くの方から聞こえてくる。そんな風に音が移動し捉える事が出来ない。

 その音は小瓶同様、他人の居ない早朝の海岸という条件を満たしたときだけにしか聞こえないものではあった。

 それでもその音は、とても心地良く辺りに響く。

 強い主張をすることは無く、短い一言の言葉でも発してしまえば直ぐに消えてしまいそうな。それほどにまでか細い乍ら、何処かしら懐かしく、そして悲しく響く。

 やがて早朝の散歩という毎日の日課は、届かない瓶探しという目的から、この不思議な歌を聴くものへと変化していった。

 聞こえてくる歌はどれもこれも、始めて聴くものばかりである。

 実際、これが音楽だと言って良いのかは分からない。

 そもそも、それが人の声であるという確証すら持てぬまま、この不思議な音に耳を傾ける日々が続いている。

 それでも、心に染み渡る柔らかな旋律は、今では無くてはならないものとしてその存在を確立してしまっていた。

 いつかそれが、叶わぬ夢だとしても。

 この声の持ち主を、是非この目で拝んでみたい。

 そんな淡い期待を胸に、今日もまた白い砂浜の上に足跡を付けて回る。


 ある日のことだ。

 その日は珍しく、いつもの時間よりも一時間ほど遅れて海岸にやってきた。

 単純に、前日の仕事が長引き、就寝時間がずれてしまったため寝坊したのが原因である。

 いつもよりも眠いと感じる頭は、未だ半分だけ微睡みに捉えられたまま、何度も何度も繰り返す欠伸のせいか目尻に涙がうっすりと溜まる。

 一際大きな欠伸は小さな声と共に吐き出され、辛うじて留まっていた涙が頬を伝い拭くの上へと流れ落ちた。

「……ふぁぁあ………ぅ」

 怠い体を無理に覚醒へと導くべく、思い切り背を伸ばし思考を切り替える。

 無意識に探してしまう音は、ここ最近ずっと耳に馴染むのが当たり前となってしまっている、あの旋律である。

 柔らかく、心地良い、蕩けるような透き通る音を探して、耳を欹て瞼を伏せる。

「……聞こえ……ない……?」

 しかし、残念なことに、この日に限って欲しいと願った音は聞こえてくることは無かった。

「来る時間が遅かったのか?」

 今までは、多少の誤差があっても十分少々。一時間近く遅刻したことは無いため、時間がずれたときの音の変化があるなんてこと、考えもしなかった。

 しかし、何度口を閉ざし、耳に意識を向け音を探しても、求めるものが風や波に乗って届くことは無く、ただ、ただ、時間だけが過ぎていく。

「仕方無いな」

 まぁ、こんな日もあるさ。たった一日だけの失敗だ。悲観しても仕方が無い。

 そう心を切り替えて散歩を楽しもうと足を踏み出した時だった。

「……ん?」

 見慣れないものが視界に入り思わず寄せた眉間の皺。それが何であるかを確かめるべく目を凝らせば、それは俯せに倒れている女の人だと言う事に気が付いた。

「なんっ……」

 人間、咄嗟の事に機転なんて上手く効くもんじゃない。動揺を隠しきれないまま恐る恐る近付き、震える声で無事を確認してはみるが、相手は意識を失ったまま、引いては返す波に揺られるようにして倒れていた。

 慌てて救急車を呼び医療機関へ搬送し、生死の無事を確認して帰路に就く頃には、とっくに日は傾いており夜が訪れようとしていた。


 この時に助けた彼女は、不幸にも全ての記憶を無くしてしまっていた。

 何処の誰なのか分からない。

 その事を不安げに今にも泣き出しそうな彼女のことを見捨てる事が出来ず、毎日病室へと通う日々が続く。

 気が付けば、あの海岸へ足を運ぶ事も少なくなってしまっていた。

 それでも、その事を不満だと感じる事は不思議と無い。


 そうやって始まった不思議な出会いと関係性。

 そんな彼女という存在は、いつの間にか、人生に置いて欠かすことの出来ない大切なものへと変化している。

 今、こうやって。

 隣で微笑むその存在が。あの時の彼女。

 そう。彼女は、現在の妻であり伴侶でもある。


 今、こうして、二人。

 早朝の海岸をゆっくりと歩く。

 ポケットの中には入れたことすら忘れていた小さな小瓶が一つ。

 取り出して光に翳せば、瓶の中の鱗のようなものが、虹色に輝く。

「まるで、綺麗な鱗みたいだね」

 そう言って笑うと、彼女は驚いたように目を見開き、そして柔らかな笑みを浮かべこういった。

「それね、ただの硝子よ」


 果たしてこの小瓶の中身の送り主は誰だったのか。

 その答えは、未だ見つかることはない。

 その謎は、多分、一生、残ったまま、消えることは無いだろう。


「君が、これを流したのかい?」


 その言葉は怖くて言えないまま。聞こえない振りをして、そっと心の中に仕舞い込んだのだから。

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