最終話

 季節はまた秋を迎えた。

 水桶みずおけと花を両手に持ち、すみれはぼんやりと空をながめていた。雲一つない秋晴れの空はどこまでも高く、綺麗な青い色をしていた。

 菫はふと、半年前の出来事に思いを馳せた。

 あの日、薬を返しに行こうと思ったのは何故だろう。何故突然そんな気持ちになったのだろう。アカさんが薬を持ち出してしまったという事実を消し去ることが出来たら。そんな思いが、ずっと頭から離れなかった。こっそり返してしまえば、無かった事に出来るだろうか。もう一度ゼロから始めれば、アカさんは戻って来てくれるのではないか。そんな訳はない。ありえない妄想だと分かっていた。けれど、不思議なまでに、その衝動は抑えられなかった。何かが菫を追い立てたのだ。

 全てを思い出した時、再び現実を突きつけられた。アカさんは戻って来ない。あの笑顔は永遠に失われた。

 だから仇を討とうと思った。

 その後どうなろうと構わないと思った。なのに、警察沙汰には、ならなかった。

「何も起きなかったんだよ」

 今泉は菫に、そう言った。連れられて会いに行った薬局長も、薬は棚の下で見つかったのだと言った。薬を返しに行った時の話をしても、夢でも見たのだろうと言われた。もちろん嘘だ。決して夢などではない。あの夜、強い力で掴まれた手首には、しばらあざが残っていたのだから。

 あれから暫くして、一身上の都合という理由で新留香織にいどめかおりは病院を去った。噂では故郷に帰ったらしい。この出来事を抱えたまま彼女は生きていくのだろうか。それとも、さっさと忘れてしまうのだろうか……。

「お待たせ」

 管理事務所での手続きを終えて出てきた今泉の声を聞いて、菫の意識は現実に戻った。水桶を今泉に渡し、菫は花を持ち直した。



「綺麗ですね」

 一面に咲く彼岸花ひがんばなを眺め、スミレはそう言った。

 墓参りの帰り道、河川敷を埋め尽くすように咲く真っ赤な彼岸花。聡司はふと既視感を覚え、足を止めた。

 スミレは先日、安田薬局長の紹介で近くの調剤薬局に就職が決まった。黒いフォーマルのワンピースを着たスミレは去年より少し大人びて見え、隣で微笑んでいた妻はもう居ない。乗り越えなくてはいけない。忘れることは無くとも、優しい記憶として思い出すことが出来るように、残された者は強くならなくては。

「桐谷さん」

 呼びかけた聡司を見上げ、スミレは「はい」と言って首を傾げた。

「君から見て、僕はおじさんかな」

「まさか。とんでもない」

 勢いよく否定するスミレを見て、聡司は少し笑った。

「何故そんな事を?」

 不思議そうに尋ねるスミレの視線を受けて、聡司は頭をいた。やはり、からめ手は不得手ふえてだ。向いていない。

「正直に言うよ。ある男から、きみの好みを訊いて欲しいと言われた。好きな食べ物とか、男性のタイプとか」

「誰ですか?」

「名前は言えないけど君の知ってる人だ。好きな花なら分かるが花束には向かないと言っておいた」

 聡司は早口で言った後、また小さく笑った。

「とても良い奴なんだ」

 スミレはふと、恥ずかし気に目を伏せた。

「そんな、私なんか」

 微かに頬を染めるスミレを見ながら、聡司は心の中であかねに語り掛けた。

 心配ないよ。僕らの妹は、きっと幸せになる。

 赤い海が風に揺らめく。

「あ、白い彼岸花を見付けました」

 スミレが指をさす。

「アカさんに見せてあげよう」

 スマートフォンを取り出したスミレは、可憐に咲く純白の花を写真に納めた。


終わり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紅き海に咲く 古村あきら @komura_akira

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ