第9話
桜も散り終えた、四月も終わりのある日だった。見覚えのある薄紫のパーカーを視界の隅に捉えて、
外来患者も殆ど居なくなった夕暮れ。歩いていく小さな姿を目で追い、行く先に検討をつけた聡司は、ちょっと出て来ると言って事務室を後にした。
取り壊しの費用が掛かるため、書類庫と廃棄物倉庫として置いてある小さな古い診療棟。塗装が
少し離れた場所に、
「ホワイトボードの落書きは、あなたの仕業ですね」
菫の言葉に、前に立つ女性は
「何の事かしら」
事務の
「インスタのコメントでアカさんを追い詰めたのも、あなたですね」
香織は
「何の話をしているのか、さっぱり分からないわ」
「じゃあ、何故ここに来たんですか」
菫の言葉に一瞬顔をしかめた香織は、腕組みを解き派手なネイルを
「さあね。勘違いを正してあげようと思ったのかも」
菫の背が震えるのが分かった。
「勘違いじゃありません。思い出したんです。薬品庫の入口からアカさんを呼んだのはあなたでしたね。そして」
少しの沈黙の後、菫は大きく肩を上下させた。
「落書きが見付かった日、午前中に会議室を使ったグループがありました。他の職員から随分遅れて、最後に会議室を出てきた人が鍵を閉めました。顔は見えなかったけど、そのネイルと虎の指輪を、私は確かに見ました」
憎しみにあふれた目で睨み付ける香織に、菫は続けた。
「何故忘れていたのか不思議です。辛い想い出と一緒に記憶の隅に追いやっていたのかもしれません」
古い建物に、ヒールで床を
「証拠がないわ」
「証拠なんていりません。確信があれば、それでいい。私は真実を今泉さんに話します」
「信じる訳がないわ」
「試してみましょうか」
菫の言葉に、香織はまた
「そうねえ。百歩譲って私がしたとしましょう。でも罪にはならないわ。逆に、あなたが話せば、あなたの大切なアカさんの犯罪を彼が知ることになる。それでもいいのかしら?」
菫は
「そうですか。では話さないことにします」
そのまま香織に近付き、菫はポケットから手を出した。その手に握られた細い注射器を見て、香織は後ずさった。
「本当は、そんな事どうでもいいの」
言いながら菫は、眼の高さで注射針のキャップを外す。
「アコニチンです。一グラムを溶剤に溶かしました。人ひとり殺すには十分すぎる量です。苦しいですよ」
香織が
「私は、アカさんの
菫は注射器を逆手に持ち、香織に向かって振り上げた。
「やめろ!」
振り上げた腕を掴み、聡司は注射器を取り上げた。
「今泉さん、助けて」
泣きながら駆け寄って来る香織の身体を
「桐谷さん。ありがとう。でも、もういいんだ」
赤い眼が悲し気に聡司を見詰める。何か言いかけて唇を噛み、菫は顔を伏せた。
「毒薬の
「……嘘」
二人の女の口から、同時に同じ言葉が出た。
「事実だ。届け出も
聡司の言葉に、香織がいきり立った。
「じゃあ何。注射器の中身はフェイク?ふざけないでよ。
詰め寄ろうとする香織から菫を
「卑怯なのは君の方だ」
そう言った聡司を、香織は睨み付けた。
「じゃあ、何故アカさんは死ななきゃいけなかったのよ」
「君の知ったこっちゃない!」
人を怒鳴ったのは生まれて初めてかもしれない。聡司は全身を震わす怒りを必死に抑え、手の中の注射器を握りしめた。
聡司の指をそっと外し、菫が注射器のキャップを閉めた。ポケットに納め、再び香織に向き直る。
「私はアコニチンの抽出方法を知っています。憶えておいて。私はいつでも、あなたを殺せることを」
香織は再び後ずさり、声も立てずに転がるように逃げて行った。不規則に反響するヒールの足音が遠くなり、やがて辺りはとても静かになった。
「アコニチンの瓶が見付かったって、薬局長がそう言ったんですか」
菫が尋ねる。
「本当だよ。安田が発見したんだそうだ。本人から聞いた」
それを聞いた菫は両手で顔を
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