第8話

 十二月、もうすぐクリスマスというある日、すみれは置いて行かれた。アカさんは一人で逝ってしまった。救急車を呼び、助けてくださいと泣き叫ぶ菫に、救急隊員は手遅れだと言った。「すでに亡くなっています」と。


 僭越せんえつなのは承知しながら、菫は仏事の手伝いを申し出た。何かしていなければ、頭がおかしくなりそうだった。手順は母の時で憶えたので様々なことを卒なくこなすことが出来て、今泉には感謝された。四十九日が終わり、それから暫くして、菫は今泉家をした。


 夕暮れの公園。滑り台の階段を菫は登っていた。勢いよく滑り降り、また階段を上る。そうしていれば、またアカさんが呼びかけてくれるのではないか。そんな気がした。

 インスタグラムにメッセージを送ったのは誰なのだろう。菫はSNSには、あまり強くない。以前のアカウントのものは時々見ていたが、メッセージまで見ることはなかったため、菫は全く知らなかった。アカさんを追い詰めた犯人を見付けたい、そう思ってはみても、そこから辿ることは出来なかった。

 メッセージの内容が薬の事なのであれば、アカさんが瓶をポケットに入れたのを知っていることになる。あの時もう一人誰かがいたのだろうか。いや、近くに居たのは菫だけだ。では、いったい誰が。思考は堂々巡りを繰り返した。

 アカさん、どこにいるの。早く迎えに来て。会いたい。会いたいよ。

 願いはあざけるように却下され、菫は際限さいげんなく風を切った。空気は冷たく、空には微かに白いものが舞っていた。

 あの時……。幾度となく繰り返した疑問が再び思考を支配する。ふと菫は顔を上げ、滑り台から立ち上がった。

『アカさん、どこですか』

 そんな声が脳裏のうりによみがえった。そうだ。あの時、誰かがアカさんを呼んだ。薬品庫を出た時、菫はその人を見ている筈だ。誰だっただろう。そしてもう一つ、大切なことを忘れている気がする。何だろう。どうして思い出せないんだろう。部分的に記憶が欠落けつらくしているようだった。浮かんで来るのは断片的な場景だけで、前後のつながりが無い。連続して物事を思い出せない。何故、どうして?

 再び滑り台の端に座り込んで、菫はポケットのファスナーを開けた。アカさんから取り上げた黒い瓶は、呪いのアイテムのように思えた。ゲームのようにリセットしてしまえたらいいのに。ふと、そんな風に思った。すべてを消し去ってしまいたい。もしそれが叶うなら。もう一度やり直せるなら。そしたら……。



 三月も終わりに近づいたある日の夜、菫は薬局の入口に立っていた。

 扉の暗証番号は知っていた。薬の音読みのヤク―89―に、西暦の下二文字と月の二文字。毎月変わるけれど、憶えてしまえば簡単だ。菫はそっと扉をくぐり、薬局の中に入った。部屋の電気は消えており、人の気配はなかった。

 調剤室の扉の手前を右に入ると薬品庫がある。施錠せじょうされた薬品棚の前に立ち、菫は小さな瓶を握りしめた。ここからすべてが始まったのだ。幸せになるはずだったアカさんの人生は、小さなミスによって狂わされた。

「何をしている」

 棚の前のカウンターに瓶を置こうとした時、後ろから鋭い声が飛んだ。数回の明滅の後、部屋の灯りが点く。まばゆさに目がくらみ、まぶたを閉じたままで菫は後ろを振り向いた。

 腕をつかまれ目を開けると白衣が見えた。視線を上げると、安田薬局長の顔があった。

「桐谷くん」

 掴まれた手から落ちた黒い瓶を空中で受け止め、薬局長は痛ましげに菫の顔を見た。

「ごめんなさい。私が盗みました」

 咄嗟とっさにそう告げていた。アカさんは悪くない。原因をつくったのは私だ。私がやったのだ。

 手首を掴む指に力が入った。

「嘘をつくな!」

 怒鳴りつける声は、とても苦し気に聞こえた。

 薬局長は手を離し、黒い瓶をカウンターに置いた。

「桐谷くん、すまなかった。もういい。もう、いいんだ」

 菫は黙って首を振った。聞きたくない、何も聞きたくない。瞼をきつく閉じ、両手で耳をふさいだ。音と光が無くなった世界で、突然魂が抜けるような感覚が襲った。急いで目を開けた途端、世界が回る。暗くなっていく視界に被さるように、忘れ去っていた光景がよみがえった。

「桐谷くん、どうした。しっかりしろ」

 抱き起こそうとする薬局長を突き飛ばし、菫は薬局を飛び出した。もう何も聞こえなかった。夜道を全速力で駆けながら、菫はすべてを終わらせようと思った。

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