第7話

 一度だけ行ったことがあるアカさんのマンションは立派で、すみれは急に気後れした。私は病院を辞めた人間だ。今さら会いたいなんて言っても迷惑に違いない。ストーカーじゃあるまいし、いきなり押し掛けたらきっと嫌われる。そう思うと電話も出来なかった。マンションの横にある公園の滑り台に上り、アカさんが住んでいる階の窓を見ては滑り降りた。

「スミレちゃん」

 アカさんの声が聞こえた気がして顔を上げると、なつかしい笑顔が見えた。嬉しくて、ただ嬉しくて、菫は駆け出していた。


 アカさんから家政婦として来てくれないかと言われて、菫は舞い上がるような気持だった。提示された給料は多額で、生活していくに十分なものに思えた。家事は慣れている。菫は一生懸命働いた。給料のためではなくアカさんに喜んでもらいたくて、精いっぱい力を尽くした。

 菫は幸せだった。こんな日が、いつまでも続けばいいと思った。

 けれど、運命はある日突然、牙をむいた。

 十月に入った途端、アカさんの精神は不安定になった。ふさぎ込んだかと思うと突然、不自然に明るく振舞い、そして時々ヒステリーを起こした。


 ベッドの上に洗濯物を置いた後、菫は何気なくチェストの上に目をやった。結婚式の写真があった。輝くような、そんな表現がぴったりなアカさんの笑顔。ああ、アカさんだ。そう思った。

 よく見たくて写真に手を伸ばした時だった。

「何してるの!」

 刺すような声がした。振り向くと真っ白な顔をした女性が射貫くような目で菫を見ていた。ショックだった。菫が愛してやまないアカさんの優しい笑顔は、そこには影も形もなかった。

「アカさん」

 そう呼びかけながらも、頭の中には奇妙な疑問すら芽生えた。この人は、いったい誰だろう。私が知っているアカさんは、いったい何処へ消えてしまったのだろう。

 今泉が帰って来て、菫はアカさんの涙を初めて見た。

「ごめんなさいスミレちゃん」

 そう言って泣く目の前の女性をぼんやり見ながら、菫はまた、この人は誰だろう、そう思った。


 数日が過ぎたある日、買い物から戻った菫がキッチンに入ると、アカさんの後ろ姿があった。テーブルにはティーカップが二つ。そして彼女の手に握られていたのは、忘れもしないあの黒い瓶だった。

「アカさん、駄目!」

 咄嗟に後ろから瓶を取り上げた菫に、アカさんは赤い眼を向けた。疲れ果てたような、何もかもが嫌になったような、そんな表情だった。アカさんは死のうとしたのだろうか。そして、菫を道連れにしようとしたのだろうか。

 それも良いかもしれない。アカさんが、私を選んでくれたのなら。そう思いかけて、ふと手の中の毒薬の瓶に目が行った。

「駄目。毒薬で死ぬのは、とても苦しいから」

 何故もっと他の言葉で止められなかったのだろう。母の死に顔は凄絶だった。アカさんには、あんな風になって欲しくなかった。あなたが望むなら一緒に逝く。でも、あんな死に方は嫌。

 アカさんは微かに笑い、椅子に腰を下ろした。カップに紅茶を注ぐ。毒は入れていないからと勧められ、菫は紅茶に口をつけた。

「毒薬が紛失したって大騒ぎになって初めて、自分がうっかりポケットに入れていたのに気付いたの」

 悲し気な微笑を浮かべながら、アカさんは言った。

「あっという間に大事になってしまって、誰にも言えなくなった。看護師としてのプライドが邪魔をしたの。情けないでしょう。笑っちゃうわよね」

「アカさん」

 笑うものか。菫だって同じだった。叱られたくない、そんな子供の様な理由で口を噤んだ。そしてアカさんを巻き込んでしまった。

「ホワイトボードの落書きを見てぞっとした。誰かが見ていたんだって。誰かの読み間違いによってあなたが疑われることになっても、私は本当のことが言えなかった」

 ごめんなさい、とアカさんは言った。

「インスタにコメントが送られてきたのは、ちょうど妊娠が分かった頃だった。『あなたの罪を知っている』。私には、呪いの言葉のように思えたわ」

 アカさんの頬が急激に白くなる。コメントを読んだときの衝撃が窺えた。

「流産して、とても辛かった。悲しくて苦しくて、どうしようもなかった。でも日にちが過ぎるうちに、こんな風に思えたの。禊は済んだんじゃないか。もう許してもらえたんじゃないかって。コメントは一回きりだったから、そんな勝手なことを考えてしまったのね」

 何も言えずにただ聞いている菫の眼を覗き込み、アカさんは続けた。

「白い彼岸花ひがんばながあまりに綺麗だったから、新しいアカウントでアップしたの。そしたら」

 アカさんは音を立てて息を吸った。

「コメントが入った。『あなたの罪を知っている』。全く同じ言葉だった」

 身体を震わせ、蒼白な顔でアカさんは言った。

「スミレちゃん。あれは、……あなたなの?」

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